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那須 資徳(なす すけのり)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本大名下野国烏山藩2代藩主。

 
那須資徳
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文12年(1672年
死没 宝永5年6月25日1708年8月11日
改名 政直(初名)→資徳
別名 主殿[1]通称:与一[1]
戒名 清光院殿月峯常心大居士
墓所 東京都台東区上野桜木の養寿院
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉
下野烏山藩
氏族 津軽氏那須氏
父母 父:津軽信政、母:不卯姫(増山正利娘)[2]
養父:那須資弥
兄弟 男子、津軽信寿資徳、男子、津軽寿世
春台院(堀親賢正室)、松平信清正室、他4女
養兄弟:増山正弥福原資寛
正室:花房正矩
資隣(長男)、福原銕之進(次男)、女子

陸奥国弘前藩4代藩主・津軽信政の三男として誕生した。天和3年(1683年)閏5月1日、母方の大叔父・那須資弥の養子となる。同年7月11日、江戸幕府5代将軍徳川綱吉御目見する[2]貞享4年(1687年)8月25日、資弥の死去により家督を相続する[1]が、同年10月14日、改易となり、実父・津軽信政の許に預けられた[1]元禄7年(1694年)閏5月から翌年3月にかけて、信政に従って弘前城に赴き、寺社参詣・湯治などをする

元禄13年(1700年)5月20日、信政の運動により旗本に取り立てられて、小普請に所属する。後に寄合に所属する。元禄14年(1701年)12月25日、下野那須郡内1000石を与えられた。宝永2年(1705年)6月3日、津軽家より合力米3000石を得る。宝永5年(1708年)4月5日、交代寄合となる。同年6月25日、死去、享年37。

烏山騒動編集

改易に至る事件は俗に烏山騒動と呼ばれる。養父・資弥の次男・福原資寛とその生母が、資徳の家督相続を不当であると訴えたことに始まる。幕府は資弥が実子である資寛の存在を隠したまま、養子の資徳に家督相続させたことを問題とした。

脚注編集

  1. ^ a b c d 『那須家譜』
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』

出典編集