益田 広尭(ますだ ひろたか、宝永7年(1710年) - 明和2年2月2日1765年3月22日))は、益田家第28代当主。長州藩永代家老・須佐領主益田家9代。通称は采女、越中、孫吉、勘解由。

生涯編集

宝永7年(1710年)、長州藩寄組益田就高の子として生まれる。初めは、親戚筋にあたる繁沢元雄の娘を正室に迎え、繁沢貞雄(通称:宇右衛門、元雄の子か)の養子となって繁沢利充(はんざわ としみつ)を名乗った。しかし、のちに父就高が、孫左衛門就固の子で景祥元祥次男)の男系の孫であった縁で、男子の居ない本家益田元道(もとみち)に乞われて養子に迎えられることとなり、繁沢家の家督を阿川毛利家から迎えた繁沢氏充に譲った。藩主の毛利宗広より偏諱を授与されて名を益田広尭に改め、寛保2年(1742年)には元道の死去により益田本家の家督を相続する。

加判役(家老)となり藩主毛利宗広重就に仕えた。寛延3年(1750年)、城代家老。同年6月、当職(国家老・執政)であった義兄で実家の婿養子である益田元方が隠居したため、後任の当職となり、逼迫した藩財政の改革に携わる。宝暦3年(1753年)1月、藩主親政を志す重就の意向で当職を免じられ、重就の実兄の右田毛利広定と交代する。

明和2年(1765年)2月2日死去。享年56。家督は嫡男の就祥が相続した。

参考文献編集