三菱銀行
株式会社三菱銀行(みつびしぎんこう、英称:The Mitsubishi Bank, Ltd.)は、かつて存在した日本の都市銀行である。
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種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
![]() 〒100 東京都千代田区丸の内二丁目7番1号 |
設立 | 1919年(大正8年)8月15日[2] |
業種 | 銀行業 |
金融機関コード | 0005 |
事業内容 | 普通銀行業務 |
関係する人物 |
岩崎小弥太(初代会長) 串田万蔵(第2代会長) |
概要編集
1880年に郵便汽船三菱会社(現在の日本郵船)から分離独立した 三菱為換店 が始まり。この三菱為換店は一度閉鎖されるが、間もなく第百十九国立銀行の経営を承継。その後幾多の変遷を経て、1919年株式会社 三菱銀行 が設立された。
戦前は三菱財閥をバックに店舗数よりも取引高の方が遙かに大きかったが、戦時統合で主に東京地区の店舗を拡充。1943年に第百銀行を吸収合併したことで名実共に大銀行となった。
戦後の財閥解体に伴い、1948年に 千代田銀行 へ改名するが、1953年に三菱銀行へ戻し、三菱重工業・三菱商事とともに再結集した三菱グループの中核企業、都市銀行上位行として発展してきた。
行風は官僚主義的で機動力に欠けるという評価がされることが多い。バブル景気の時期にはそれが幸いして他の銀行の様な無理な融資合戦に参入するのが遅かったため、バブル崩壊後の不良債権が少なく済んだといわれている。ただし、バブル時代の経営姿勢に何も問題が無かったわけではなく、下記の様な変額保険問題を起こしている。また、当時の銀行界では珍しく大蔵省の「天下り」役員を受け入れていなかった。
1996年4月1日に東京銀行と合併し東京三菱銀行に行名変更し、さらに2006年1月1日にはUFJ銀行と合併し「三菱東京UFJ銀行」(現:三菱UFJ銀行)に行名を変更した。
沿革編集
- 1880年 - 郵便汽船三菱会社(現在の日本郵船)から「三菱為換店」が分離独立。
- 1885年 - 三菱為換店閉鎖。従業員は第百十九国立銀行に移籍。
- 1895年 - 三菱合資会社銀行部、第百十九国立銀行の業務を継承して設立。
- 1919年8月15日 - 株式会社三菱銀行、三菱合資会社銀行部の業務を継承して設立(本店東京、資本金5000万円、会長岩崎小弥太)。
- 1929年5月 - 株式会社森村銀行を合併。
- 1940年10月 - 株式会社金原銀行を合併。
- 1942年4月 - 株式会社東京中野銀行を合併。
- 1943年2月8日 - 株式会社第百銀行を合併。
- 1948年10月 - 持株会社整理委員会より「三菱」商号使用禁止を命じられ、株式会社千代田銀行に商号変更。
- 1953年7月 - 再び商号を株式会社三菱銀行に変更。
- 1965年4月 - 吹原産業事件発覚。
- 1969年1月 - 株式会社第一銀行と合併を発表するも、内外に反対が多く白紙撤回。(後に第一銀行は日本勧業銀行と合併し第一勧業銀行が誕生した)
- 1979年1月 - 大阪市の北畠支店で猟銃強盗監禁事件(三菱銀行人質事件)。
- 1982年 - CI導入。デザイン担当はアンスパック・グロスマン・ポルチュガル。
- 1989年9月 - 日本の金融業としては初めてニューヨーク証券取引所に上場。
- 1993年4月 - 霞ヶ関信用組合を合併。
- 1994年8月 - 経営難に陥った日本信託銀行(現在の三菱UFJ信託銀行日本橋支店)の救済のため 平野 友明 が同行の社長に就任し、同年10月に完全子会社化した。
- 1996年4月 - 東京銀行を合併し、株式会社東京三菱銀行に商号変更。(1996年以降については東京三菱銀行と三菱UFJ銀行のページを参照されたい。)
変額保険事件編集
三菱銀行は、バブルからその後にかけて大きく社会的問題となった変額保険を大々的に進めた中心銀行である。当時の取締役の三木繁光が、この提案融資の旗振り役であった[3]。変額保険は、地価が異常な値上がりを示した時代情勢につけ込んで拡大したもので、ハイリスク・ハイリターンな投資商品であった。変額保険に加入した結果、土地を失ったり、自殺を迫られる高齢者が多数発生し、金融機関の商品説明責任を問う損害賠償訴訟が相次いで起こされた。
この訴訟において、三菱銀行 の被害者は226名に上り、全金融機関で最悪の人数である。銀行としては2番目に多い横浜銀行の44人の5倍強、都市銀行の中では 富士銀行 の38人の6倍近くと、その加害は群を抜いている[4]。
この背景には、もとは米国で開発された変額保険を、アリコジャパンの元社員が三菱銀行に提案した経緯がある。邦銀で最初にこの商品を知った 三菱銀行 は、同じく三菱グループの 明治生命(現在の 明治安田生命保険)と一体となり、販売を押し進めた[5]。事実、明治生命による被害者数は三菱銀行とほぼ同じ224名であり、生保会社では2番目に被害者の多かった生保最大手の日本生命の104人の2倍以上である。
2002年4月23日には東京高等裁判所において、三菱銀行の後身にあたる東京三菱銀行と大同生命らを相手取る訴訟で、7000万円の損害賠償命令が下された。
イメージキャラクター編集
三菱銀行は、1961年11月から、他行に先駆けて「ブーチャン貯金箱」の配布を開始した。これは、以前はマッチやカレンダーなどに限られていた、金融機関が配布できる景品に、1954年に「貯金箱」が新たに加えられたのを受けたものである。なお、この「ブーチャン」とは、当時NHK総合で放送されていた人気テレビ番組「ブーフーウー」からヒントを得た子ブタのキャラクターであり、1年間で150万個が配布されるなど、人気となった。その後、このブーチャンは三菱銀行の親しみやすさを象徴するキャラクターとして、ポスターやチラシなどに採用された。
1962年8月20日からは、普通預金と積立預金の2種類の通帳で、ブーチャンのイラストを使用した「絵入り通帳」の取り扱いを開始した。これは現在、全国の銀行のほとんどで取り扱われている「デザイン通帳」の先駆けでもあった。
また、その年の12月1日には、三菱グループの三菱地所が東映と協力して行っていた、日本へのディズニーランド誘致に呼応する形で[6]、ディズニー・プロダクションズ(当時)と版権契約を結び、ディズニーキャラクターを使用した「絵入り通帳」の取り扱いを開始した。日本へのディズニーランド誘致は、結局三菱地所と競合していた三井不動産と京成電鉄の合弁会社(後のオリエンタルランド)が権益を獲得したものの[6]、ブーチャンと同様に、ディズニーキャラクターは、三菱銀行の親しみやすさを示す象徴となった。なお、当時は、普通預金と積立預金の2種類の通帳が用意され、普通預金には「ディズニー預金」という名前が付けられた。また、キャラクターは、ドナルドダック・バンビ・シンデレラ・ピノキオなどが採用された。また、1963年1月からは、「ディズニー貯金箱シリーズ」が始まり、第1号である「ドナルドダック」の貯金箱が配布された。
ちなみに、富士銀行も同時期に採用を図ろうとしたが、ディズニー社側の承諾を得られず断念している。
また、1988年から一時期、ハローキティのイラストが描かれたデザイン通帳を取り扱っていたこともあったが、ひっそりと姿を消してしまった。その後、ハローキティは1998年から第一勧業銀行がイメージキャラクターとして採用し、みずほフィナンシャルグループの傘下に入ったのち、みずほ銀行になった後も採用が続けられ、みずほコーポレート銀行に吸収合併された現在もイメージキャラクターとして採用されている。
1992年には、ミッキーマウスをはじめとするディズニーキャラクターの採用から30周年を迎えたことから、ノベルティとして利用者に向けてディズニーのキャラクターが描かれた 同じスリーダイヤをシンボルマークとする三菱鉛筆が製造した「三菱色鉛筆」が配布された(なお、三菱銀行を含めた三菱財閥系と三菱鉛筆の関係は一切ない)。
バードマーク編集
行章は三菱グループ共通の赤いスリーダイヤであったが、1982年以降、店舗の壁面やキャッシュカードには鳥のマーク(バードマーク)[7]がスリーダイヤとともに付けられた。なお、東京銀行との合併後も、建設時に三菱銀行として建設された一部の店舗では、バードマークが残されているものも多かったが、2006年のUFJ銀行との合併時に、残存していたバードマークのほとんどが撤去された。ただし、本店のリテール営業部門の営業室・ATMコーナーの自動ドアなど、一部の店舗や三菱銀行時代から建物を継続使用している一部の店舗では、現在もバードマークが残っている店もある。
出身者編集
脚注編集
- ^ The Origins of Our Bank(三菱UFJ銀行英語サイト)
- ^ 会社概要 | 三菱UFJ銀行
- ^ バブル期、銀行被害激増の銀行からの「提案融資」 椎名麻紗枝法律事務所
- ^ 東邦生命破綻の責任
- ^ 変額保険による被害救済に関する質問主意書 参議院
- ^ a b “三井が三菱に一矢報いた「ディズニー誘致合戦」の大逆転劇”. マネーポスト・週刊ポスト(2020年1月4日作成). 2020年1月4日閲覧。
- ^ 「広告企画制作|株式会社エージー」のインターネットアーカイブ