芦田高子

日本の歌人(1907-1979)

芦田 高子(あしだ たかこ、1907年明治40年)10月1日 - 1979年昭和54年)3月13日)は、日本歌人

芦田 高子
あしだ たかこ
誕生 1907年10月1日
日本の旗 日本岡山県勝田郡勝北町
(現・津山市
死没 (1979-03-13) 1979年3月13日(71歳没)
石川県金沢市
職業 歌人
最終学歴 梅花女子専門学校 国文科
ジャンル 短歌
代表作 『内灘』(1954年)
『北ぐに』(1959年)
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経歴

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芦田高子は、岡山県勝田郡勝北町(現・津山市)に生まれた。高等女学校を経て、梅花女子専門学校(現・梅花女子大学短期大学部)国文科を卒業後、婦女世界社の編集部に入社。そのころ二つ年下の医学生と知り合い、1931年(昭和6年)に結婚。門野高子となる。高子は、学資を援助したり面倒をみて医師に育てたという。その後、パルモア英学院(現・パルモア学院専門学校啓明学院)、三省堂大阪支店出版課に勤務した。

そして、夫が能登の生地で開業することとなり、高子も石川県鹿島郡鳥屋町(現・中能登町)に移住。主婦としての仕事と共に医業の雑務などもこなした。1947年(昭和22年)「新歌人社」を創立[1]、歌誌「新歌人」を創刊し主宰する。しかし、歌誌の編集を手伝わせていた愛弟子のH子と夫との間に関係ができてしまう。そして夫は次第に高子に暴力を加えるようになる。1951年(昭和26年)離婚、芦田姓に戻す。青春をかけて育てた夫に裏切られて、高子は夫を徹底的に憎み呪いつづけたという。同年、第一歌集 「流檜」(新興出版社)を出版する。

1953年(昭和28年)高子は、石川県河北郡内灘村(現・内灘町)で起きたアメリカ軍の試射場に対する反対運動、「内灘闘争」に参加する。そして1954年(昭和29年)に歌集「内灘」(第二書房)、1959年(昭和34年)に歌集「北ぐに」(日本文芸社)を出版。1963年(昭和38年)、当時のソ連にて、歌集「内灘」と「北ぐに」が「芦田高子撰集」として翻訳出版される。1966年(昭和41年)、中国作家出版社からの「驚雷集」に、歌集「内灘」と「北ぐに」の作品が掲載される[2]

しかし同年、神戸駅で列車からホームに降りて弁当を買った時、お釣りに手間取る間に列車が動き出し、飛び乗ろうとして転落。全身の骨11本を折る全治8ヶ月の重傷を負う。病院では全身が包帯で白い達磨のようだったという。1968年(昭和43年)歌集「兼六園」(新歌人社)を出版。1971年(昭和46年)金沢市尾山神社境内に歌碑が建てられる。同年、歌集「白き魔」(北国出版社)を出版。また同年、北國文化賞を受賞。

1973年(昭和38年)早発生脳軟化症により金沢市の城北病院に入院(その後、石川県立高松病院に転院) 。1974年(昭和39年)「芦田高子選集〈短歌編〉」(北国出版社)が出版される。

1979年(昭和54年)3月13日、金沢市の石川県立済生会病院にて死去。71歳だった。

脚注

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  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 35頁。
  2. ^ 芦田高子|プロフィール|HMV&BOOKS online”. HMV&BOOKS online. ローソンエンタテインメント. 2022年12月3日閲覧。