矢作城

千葉県香取市にあった日本の城

矢作城(やはぎじょう)、または大崎城(おおさきじょう)は、千葉県香取市大崎にあった日本の城。「大崎城跡」として香取市指定史跡[1]

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矢作城
千葉県
矢作城(大崎城)
矢作城(大崎城)
別名 大崎城
天守構造 なし
築城主 国分泰胤
築城年 不明
主な城主 国分氏
遺構 土塁、堀
指定文化財 香取市指定史跡「大崎城跡」[1]
位置 北緯35度52分18.7秒 東経140度29分15.3秒 / 北緯35.871861度 東経140.487583度 / 35.871861; 140.487583 (矢作城)座標: 北緯35度52分18.7秒 東経140度29分15.3秒 / 北緯35.871861度 東経140.487583度 / 35.871861; 140.487583 (矢作城)
地図
矢作城の位置(千葉県内)
矢作城
矢作城
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概要

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矢作城は大崎城とも呼ばれ、城址は香取市大崎字城内を中心としている。本矢作城主第4代の国分胤長の第二子・泰胤が城替えして拠ったもので、旧城には一族の行常が残った。

大崎の地はもともと、足利家氏の次男である斯波宗家の領有した大崎庄であったが、斯波氏がここを離れ、奥州を本拠とするようになったので、国分泰胤はその後を受けて領主となった。矢作城は、本矢作城に比べかなり大きく、さらに要害で、耕地が開けて佐原にも近く、交通至便である。本矢作城から移ったのは、14世紀の初め頃と言われる[2]

戦国末期になると、他の千葉氏の城と同じく北条氏の配下に属したが、何度か里見氏の属将正木氏に攻められている。これにより、永禄8年(1565年)に一度落城したとの説がある。その後、正木氏は小見川を捨てて上総に引き上げたので、国分氏は再び城地を回復したが、天正14年(1586年)に再び正木軍の攻撃を受けて落城した。

天正18年(1590年)、矢作城は豊臣秀吉下の徳川家康の軍勢により開城させられた。このとき、国分氏は常陸鹿島惣大行事のもとへ逃れて庇護を受け、のちに水戸家の食客となった[3]

構造

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矢作城は、「城の内」と「外城」に分けられる。

城の内は、本妙寺の横から与倉を通って国道51号線に抜ける道路の北側にあり、本丸跡と妙見社が祀られた跡がある。外城は、本妙寺の南で、白旗神社のあたりまで多くの空堀があったという。大手門はこの南にあったと推定される[4]

アクセス

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脚注

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  1. ^ a b 「Vol-012.香取の中世遺跡-大崎城跡-」香取市公式HP
  2. ^ 大多和晃紀『関東百城』有峰書店新社、p.42
  3. ^ 府馬清『房総の古城址めぐり 下』有峰書店新社、p.81
  4. ^ 『日本城郭大系 第6巻』新人物往来社、p.65

参考文献

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