第二次朝鮮スパイ事件(だいにじちょうせんスパイじけん)とは、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)によるスパイ事件[1][2]1953年昭和28年)9月20日警視庁摘発(検挙)[1][2][3][4]朝鮮戦争さなかの事件である[4]

概要 編集

この事件は、1950年(昭和25年)9月9日に摘発された第一次朝鮮スパイ事件で、日本におけるスパイ組織網を破壊された北朝鮮が組織再編のため、1952年5月、拠点のひとつであったイギリス領香港からパナマ船籍の貨物船に、北朝鮮工作員の大谷正夫こと金一谷(50歳)および工作資金2,000ドルを所持した案内係の連絡員を中国人船員の手引きで潜入させ、同人の船員手帳を用いて福岡県若松市(現、北九州市若松区)の若松港から密入国させたもので、以後、金一谷が第一次スパイ事件で摘発を逃れていた残党工作員や新規獲得の工作員を用いて工作活動を展開していた事件である[2][3][4]。金一谷は、社会安全省(内務省)第1処第11部に所属していた[1]

密入国に成功した金一谷は直ちに京都市に潜入し、近畿地方各地に所在する組織と連絡をとり、合資会社「大谷商店」を立ち上げて同商店の代表大谷正夫として工作活動を行うことした[4]。大谷正夫こと金一谷は、連絡員から受け取った工作資金2,000ドルを携行して東京都に移り、香港から派遣される際に指令を受けていた工作員Aとの接触を試みたもののこれには失敗し、別の工作員Bと連絡を取って、Bから紹介された女性工作員のCをともない、都内に貿易会社「大谷商店」を開設した[4][注釈 1]。Cには東京で自身の身のまわりの世話と連絡係をさせた[4]

東京での金一谷は、「大谷商店の大谷正夫」として活動し、

といった軍事関連情報を収集して北朝鮮当局に報告した[3]

警視庁は、1953年9月20日、金一谷のアジトを急襲し、金と女性工作員Cを逮捕し、同年10月以降1954年1月までの間に、工作員Bを含む6名を次々に検挙した[4]。金一谷については1953年11月から裁判が開始し、1955年(昭和30年)7月7日最高裁判所において、出入国管理令および外国人登録法違反で懲役1年の判決が下された[3][4]。金一谷と一緒に密入国した連絡員は、金に先立って逮捕されており、1953年12月22日に大韓民国へ向け強制送還させられた[4]。金一谷は、1957年、北朝鮮に密出国した[2]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 当初の指令にあった工作員Aとの連絡がなかなかつかないことから、工作活動は計画の見直しを迫られた[4]。金一谷は香港からの指示を受けるためにBを香港に派遣した[4]。これが日本警察の監視網にかかり、Cの尾行調査から金一谷のアジトの摘発につながった[4]。一方、金一谷ととともに香港から若松港へ貨物船で密入国した連絡員は、金一谷を門司まで案内して2,000ドルをそこで手渡して別れたが、何かの手違いで帰れなくなり、金の持ち合わせもなかったため脱出を諦めて上京し、中央区銀座の銀行建設現場で寝ていた[4]。そこを巡回中の警察官に見つかり、職務質問の結果、密入国容疑で逮捕された[4]。この連絡員の自供からも金一谷の存在が浮上した[4]。こうして、工作員Bと連絡員の両面から金一谷の捜査が進められた[4]

出典 編集

  1. ^ a b c 清水(2004)p.218
  2. ^ a b c d 高世(2002)p.305
  3. ^ a b c d 『戦後のスパイ事件』(1990)pp.49-50
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 特定失踪者問題調査会特別調査班 (2021年2月4日). “第2次朝鮮スパイ事件(日本における外事事件の歴史2)”. 調査会ニュース. 特定失踪者問題調査会. 2022年2月22日閲覧。

参考文献  編集

  • 清水惇『北朝鮮情報機関の全貌―独裁政権を支える巨大組織の実態』光人社、2004年5月。ISBN 4-76-981196-9 
  • 高世仁『拉致 北朝鮮の国家犯罪』講談社〈講談社文庫〉、2002年9月(原著1999年)。ISBN 4-06-273552-0 
  • 諜報事件研究会『戦後のスパイ事件』東京法令出版、1990年1月。 

関連文献 編集

  • 外事事件研究会『戦後の外事事件―スパイ・拉致・不正輸出』東京法令出版、2007年10月。ISBN 978-4809011474 

外部リンク 編集