細川行孝
日本の江戸時代前期~中期の大名。肥後熊本藩主一門細川立孝長男で、肥後宇土藩初代藩主(3万石)。従五位下丹後守
細川 行孝(ほそかわ ゆきたか)は、肥後宇土藩の初代藩主。細川立孝の長男。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛永14年3月4日(1637年3月30日) |
死没 | 元禄3年6月4日(1690年7月9日) |
改名 | 宮松(幼名)→行孝 |
墓所 | 泰雲寺 |
官位 | 従五位下、丹後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱→綱吉 |
藩 | 肥後宇土藩主 |
氏族 | 細川氏 |
父母 | 父:細川立孝、母:慈広院(布施野氏) |
兄弟 | 行孝、亀松、女(大炊御門経光室) |
妻 | 正室:佐舞(三・さん/源立院、加来佐左衛門の娘) |
子 | 宮松、三之助、有孝 |
生涯
編集寛永14年(1637年)3月4日に熊本八代で生まれた。八代城主だった祖父・細川忠興は、嫡男ですでに当主を継いでいた熊本藩主・細川忠利たちの反対を押し切り、自分の隠居所である八代城と隠居領である八代領9万5000石を、可愛がっていた四男の立孝(立允ともいう)に継がせ、八代支藩の設立を考えていた。しかし正保2年(1645年)閏5月に立孝が死去、忠興も同年末に死去したため、この話は一旦立ち消えとなり、八代は細川本藩領、八代城代を本藩家老の松井家が代々勤めることとなった。
忠利の跡を継いだ細川光尚は、八代の代わりに宇土・益城郡内に3万石の領地を設け、立孝嫡男である従弟の行孝に授けた。ここに支藩としての宇土藩が成立した。
行孝の藩政における功績として大きなものは、元禄3年(1690年)に上水道(轟泉水道)を設置したことである。これは当時、宇土市街の水質が悪かったためであった。同年6月4日、54歳で死去し、跡を三男の有孝が継いだ。
『土芥寇讎記』において、藩政は熊本本藩に準じた指導下にあったとされ、行孝は領民を憐れみも貪りもしなかった、と記されている。さらに行孝自身については、悠然としかし陰気であり、和歌道に夢中であるが、歌道は余力でやるべきことであり、つまり政治を行うべき、と評されている。
系譜
編集父母
- 細川立孝(父)
- 慈広院 - 布施野氏、側室(母)
正室
- 佐舞、三、源立院 - 加来佐左衛門の娘
子女
- 細川宮松
- 細川三之助
- 細川有孝(三男) 生母は源立院