石橋 うめ(いしばし うめ[1]1888年明治21年) - 1971年昭和46年)8月9日)は、日本55内閣総理大臣である石橋湛山福島県伊達郡保原町(現在の伊達市)出身。

いしばし うめ

石橋 うめ
生誕 岩井 うめ
1888年
日本の旗 日本 福島県伊達市
死没 1971年8月9日
日本の旗 日本 東京都中央区明石町
死因 肝臓癌
配偶者 石橋湛山(夫)
子供 石橋湛一(長男)
千葉歌子(長女)
石橋和彦(次男)
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経歴

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旧藩時代、米沢藩士として家老職を務めた名門・岩井家出身の岩井尊記の三女として生まれる。東小松川松江尋常高等小学校の教師をしていたうめは、東京経済新報社主幹・三浦銕太郎の媒酌で1912年大正元年)11月に石橋湛山と結婚する。ちなみにうめは、福島県二本松出身の教師であった三浦の妻の教え子であった[2]

1944年昭和19年)2月には海軍主計中尉だった次男・和彦がマーシャル群島クェゼリン環礁で戦死した[3]

夫の湛山は1956年(昭和31年)12月23日内閣総理大臣に就任するが、病気を理由に翌年の1957年(昭和32年)2月25日に退任。退陣後はうめは夫を献身的に看病したといわれている[3]

1971年(昭和46年)8月9日、肝臓癌のため聖路加国際病院で死去。82歳没[4]

脚注

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  1. ^ 梅子、むめとも表記される。
  2. ^ 「総理大臣の妻たち」(小林吉弥、日本文芸社1995年
  3. ^ a b 天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 石橋湛山・うめ夫人”. exciteニュース. 2021年4月17日閲覧。
  4. ^ 朝日新聞 1971年8月10日朝刊
先代
鳩山薫
内閣総理大臣夫人
1956年12月23日 - 1957年2月25日
次代
岸良子