藤原家保

日本の平安時代の公家

藤原 家保(ふじわら の いえやす)は、平安時代後期の公卿。六条修理大夫藤原顕季の次男。

 
藤原 家保
時代 平安時代後期
生誕 承暦4年(1080年
死没 保延2年8月14日1136年9月11日
別名 中持王
官位 従三位参議
主君 堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇
氏族 藤原北家魚名流
父母 父:藤原顕季、母:藤原経平の娘
兄弟 長実家保顕輔
藤原宗子藤原隆宗の娘)
顕保家成家長保説保成家房宗保頼保、覚芸、藤原忠宗室、源雅通
テンプレートを表示

生涯 編集

各国の受領を歴任し、長承3年(1134年従三位参議に至る。白河院政期において比類なき信任を受け、白河院司受領、院庁別当を歴任。家保の一家は、兄である長実の系統を凌いで善勝寺流の嫡流の地位を占めるに至った。 だが、白河法皇が没して鳥羽院政期に入ると家保と嫡男の顕保は失脚状態になり、代わりに早くから鳥羽上皇に仕えていた三男の家成が台頭する。家成は鳥羽上皇の支持を背景に父の持っていた利権を独占して鳥羽院政の中心を担う存在となった。その子孫は羽林家四条家として現代に至るまで続いたのに対し、顕保は公卿になれないまま播磨守在任中に没し、他の男子も崇徳上皇[1]の側近となって家成に対抗しようとするものの、保元の乱によって没落した[2]

受領時代に培った経済力を生かし、証金剛院など多くの堂塔の造営にも貢献した。邸宅は三条東洞院(京都市中京区)にあったと伝わる。

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ 家保は崇徳天皇の即位以前より家司として仕え、妻の宗子は天皇の乳母であった。
  2. ^ 佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」『日本史研究』598号(2012年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5
  3. ^ 藤原北家小野宮流出身
  4. ^ 『中右記』大治4年正月24日条
  5. ^ 『台記』久安元年4月4日条