藤原広嗣
藤原 広嗣(ふじわら の ひろつぐ)は、奈良時代の貴族。藤原式家の祖である参議・藤原宇合の長男。官位は従五位下・大宰少弐。
藤原広嗣『前賢故実』より | |
時代 | 奈良時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 天平12年11月1日(740年11月24日) |
官位 | 従五位下、大宰少弐 |
主君 | 聖武天皇 |
氏族 | 藤原式家 |
父母 |
父:藤原宇合 母:石上麻呂または蘇我倉山田石川麻呂の娘 |
兄弟 | 広嗣、良継、清成、綱手、田麻呂、百川、蔵下麻呂、藤原魚名室、藤原巨勢麻呂室、掃子 |
経歴
編集天平9年(737年)4月から8月にかけ、聖武朝前半の朝廷にて圧倒的権力を誇っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなった後、9月に従六位上から三階昇進、従五位下に叙爵する。式部少輔を経て、天平10年(738年)4月からは大養徳守も兼任する。しかし同年12月、朝廷内で反藤原氏勢力が台頭した背景のもと、親族への誹謗を理由に[1]、大宰少弐に左遷される。広嗣が謗った親族とは伯母の皇太夫人・藤原宮子で、宮子と玄昉の関係の謗議を通じて、玄昉を除くことを進言したものと想定される[2]。
天平12年(740年)8月、広嗣は「天地による災厄は(反藤原勢力の要である)右衛士督・吉備真備と僧正・玄昉に起因するもので、2人を追放すべき」との上奏文を朝廷に送るが[3]、時の権力者である右大臣・橘諸兄はこれを謀反と受け取った。真備と玄昉の起用を進めたのは諸兄であり、疫病により被害を受けた民心安定策を批判する等、その内実は諸兄への批判である事は明白であった。聖武天皇はこれに対して広嗣の召喚の詔勅を出す。
広嗣は勅に従わず、9月に入ると弟・綱手と共に大宰府の手勢や隼人等を加えた1万余の兵力を率いて反乱を起こした[4]。しかし大野東人を大将軍とする追討軍に敗走し、10月23日に肥前国松浦郡値嘉島長野村で捕らえられ[5]、11月1日に綱手と共に肥前松浦郡にて処刑された[6](藤原広嗣の乱)。この反乱によって多くの式家関係者が処分を受け、奈良時代末期には一時的には政治の実権を握るものの、後世における式家の不振を招く要因の一つになった[要出典]。
広嗣の怨霊を鎮めるため、唐津に広嗣を祀る鏡神社が創建された。新薬師寺の西隣に鎮座する南都鏡神社はその勧請を受けたものである。
官歴
編集『続日本紀』による。
脚注
編集出典
編集- 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
- 八木充「藤原広嗣の叛乱」『山口大学文学会志』11-2
- 坂本太郎「藤原広嗣の乱とその史料」『古典と歴史』
- 丸山二郎「藤原広嗣の乱と鎮西府」『歴史教育』3-5
- 栄原永遠男「藤原広嗣の乱の展開過程」『太宰府古文化論叢』上巻
- 柳雄太郎「広嗣の乱と勅符」直木孝次郎博士古稀記念『古代史論集』中巻
- 横田健一「天平十二年藤原広嗣の乱の一考察」『白鳳天平の世界』
- 竹尾幸子「広嗣の乱と筑紫の軍制」『古代の日本』3、九州
- 北山茂夫「七四〇年の藤原広嗣の叛乱」『日本古代政治史の研究』
- 利光三津夫「広嗣の乱の背景」『律令制の研究』
- 木本好信「藤原広嗣の乱について」『奈良朝政治と皇位継承』
- 平あゆみ「吉備真備右大臣就任の歴史的諸前提 -孝謙称徳女帝の師傅と「軍事参謀」への論考-」『政治経済史学』(295)、日本政治経済史学研究所、1990年
広嗣を題材にした作品
編集- 『朱盗』
- 司馬遼太郎による短編小説。『オール讀物』1960年5月号に発表。新潮文庫『果心居士の幻術』(ISBN 978-4101152233) に収録。反乱を夢想していた広嗣が、偶然から「扶余の穴蛙(あなかわず)」と名のる奇怪な百済人の男と出会い、俗世のことをまるで意に介さずに超然としているその生き方に不思議な興をかき立てられる。