足立 正声(正聲、あだち まさな、1841年11月5日(天保12年9月22日[1][注 1])- 1907年明治40年)4月19日[1])は、日本武士鳥取藩士)、官僚華族男爵。字は興卿、通称は八蔵[2]。雅号は老狸、天瀑、克己斎、礫室、碌々山房、楽石山人、鼓腹庵、古狸窟[2]

経歴

編集

因幡国邑美郡鳥取庖丁人町(現鳥取県鳥取市)で、鳥取藩士・足立次郎八中和の二男として生まれる[1][2]文久元年(1861年)学正堀庄次郎(熙明、敦斎)の推挙で江戸芳野金陵に学ぶ[2][3]。文久2年(1862年)冬、国事周旋方に就任[2][3]

文久3年8月17日1863年9月29日)本圀寺事件に参加したため、京都藩邸に拘留され、伯耆国日野郡黒坂、鳥取に幽閉された[4][5]第二次長州征討が始まり、慶応2年7月1866年)幽閉先の荒尾直就邸から同志と共に脱出し、長州藩諸隊の南園隊に加わり、備前京都で活動して長州藩のために周旋し、大村益次郎から西洋軍学を学んだ[2][3][4]。明治元年(1868年)赦されて帰藩し歩兵報国隊副督に就任した[2][4]

明治元年7月12日(1868年8月29日)明治政府に出仕し刑法官御雇となる[6]。以後、刑法官書記、判事試補、刑部中判事、弾正少忠、伊那県大参事浜田県大参事、神祇省権大録、教部少丞、兼三等法制官、内務少書記官、社寺局長などを歴任[6]

1878年3月6日、宮内省に転じ少書記官となる[6]。以後、御陵墓掛、宮内権大書記官、兼内廷課長、諸陵助、兼宮内書記官、帝室会計審査局主事、東宮主事、東宮亮、兼諸陵頭、兼式部官、兼主猟官、兼内大臣秘書官、兼調査課長、兼図書頭などを歴任した[6][7]

1906年12月15日、その功により男爵を叙爵した[1][8]

栄典

編集

親族

編集
  • 養嗣子:足立豊(貴族院男爵議員、田口贇郎五男)[1]
  • 長女:正(神山閏次の妻)[1]
  • 三女:暢子(のぶこ、足立豊の妻)[1]

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ または「九月二〇日」生とも[2]

出典

編集
  1. ^ a b c d e f g 霞会館 1996, p. 35.
  2. ^ a b c d e f g h 日本歴史学会 1981, p. 29.
  3. ^ a b c 安岡昭男 2010, p. 47.
  4. ^ a b c 家臣人名事典編纂委員会 1988, p. 304.
  5. ^ 上田正昭ほか 2009, p. 40.
  6. ^ a b c d 修史局 1928, p. 510–513.
  7. ^ 「主猟官兼諸陵頭正四位勲三等男爵足立正声」
  8. ^ 『官報』第7041号、明治39年12月17日。
  9. ^ 『官報』第3918号「叙任及辞令」1896年7月21日。
  10. ^ 『官報』第5415号「叙任及辞令」1901年7月22日。
  11. ^ 『官報』第6926号「叙任及辞令」1906年7月31日。

参考文献

編集
  • 内閣(明治40年)「主猟官兼諸陵頭正四位勲三等男爵足立正声」 アジア歴史資料センター Ref.A10112622500 
  • 修史局 編『百官履歴』《下巻》日本史籍協会、1928年。 
  • 日本歴史学会 編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。 
  • 家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典』5号、新人物往来社、1988年。 
  • 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』《上巻》吉川弘文館、1996年。 
  • 上田正昭ほか『コンサイス日本人名辞典』(5版)三省堂、2009年。 
  • 安岡昭男 編『幕末維新大人名事典』《上巻》新人物往来社、2010年。 
公職
先代
戸田氏共
川田剛
  諸陵
1901年 - 1907年
1893年 - 1896年
次代
山口鋭之助
矢野文雄
先代
勝間田稔
  図書
1906年 - 1907年
次代
山口鋭之助
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
足立(正声)家初代
1906年 - 1907年
次代
足立豊