鄭 温(てい おん、? - 1291年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人の一人。真定路霊寿県の出身。

概要 編集

鄭温は当初女真人粘合南合の指揮するモンゴル軍に加わった人物であり、遠征での功績によりミンガン(千戸)に任じられた。その後、漢人世侯史天沢の下に配属されて新軍万戸鎮撫に任じられている。モンケ・カアンによる四川親征が行われた際には、4月になっても鎧を脱がず戦功を積んだことを称えられ、「イェケ・バアトル(也可拔都)」の称号を授けられたという。その後閬州に至ると分遣隊を率いて釣魚山を警邏した[1]

1260年(中統元年)には金虎符を与えられて総管とされ、1262年(中統3年)に李璮が叛乱を起こすと叛乱鎮圧軍に加わった。叛乱鎮圧軍は済南城に拠る李璮を包囲したが、ある時李璮配下の楊バアトル(楊拔都)らが夜襲をしかけてきたため、鄭温が夜明けまで至るほどの激戦の末これを撃退した。軍を率いる史天沢・哈必赤らは鄭温の功績を厚く賞したという。同年7月に済南城が陥落すると鄭温は兵3000を率いて李璮の根拠地であった益都への駐屯を命じられ、侍衛親軍総管の地位を与えられた[2]

1269年(至元6年)には懷遠大将軍・右衛副都指揮使の地位を授けられ、1272年(至元9年)にはモンゴル人・漢人・女真人・高麗人の混成兵を率いて躭羅(済州島)の征服を命じられた。1275年(至元12年)には右衛親軍都指揮使に昇格となり、バヤンを総司令とする南宋への侵攻に加わった。岳州・江陵・沙市・潭州の攻略に功績を挙げ、軍司令官の一人であるエリク・カヤに銀10錠を与えられている。1277年(至元14年)には帰還して入朝し、昭勇大将軍・枢密院判官の地位を授けられた[3]

1281年(至元18年)には輔国上将軍・江淮行省参知政事の地位に移り、杭州で飢饉が起こった時には米20万石を出すことで民を救った。1286年(至元23年)には江浙左丞とされ、安雲山で屯田を行ったが、1291年(至元28年)に81歳にして亡くなった[4]

息子には利用監丞となった鄭欽、榷茶都運使となった鄭釭、右衛親軍千戸となった鄭銓、袁州路判官となった鄭鏞らがいた[5]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻154列伝41鄭温伝,「鄭温、真定霊寿人。初従中書粘合南合南征、有功、為合必赤千戸。従丞相史天沢、為新軍万戸鎮撫。憲宗征西川、温四月不解甲、天沢以温見、具言其功、帝曰『朕所親見也』。賜名也可拔都、賞以鞍勒。還至閬州、奉旨分軍守邏青居・釣魚等山、天沢命温統四千人、警邏釣魚山」
  2. ^ 『元史』巻154列伝41鄭温伝,「中統元年、佩金虎符、為総管。三年、李璮叛、詔温以軍還討。至濟南、大軍囲其城、賊将楊拔都等乗夜斫営、温力戦至黎明、賊退、諸王哈必赤・丞相史天沢厚賞之。七月、城破、命温率兵三千、往定益都。以功復受上賞、命為侍衛親軍総管」
  3. ^ 『元史』巻154列伝41鄭温伝,「至元六年、進懷遠大将軍・右衛副都指揮使。九年、詔温統蒙古・漢人・女真・高麗諸部軍万人、渡海征躭羅、平之。十二年、陞右衛親軍都指揮使、率三衛軍万人、従攻岳州・江陵・沙市・潭州、皆有功、平章阿里海涯賞銀十錠。十四年、入朝、遷昭勇大将軍・枢密院判官」
  4. ^ 『元史』巻154列伝41鄭温伝,「十八年、改輔国上将軍・江淮行省参知政事。杭民饑、出米二十万石糶之。俄賜以常州官田三十頃。二十二年、召還。二十三年、陞江浙左丞、命以新附漢軍万五千、於淮安雲山白水塘立屯田。二十八年卒、年八十一」
  5. ^ 『元史』巻154列伝41鄭温伝,「子欽、利用監丞。釭、榷茶都運使。銓、右衛親軍千戸。鏞、袁州路判官」

参考文献 編集