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石抹明安

モンゴル帝国の将軍

石抹明安(せきまつ めいあん、1164年 - 1216年)は、初期のモンゴル帝国に仕えた契丹迪烈部出身の将軍。の皇后を出したウイグルの王族出身の契丹貴族蕭氏の末裔。子に石抹咸得卜。同族に石抹也先がいる。

生涯編集

桓州(現在の中国遼寧省桓仁満族自治県付近)出身。

の西京留守紇石烈胡沙虎配下の将軍の一人であったが、1212年ムカリの率いるモンゴル軍にの恒州、昌州、撫州が攻略された後、紇石烈胡沙虎は、後続の平章事完顔胡沙の部隊と共に反撃する計画を立て、石抹明安をモンゴル軍の偵察に向かわせたところ、明安は自分の率いる部隊毎モンゴル側に寝返った。

明安が金軍の詳細な情勢をチンギス・ハーンに伝えたため、モンゴル軍は紇石烈執中(胡沙虎)と完顔胡沙の部隊の合流前に急襲することとなった。この作戦において明安はモンゴル軍を先導した。紇石烈執中は明安の離反もあり、モンゴル軍の動向が掴めず囮作戦に乗ってしまい、平原での野戦に引き出された結果、モンゴル軍に包囲殲滅された。

また、1214年の金の宣宗による開封遷都の時に契丹族、タングート族、テュルク族などの混成騎兵部隊の糺軍が起こした反乱に際して耶律阿海らとともに中都攻略を強く進言し、その結果、チンギス・ハーンは中都攻略軍派遣を決断した。中都は10ヶ月の包囲の後、1215年に留守の完顔福興の自害により陥落した。漢軍兵馬都元帥となり、太保に叙せられた。このため明安太保と呼ばれた。

1216年に53歳で逝去し、子の咸得卜が跡を継いだ。