葉仙鼐(ようせんだい、生年不詳 - 1306年)は、軍人政治家ウイグル人

経歴 編集

父の土堅海牙は、武人としてチンギス・カンオゴデイに従い、西夏の平定に功績があった。

葉仙鼐は幼いころからクビライに仕え、雲南征討において軍の先頭に立った。憲宗9年(1259年)、南宋鄂州城に対する攻撃に参戦して、その外城を奪った。中統元年(1260年)、アリクブケに対する征戦に参加して、敵の部隊に勝利をおさめた。中統2年(1261年)、李璮の乱の鎮圧に従事した。のちに西道都元帥・金虎符・土蕃宣慰使に任じられた。葉仙鼐は諸民族の事情に精通しており、適地に駐屯地を設けて、諸民族らを服属させた。宣慰使をつとめること24年、雲南行省平章政事に転じた。まもなく江西行省平章政事に異動した。鍾明亮を攻撃して捕らえ、その反乱を鎮圧した。

至元31年(1294年)、成宗テムルが即位すると、召還されて陝西行省平章政事に転じた。隠退して隴右に帰り、大徳10年(1306年)に家居して死去した。協恭保節功臣・太保儀同三司上柱国・鞏国公の位を追贈された。は敏忠といった。

子の完沢は太子詹事となり、金紫光禄大夫・中書平章政事に進んだ。

伝記資料 編集

  • 元史』巻133 列伝第20