笠原 綱信(かさはら つなのぶ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将後北条氏の家臣。通称は玄蕃助で、武家官位としての美作守も称した。

生涯編集

笠原越前守家の笠原信為康勝親子の縁戚とも、信濃の国人である笠原清繁の一門とも言われるが確かな身元は不明。信為は北条早雲(伊勢新九郎盛時/宗瑞)に従って関東に入った笠原氏で、綱信は伊豆の国人の笠原氏という説もある。笠原氏は伊豆衆21家の一家で、中でも綱信は伊豆衆筆頭と言われる。生没年は不詳だが、名に「綱」が入っていることから北条氏綱の代にはすでに有力家臣として活躍していたと考えられる。氏康の代には評定衆・北条五宿老に名を連ねており、重臣だったことがうかがえる。

清水綱吉とともに伊豆国の郡代を務めていたとされ、大永7年11月20日に三嶋大社の梵鐘製作ののための人夫調達を命じる氏綱の朱印状の宛先にある「笠原殿・清水殿」はこの2名とみられている[1][2]。第一次国府台合戦でも戦功を挙げ、永禄元年(1558年)に古河公方足利義氏が鶴岡八幡宮に参詣した際に饗応役を務めた。翌年作成された小田原衆所領役帳には相模国多古(小田原市)や伊豆国矢田(三島市)など6か所で計447貫150文の所領が記載されている[1]

永禄年間に同じ玄蕃助・美作守を名乗った息子(実名は不詳)に代替わりをしたとみられるが、天正3年にその息子が死去して跡継ぎの千松が幼少であった為に、松田憲秀の子である政晴陣代の名目で笠原美作守家を継いだ[2]

脚注編集

  1. ^ a b 『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年、ISBN 4490106963 P196-198「(笠原)綱信」
  2. ^ a b 岡潔「笠原綱信」「笠原美作守」(『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年) ISBN 978-4-642-01348-2

関連項目編集