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耶律安端(やりつ あんたん、生年不詳 - 952年)は、(契丹)の皇族。太祖耶律阿保機の弟にあたる。は猥隠。

経歴編集

耶律撒剌的の五男として生まれた。太祖5年(911年)、兄の耶律剌葛耶律迭剌耶律寅底石らとともに阿保機に対する反乱を計画した。安端の妻の粘睦姑の密告で露見したが、阿保機は弟たちを処刑するに忍びず、弟たちとともに山に登って生け贄を捧げ、天地に誓って罪を許した。粘睦姑は晋国夫人に封じられた。

6年(912年)、安端は再び剌葛・迭剌・寅底石らとともに阿保機に叛いた。7年(913年)、兄弟たちとともに西山で阿保機の帰路を遮ろうとした。阿保機が西山を避けて赤水城にいたったので、安端は阿保機に謝罪し、許された。しかしまた兄に叛き、敗れて捕らえられ、杖罰を受けて許された。

神冊3年(918年)、大内惕隠となり、雲州と西南諸部を攻撃した。天顕元年(926年)、渤海に対する征戦に従軍し、老相の率いる3万人あまりの兵を撃破した。安辺府・鄚頡府・定理府が離反すると、安端がこれを平定した。太宗が即位すると、安端はその即位を支持した。4年(929年)、北院夷離菫となった。12年(937年)、西部の民を本土に帰還させた。会同3年(940年)8月、白川州に私城を築いた。6年(943年)12月、後晋に対する征戦に参加した。7年(944年)1月、兵を率いて雁門に進出し、忻州・代州を下した。大同元年(947年)4月、世宗が即位すると、兵を率いて呼応した。6月、耶律李胡と泰徳泉で戦って撃破した。

天禄元年(947年)9月、東丹国主となり、明王の号を賜った。5年(951年)9月、子の耶律察割が世宗を殺害して反乱を起こした。察割は穆宗に捕らえられて処刑されたが、穆宗は通謀の罪を許し、安端を田里に釈放させた。応暦2年(952年)12月、死去した。

伝記資料編集

  • 遼史』巻1 本紀第1
  • 『遼史』巻64 表第2