蘇体仁
蘇 体仁(そ たいじん)は中華民国の政治家。山西派に属する。後に中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)に参加した。字は象乾。
蘇体仁 | |
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最新支那要人傳(1941年) | |
プロフィール | |
出生: | 1888年(清光緒14年)[1] |
死去: |
1979年(民国68年)8月20日 台湾 |
出身地: | 清山西省朔平府朔州 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 蘇體仁 |
簡体字: | 苏体仁 |
拼音: | Sū Tǐrén |
ラテン字: | Su T'i-jen (Soo T'i-jen) |
和名表記: | そ たいじん |
発音転記: | スー ティーレン |
事績
編集山西省立師範学校を卒業後、日本に留学する。東京高等工業学校化学科を卒業した。
1916年(民国5年)帰国し、山西省立第一中学校長、省立山西大学予科学長を歴任する。その後、山西督軍閻錫山配下となり、山西省督軍署秘書、外交処主任、山西督弁駐京代表、晋綏司令駐京代表を歴任した。これにより、閻の「ブレーン・トラスト」の1人となり、閻の著作の多くが蘇体仁の手によるものと言われた[2]。1924年(民国13年)12月、北京政府臨時法制院参事となる。
1928年(民国17年)7月、蘇体仁は、国民政府外交部の河北省交渉員に任命される。翌年、河北省財政特派員となった。1930年(民国19年)、辞職して、いったん天津に隠居した。1932年(民国20年)5月、綏遠省財政庁庁長として復帰し、1934年(民国23年)12月まで務めた。
1938年(民国27年)6月21日、中華民国臨時政府が山西省公署を創設し、蘇体仁が山西省長に特任された[3]。翌1939年(民国28年)3月5日、臨時政府委員(議政委員会委員。特任官)を兼任している[4]。
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。同日、蘇体仁は同委員会委員に特派され[5][6]、山西省長にも重任となった[7]。1943年(民国32年)1月、北京特別市市長代理に異動する。さらに翌月に、華北政務委員会常務委員兼教育総署督弁となった。11月、華北政務委員会工務総署督弁に就任(しばらくの間、教育総署督弁と兼務)。1945年(民国34年)2月、華北政務委員会総務庁庁長となった。
日本敗北後、蘇体仁は太原に戻る。山西革命同志会に加入して、太原綏靖参事となった。1949年(民国38年)1月に北平が中国人民解放軍に向けて開城されると、蘇は最初に綏遠、次いで蘭州へと逃れた。その後さらに香港、最後は台湾へ逃れている。
注
編集- ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』2763頁による。Who's Who in China 4th ed.,p.209は1889年とする。
- ^ 『最新支那要人伝』101頁。
- ^ 臨時政府令、令字第218号、民国27年6月21日(『政府公報』第23号、民国27年6月27日、臨時政府行政委員会公報処、2頁)。
- ^ 臨時政府令、令字第332号、民国28年3月5日(『政府公報』第63号、民国28年3月8日、臨時政府行政委員会情報処第四科、1頁)。
- ^ 国民政府令、民国29年3月30日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、国府1頁)。
- ^ 華北政務委員会の人事自体は、発令前の同月22日における中央政治会議で議決されている(『外交時報』94巻2号通号849号、昭和15年4月15日、外交時報社、182-185頁)。
- ^ 『支那最近の状勢概觀』(東洋協会調査部調査資料第49輯)、1941年、東洋協会、12-13頁。
- ^ 『山西通志 人物志』による。一方『民国人物大辞典 増訂版』2763頁によると、蘇は日中戦争後まもなく日本に亡命し、日本で死去したとしている。
参考文献
編集- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 『山西通志 人物志』中華書局、2001年。ISBN 9787101007008。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
中華民国臨時政府
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南京国民政府(汪兆銘政権)
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