趙 璧(ちよう へき、1220年 - 1276年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。

概要 編集

趙壁は雲中懐仁県の出身で、後の第5代皇帝となるクビライがまだ一王族に過ぎなかった頃、その名声を聞いて召し出され23歳の時からクビライに仕えるようになった[1]。この頃、ココらモンゴル人10人らに講義を行い、時には馬上で行うこともあったという[1][2]

クビライの兄モンケが第4代皇帝(カアン)として即位すると、趙壁は燕京等処行尚書省に配属されて六部の事(=漢地行政)を統べた[3]。ある時、趙壁はモンケ・カアンに召し出されて天下の統治について問われたが、「まず近侍でもっとも善しからざる者を誅すべきです」と答えてモンケの不興を買ったという[3]。またある時、マフムード・ヤラワチが先帝の治世に下賜された印を用いることをモンケ・カアンに請うた時、その場に居合わせた趙壁が皇帝の聖裁を軽んじる言動であると痛烈に非難し、以後ヤラワチは重用されなくなったという[3][4]

1252年(壬子)、史天沢楊惟中らとともに河南経略使に任じられたが、この頃河南では劉万戸が都中に賄賂を求める横暴な統治を行っていた[5]。劉万戸の配下の中でも主簿は民に無理強いし妾を30人も抱えるなど特に悪質で、河南に赴任した趙壁は真っ先にこれを処刑した。驚いた劉万戸は趙壁の家を訪れて懐柔しようとしたが果たせず、この頃から病に伏せって間もなく亡くなったため、人々は趙壁を恐れて死んだのだろうと噂したという[6]1259年(己未)、江淮荊湖経略使とされている[7]

四川遠征中にモンケ・カアンが急死し、中統元年(1260年)にクビライが第5代皇帝として即位を宣言すると、董文炳らとともに燕京宣慰使の地位を拝命した[8]。なおこの人事は、モンケ・カアンの治世に設置された燕京等処行尚書省を新たな行政機構(=後の中書省)に再編する布石であったと推測されている[9]。この頃、蜀(陝西・四川)方面軍への物資補給が続いたことから燕京の府蔵は空になってしまったが、趙壁が富豪から銭穀を徴発することによって兵糧の供給を絶やさなかったと伝えられる[1]。その後、中書省が設立されると平章政事の地位を授けられ、またダルハンの称号も与えられた。中統2年(1261年)2月、中書省の官員は燕京から開平に招集されて大人事異動が行われ、趙壁は平章政事兼大都督の地位に移った[10]。中統3年(1262年)に李璮の乱が勃発すると、北方への食糧供給が滞ったため、趙壁は済河を通じた兵站ルートを整え糧食を確保した[1]。なおこの頃、中書省の組織整備に尽力した王文統が李璮の乱に加担した罪で処刑されたが、日頃から廉希憲を妬んでいた趙壁は王文統を推薦した廉希憲・張易らも連座すべきではないか、と主張したという逸話が伝えられている[11][12]

至元元年(1264年)、内戦が終結したことにより官制の整備が進み、趙壁は栄禄大夫の地位を授けられた。この頃、南宋に対する檄文の執筆を担当して評価され、枢密副使の地位に移っている。至元6年(1269年)、南宋の守臣で投降を約する使者を派遣した者があったため、その処遇をめぐる謀議を行うためアジュの下に派遣され、以後南宋との最前線に留まることとなった。ある時、南宋の将夏貴が5万の兵と3千艘の軍船とともに襄陽城の救援のため接近してくると、趙壁は天険の地に伏兵を置きこれを待った。夜間、趙壁は伏兵を動かしてまず敵船を5奪い、「南宋水軍は既に敗れたぞ」と呼びかけたため、怖じ気づいた夏貴は軍を動かすことはなかった。翌日、アジュ率いる軍団が到着し、諸将とともに長江を渡って騎兵で夏貴軍を追撃し、趙壁は水軍万戸の解汝楫らとともに南宋水軍に接近し、虎尾洲で戦闘が繰り広げられた。この戦闘で南宋軍は大敗を喫して多くの溺死者を出し、趙壁は戦艦50を拿捕し将士300人余りを捕虜とする功績を挙げた[13]

一方、前年の至元5年(1268年)には高麗王(元宗)が武臣の林衍によって王位を追われるという事件が起こっていたため、クビライは趙壁を召喚し頭輦哥とともに平壌に派遣した。趙壁らが到着する頃には既に林衍は死んでいたが、趙壁は元宗に江華島に都を置いたままであることが権臣の跋扈を招いているのであり、古京(=開京)に戻るべきであると助言したため、遂に元宗は開京への再遷都を決意したという。なお、趙壁らの帰還時には高麗の美人を同行することになり、趙壁にも3人が宛がわれたが、趙壁はみな郷里に還してしまったと伝えられる[14]

帰還した趙壁は中書右丞の地位に移り、至元10年(1273年)には再び平章の地位に就いたが、至元13年(1276年)に57歳にして亡くなった[15]。息子は二人おり、趙仁栄は同知帰徳府事に、趙仁恭は集賢直学士となった。また、趙崇・趙弘という2人の孫がいたことも知られている[16]

脚注 編集

  1. ^ a b c d 牧野 2012, p. 202.
  2. ^ 『元史』巻159列伝第46趙璧伝,「趙璧字宝臣、雲中懐仁人。世祖為親王、聞其名召見、呼秀才而不名、賜三僮、給薪水、命后親製衣賜之、視其試服不称、輒為損益、寵遇無与為比。命馳駅四方、聘名士王鶚等。又令蒙古生十人、従璧受儒書。敕璧習国語、譯大学衍義、時従馬上聴璧陳説、辞旨明貫、世祖嘉之」
  3. ^ a b c 牧野 2012, pp. 174–175.
  4. ^ 『元史』巻159列伝第46趙璧伝,「憲宗即位、召璧問曰『天下何如而治』。対曰『請先誅近侍之尤不善者』。憲宗不悦。璧退、世祖曰『秀才、汝渾身是膽耶。吾亦為汝握両手汗也』。一日、断事官牙老瓦赤持其印、請于帝曰『此先朝賜臣印也、今陛下登極、将仍用此旧印、抑易以新者耶』。時璧侍旁、質之曰『用汝与否、取自聖裁、汝乃敢以印為請耶』。奪其印、置帝前。帝為默然久之、既而曰『朕亦不能為此也』。自是牙老瓦赤不復用」
  5. ^ 牧野 2012, p. 346.
  6. ^ 『元史』巻159列伝第46趙璧伝,「壬子、為河南経略使。河南劉万戸貪淫暴戾、郡中婚嫁、必先賂之、得所請而後行、咸呼之為翁。其党董主簿、尤恃勢為虐、強取民女有色者三十餘人。璧至、按其罪、立斬之、尽還民女。劉大驚、時天大雪、因詣璧相労苦、且酌酒賀曰『経略下車、誅鋤強猾、故雪為瑞応。』璧曰『如董主簿比者、尚有其人、俟尽誅之、瑞応将大至矣。』劉屏気不復敢出語、帰臥病而卒、時人以為懼死」
  7. ^ 『元史』巻159列伝第46趙璧伝,「己未、伐宋、為江淮荊湖経略使。兵囲鄂州、宋賈似道遣使来、願請行人以和、璧請行。世祖曰『汝登城、必謹視吾旗、旗動、速帰可也』。璧登城、宋将宋京曰『北兵若旋師、願割江為界、且歳奉銀・絹匹両各二十万』。璧曰『大軍至濮州時、誠有是請、猶或見従、今已渡江、是言何益。賈制置今焉在耶』。璧適見世祖旗動、迺曰『俟他日復議之』。遂還」
  8. ^ 牧野 2012, p. 190.
  9. ^ 牧野 2012, pp. 197–198.
  10. ^ 牧野 2012, pp. 192–193.
  11. ^ 牧野 2012, p. 194.
  12. ^ 『元史』巻159列伝第46趙璧伝,「憲宗崩、世祖即位。中統元年、拝燕京宣慰使。時供給蜀軍、府庫已竭、及用兵北辺、璧経画饋運、相継不絶。中書省立、授平章政事、議加答剌罕之号、力辞不受。二年、従北征、命還燕、以平章政事兼大都督領諸軍。是年、始製太廟雅楽。楽工党仲和・郭伯達以知音律在選中、為造偽鈔者連坐、繫獄。璧曰『太廟雅楽、大饗用之、聖上所以昭孝報本也、豈可繫及無辜、而廢雅楽之成哉』。奏請原之。三年、李璮反益都、従親王合必赤討之。璮已拠濟南、諸軍乏食、璧従濟河得粟及羊豕以饋軍、軍復大振」
  13. ^ 『元史』巻159列伝第46趙璧伝,「至元元年、官制行、加栄禄大夫。帝欲作文檄宋、執筆者数人、不称旨、乃召璧為之。文成、帝大喜曰『惟秀才曲尽我意』。改枢密副使。六年、宋守臣有遣間使約降者、帝命璧詣鹿門山都元帥阿朮営密議。命璧同行漢軍都元帥府事。宋将夏貴率兵五万、饋糧三千艘、自武昌泝流、入援襄陽。時漢水暴漲、璧拠險設伏待之。貴果中夜潜上、璧策馬出鹿門、行二十餘里、発伏兵、奪其五舟、大呼曰『南船已敗、我水軍宜速進』。貴懾不敢動。明旦、阿朮至、領諸将渡江西追貴騎兵、璧率水軍万戸解汝楫等追貴舟師。遂合戦於虎尾洲、貴大敗走、士卒溺死甚衆、奪戦艦五十、擒将士三百餘人」
  14. ^ 『元史』巻159列伝第46趙璧伝,「高麗王禃為其臣林衍所逐、帝召璧還、改中書左丞、同国王頭輦哥行東京等路中書省事、聚兵平壤。時衍已死、璧与王議曰『高麗遷居江華島有年矣、外雖卑辞臣貢、内恃其險、故使権臣無所畏忌、擅逐其主。今衍雖死、王実無罪、若朝廷遣兵護帰、使復国于古京、可以安兵息民、策之上者也』。因遣使以聞、帝従之。時同行者分高麗美人、璧得三人、皆還之」
  15. ^ 『元史』巻159列伝第46趙璧伝,「師還、遷中書右丞。冬、祀太廟、有司失黄幔、索得於神庖竈下、已甚污弊。帝聞、大怒曰『大不敬、当斬』。璧曰『法止杖断流遠』。其人得不死。十年、復拝平章政事。十三年、卒、年五十七。大徳三年、贈大司徒、諡忠亮」
  16. ^ 『元史』巻159列伝第46趙璧伝,「子二人仁栄、同知帰徳府事。仁恭、集賢直学士。孫二人崇、郊祀署令。弘、左藏庫提點」

参考文献 編集

  • 元史』巻159列伝第46趙璧伝
  • 新元史』巻158列伝第55趙璧伝
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年