逯並(ろくへい)は、古代中国の前漢末期からの時代の人物である。紀元1世紀初めの活動が知られるが、生没年は不明。漢では将作大匠横野将軍、蒙郷侯。新では著武将軍、大司馬、左隊大夫を歴任し、同風侯として封じられた。

姓の逯(ろく)は、逮(たい)かもしれないという説がある[1]。また名は『漢書』外戚恩沢侯表で普[2]

経歴

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前漢平帝の晩年にあたる元始4年(西暦4年)2月、王惲ら8人がそれぞれ皇帝の節を持ち、分かれて天下を巡視した[3]。逯並もその1人で、このとき騎都尉の官にあった[2]。元始5年(5年)閏月に、王惲ら8人が前年の功績で侯に封じられ、逯普は蒙郷侯になった[2]

元始5年(5年)に王莽が権力を握って傀儡の幼主を立てると、翌居摂元年(6年翟義が反乱を起こした。このとき将作大匠の逯並は横野将軍の称号を与えられ、武関を守備して反乱軍の攻撃に備えた[4]

反乱鎮圧後の始建国元年(9年)に、王莽は帝位を譲らせ王朝を開いた。このとき漢の時代の侯は廃されたり改めて封じられたりした。逯並も蒙郷侯から同風侯に改まったようである。

始建国3年(11年)、地方の盗賊の鎮圧のため、著武将軍の逯並らが主要都市に配置されたが、効果はなかった[5]

始建国5年(13年)に同風侯の逯並が大司馬となった[6]天鳳元年(14年)3月におきた日食の責任をとらされて、大司馬を解任された[7]。侯の地位はそのままであった[7]

時期が不明だが、在野の学者郅惲が盗賊の横行を見て漢の復活を予想し、左隊大夫(左隊郡の長官)の逯並に自らを伊尹(殷の湯王を補佐して天下をとらせた名臣)になぞらえて自薦したという話がある[8]。士を好んでいた逯並は郅惲を吏にしようとしたが、郅惲は待遇に不満で受けなかった[8]。この後郅惲は西の長安に行って王莽に退位を薦め、投獄された[8]

新が滅んだ地皇4年(23年)には別の人が左隊大夫になっており、新末の動乱での逯並の活動は、生死含め不明である。

脚注

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  1. ^ 『漢書』巻18、外戚恩沢侯表第6、蒙郷侯逯普への顔師古注。
  2. ^ a b c 『漢書』巻18、外戚恩沢侯表第6、蒙郷侯逯普。
  3. ^ 『漢書』巻12、平帝紀第12。ちくま学芸文庫版『漢書』1の355頁。
  4. ^ 『漢書』巻84、翟方進伝第54。ちくま学芸文庫版『漢書』7の159頁。
  5. ^ 『漢書』巻99中、王莽伝第69中、始建国3年。ちくま学芸文庫版『漢書』8の380頁。
  6. ^ 『漢書』巻99中、王莽伝第69中、天鳳元年。ちくま学芸文庫版『漢書』8の388頁。
  7. ^ a b 『漢書』巻99中、王莽伝第69中、天鳳元年。ちくま学芸文庫版『漢書』8の390頁。
  8. ^ a b c 『後漢書』巻29、申屠剛鮑永郅惲列伝第19。

参考文献

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