蕭 子隆(しょう しりゅう、474年 - 494年)は、南朝斉皇族。隨郡王。武帝蕭賾の八男。は雲興。

経歴編集

蕭賾と王淑儀のあいだの子として生まれた。はじめ枝江公に封じられた。482年建元4年)、武帝が即位すると、子隆は隨郡王に改封された。485年永明3年)、輔国将軍・南琅邪彭城二郡太守となった。486年(永明4年)、江州刺史に任じられた。赴任しないうちに、唐寓之の乱が平定されると、子隆は持節・都督会稽東陽新安臨海永嘉五郡諸軍事・東中郎将・会稽郡太守に転じた。ついで中書令を兼ねた。子隆は尚書令王倹の娘を妃として迎えた。子隆は武帝の諸子の中では最も才能に優れており、武帝は子隆のことを「我が家の東阿なり」と評し、王倹は「実は皇家の藩屏なり」と答えた。489年(永明7年)、中護軍となった。侍中・左衛将軍の位に転じた。490年(永明8年)、魚復侯蕭子響に代わって使持節・都督荊雍梁寧南北秦六州諸軍事・鎮西将軍・荊州刺史となった。始興王蕭鑑益州刺史を退任すると、子隆が都督益州諸軍事をつとめた。491年(永明9年)、自ら王府と州の事務を総覧した。493年(永明11年)、晋安王蕭子懋雍州刺史となると、子隆は都督の任を解かれた。蕭昭業が即位すると、子隆は征西将軍に進んだ。494年隆昌元年)、侍中・撫軍将軍の位を受けた。同年(延興元年)、中軍大将軍に転じた。

子隆は21歳でその体格は肥満しており、蘆茹丸を常に服用して減量につとめていた。9月、宣城公蕭鸞の命により殺害された。『文集』が刊行されて当時に通行した。

伝記資料編集