藤村朗
藤村 朗(ふじむら あきら 1887年(明治20年)10月25日[1] - 1963年(昭和38年)7月17日[2])は、日本の建築家・実業家。
略歴
編集北海道出身。その後東京府(現・東京都)に移住。第二高等学校を経て、1911年(明治44年)東京帝国大学工科大学建築学科を卒業[3]。三菱に入社し[3]、地所課技師長を務めた[3]。三菱銀行本店、丸ノ内ビルヂング(丸ビル)、丸ノ内八重洲ビルヂング(八重洲ビル)、学士会館増築、法曹会館など、大正・昭和期のオフィスビル建設に従事し、1937年三菱地所取締役[3]、1946年12月から1946年8月まで三菱地所取締役社長。その後、藤村建築研究所を主宰。1953年より逝去まで三菱地所取締役を務めた[4]。1963年逝去、享年77(満75歳)。
親族
編集父・胖は旧盛岡藩士で、北海道に渡り実業家として成功、屯田銀行頭取を務めた人物(1843-1899年)。兄・藤村操は旧制一高在学中の1903年に「巌頭之感」を書き残し、日光の華厳滝で投身自殺したことで知られる。妹・恭子は哲学者の安倍能成(操の同級生)と結婚。妻・貴美は櫻井房記の長女[3][5]で、朗・貴美夫妻は3男1女をもうけた[3]。
化学者の櫻井錠二(房記の弟で貴美の叔父)は義叔父[6]。三菱重工業社長を務めた櫻井俊記(房記の長男で貴美の兄)は義兄[5]。岩崎弥之助の三男で実業家の岩崎輝弥は義弟(妻の須美は貴美の妹)に当たる[5][7]。
著書
編集- 藤村朗・本多二郎「事務所」(『高等建築学』16巻(常磐書房、1936年)所収)