藤原公成

平安時代中期の公卿。藤原実成の長男。従二位、参議、権中納言。

藤原 公成(ふじわら の きんなり)は、平安時代中期の公卿藤原北家閑院流中納言藤原実成長男官位従二位権中納言白河天皇外祖父滋野井別当と号す。

 
藤原 公成
時代 平安時代中期
生誕 長保元年(999年
死没 長久4年6月24日1043年8月1日
改名 犬君(幼名)→公成
別名 滋野井別当
官位 従二位権中納言
主君 一条天皇三条天皇後一条天皇後朱雀天皇
氏族 藤原北家閑院流
父母 父:藤原実成、母:藤原陳政の娘
養父:藤原公季
兄弟 公成祉子源顕基
藤原定佐の娘
藤原知光の娘
小式部内侍
実季、慶信、頼仁、茂子
特記
事項
白河天皇の外祖父
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経歴

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幼名は犬君。幼くして祖父である太政大臣藤原公季養子となり、その溺愛を受ける。公季は公の行事にあたっても常に公成を同道し、また皇太子敦良親王(後の後朱雀天皇)に対しても痛切に公成の引き立てを懇願したという。その様子は親王から些か滑稽に思われる程だったと伝えられる(『大鏡』)。

一条朝末の寛弘8年(1011年元服と同時に叙爵し、同年従五位上・侍従に叙任される。右兵衛佐を経て、長和2年(1013年右近衛少将に任ぜられると、長和3年(1014年従四位下、長和5年(1016年)従四位上次いで正四位下寛仁元年(1017年)右近衛権中将と近衛次将を務めながら昇進を重ねた。また、寛仁元年(1017年)敦良親王が春宮に立てられると、公成は春宮権亮を兼ねている。

寛仁4年(1020年蔵人頭に補せられると、これを約6年に亘って務めたのち、万寿3年(1026年参議に任ぜられて公卿に列す。参議任官と同時に近衛中将や春宮権亮などの兼官は全て止められていたが、長元3年(1030年)左兵衛督を、長元7年(1034年)には検非違使別当を兼帯し、この間の長元5年(1032年従三位、長元8年(1035年正三位と昇叙されている。

長元9年(1036年)かつて春宮権亮として仕えていた敦良親王が即位後朱雀天皇)。公成は特別な昇進に与ることはなかったが、同年の大嘗会にて御禊御後次第司長官を務めたほか、長元10年(1037年藤原嫄子中宮冊立に伴って、中宮権大夫を兼帯した。翌長暦2年(1038年)正月に父の中納言・藤原実成大宰府天満宮を支配していた安楽寺との紛争により解官除名されてしまうが、公成は事件の影響を受けなかったらしく、同年12月に従二位に叙せられている。

長久4年(1043年)正月に上席の参議であった源隆国を超えて権中納言に昇進する。しかし、同年6月に検非違使別当を辞任し、同月24日に薨去享年45。

公成自身は早世したこともあって官位は従二位・権中納言に終わったが、娘の茂子が大納言藤原能信の養女として後三条天皇の妃となり白河天皇を産んだことを契機に多くの国母を輩出し、後世において閑院流は大いに繁栄した。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 藤原北家山陰流出身
  2. ^ 尊卑分脈』による。『栄花物語』では頼忍とする。

参考文献

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  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 宮崎康充編『国司補任 第四』続群書類従完成会、1990年
  • 市川久編『近衛府補任 第一』続群書類従完成会、1992年