金森可英

日本の江戸時代中期~後期の武士。飛騨高山藩主一門金森可沢の子で、高山藩家老金森近供養子。金森左京家4代当主(飛騨高原郷→越前白崎3000石)。名跡継承して、交代寄合となる

金森 可英(かなもり ありてる、享保元年(1716年) - 安永3年3月5日1774年4月15日))は、江戸時代旗本交代寄合飛騨高山藩主金森家の、藩内分家の金森左京家第4代当主。左京亮。権九郎。金森可沢の次男で、金森近供の養子となり左京家を継いだ。左京家の祖は、第2代藩主・金森可重の五男金森重勝

郡上一揆により、本家の美濃郡上藩主・金森頼錦改易となった。藩内分知の左京家も同時に取潰しとなる可能性があったが、宝暦8年(1758年)12月に郡上藩内より、知行3千石のまま越前国南条郡、今立郡[1]に領地を移された。同地の白崎(越前市)に陣屋を設置し、江戸屋敷を三田魚籃下に拝領した。金森氏の名跡は左京家が継承することとなり、交代寄合表御礼衆の幕府旗本として幕末まで存続し、現在に至る。

子女に長男可威(病弱で嗣子とならず)、土方行忠室、次男近忠(左京家を継ぐ)、三男重敬、四男滝川一通滝川一名養子)、他に女子1名、養女に関政富の娘(のちに父の元に帰る)、金森頼錦の娘(井上正相室)。

脚注 編集

  1. ^ 南条郡白崎、清水、牧谷の3村、今立郡上大坪、萱谷、大手、西尾(幕府領と割郷)4村