説成親王

南北朝時代から室町時代の南朝の皇族。後村上天皇の第六皇子。上野太守。

説成親王[1](かねなりしんのう、生没年不詳)は、南北朝時代から室町時代にかけての南朝皇族後村上天皇の第六皇子で、長慶天皇後亀山天皇の弟と推定される。母は不詳[2]。子に聖淳がいる。官職は上野太守で、上野宮(こうずけのみや)・福御所と号した。本来の[1]懐成(かねなり)・懐邦(かねくに)[3]

説成親王
続柄 後村上天皇第六皇子

全名 説成(かねなり)
称号 上野宮、福御所
身位 親王
敬称 殿下
出生 不明
死去 永享5年頃
子女 聖淳、円満院宮円胤、相応院新宮
父親 後村上天皇
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近世南朝系図以来、護聖院宮家の初代親王に比定する説が通説であったが、近年の研究では史料的な裏付けを欠くとして否定されつつある[4]

経歴

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南朝での詳しい経歴は不明ながら、親王宣下を受けた後に上野太守に任じられ、弘和元年/永徳元年(1381年)12月に成立した『新葉和歌集』には4首(流布本には3首)が入集する。元中9年/明徳3年(1392年閏10月南北朝合一を迎えると、後亀山天皇・三宮(東宮惟成親王か)に同行して吉野より入洛を果たした。

在京中の動静に関しても史料がないが、応永15年(1408年吉野河上郷の在地勢力が上野宮に与同して背いたため、吉水院の惣郷によって鎮圧された旨が『吉水神社文書』に見える。これは、同年5月の足利義満薨去を受けて親王が起こした反幕行動の一端を示したもので、合一後の南朝皇胤による決起としては最も早い例となろう。ところが、応永22年(1415年伊勢国司北畠満雅による挙兵に際してはこれに同調せず、むしろ幕府との間に立って調停に動いていることから[5]、必ずしも反幕姿勢を堅持していた訳ではないようである。応永30年(1423年)8月に子の聖淳足利義持の計らいで相応院に入室した。これに対しては抵抗する気運もあったらしく、11月に上野宮青侍の中村某が斬首されている。師成親王による『新葉集』奥書からは、応永32年(1425年)なお存命していたことが確認されるが、以後の消息は不明である。

南朝系図によれば、出家して恵覚と号したともいうが、このことは根本史料には見えない。

脚注

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  1. ^ a b 「説成」「懐成」「懐邦」と3種の諱が伝わることについて、小木喬によれば、初め「懐成」と名付けられたが、仲恭天皇の諱と被ることに気付いて「懐邦」に、さらに音の通ずる「説成」に改めたためという。ただし、田代圭一の指摘によると、「説成」の文献上の初出は江戸初期写の吹上本『帝王系図』付紙とのことだから、本来の諱は『新葉集』に見える「懐成」「懐邦」であったと考えられる。したがって、根本史料に即した場合、そのまま懐成親王あるいは懐邦親王を用いるべきであるが、一般に流布している人名辞典・系譜類においてはなお説成親王の見出しで掲載されていることが多い。そのため、本項記事名の採用に当たっても後者の方が相応しいと判断した。
  2. ^ 南朝系図によれば、越智家栄の女の冷泉局(新待賢門院冷泉局)である。
  3. ^ 系図纂要』『南山小譜』などは、懐邦親王を後二条天皇曾孫邦良親王の孫、邦世親王の子に位置付け、説成親王とは別人とする。
  4. ^ 小川剛生 「伏見殿をめぐる人々 ―『看聞日記』の人名考証―」(森正人編 『伏見宮文化圏の研究 ―学芸の享受と創造の場として―』 文部省科学研究費補助金研究成果報告書、2000年)。
  5. ^ 大乗院日記目録』同年8月19日条

参考文献

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  • 菅政友 「南山皇胤譜」(『菅政友全集』 国書刊行会、1907年、NCID BN04245173
  • 小木喬 『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年、ISBN 9784305101815
  • 田代圭一 「南朝皇胤についての一考察 ―『看聞日記』応永30年2月22日条をめぐって―」(『古典遺産』第54号 古典遺産の会、2004年9月、NCID AN00353573