金 正美(キム チョンミ、: 김 정미: Kim Chongmi1976年昭和51年〉1月1日[1] - )は、在日韓国人3世のエッセイスト字幕製作ディレクター[2][3]。日本国内での通名は岩村 正美[4]千葉県出身[5]恵泉女学園大学人文学部日本文化学科卒業[2]

金 正美
(キム チョンミ)
誕生 (1976-01-01) 1976年1月1日(48歳)
日本の旗 日本千葉県
職業 エッセイスト
国籍 大韓民国の旗 韓国
最終学歴 恵泉女学園大学
活動期間 1996年 -
主題 在日韓国人ハンセン病、他
代表作 『しがまっこ溶けた』(2002年)
主な受賞歴 銀座ステファニー化粧品 感謝部門賞(2002年)
社会貢献支援財団 21世紀若者賞(2005年)
テンプレートを表示

1997年平成9年)4月から講談社月刊現代』編集部での編集補助業務、翌1998年(平成10年)から劇団四季編集部にて会報誌『ラ・アルプ』および各作品プログラムを制作・編集を経て、2000年(平成12年)2月よりNHK総合テレビジョンNHK教育テレビジョンなど放送字幕の制作に参加、聴覚障害者のための放送字幕制作などの仕事に携わっている[3]。エッセイストとしては、1996年(平成8年)4月から1998年(平成10年)3月まで、在日韓国人の若者向け全国誌月刊『セセデ』に「金正美のキャンパスライフ」を連載したほか[2]、新聞や雑誌の記事も多数執筆している[6]

一方で、大学在学中にハンセン病施設との交流に参加したことを機に、ハンセン病回復者と交流を続け、講演、著作、テレビ番組などを通じてこの病気への理解と偏見や差別の除去のための啓蒙活動と、ハンセン病回復者の社会復帰を支援している[7]

特に、恵泉女学園大学教授の森田進が恩師であった縁で[8]、森田が指導を務めた国立療養所栗生楽泉園内の詩人団体・栗生詩話会のハンセン病回復者である桜井哲夫とは、祖父と孫の間柄も同然であった。桜井が60年ぶりに青森へ帰郷した際は同行し、視力を失っている桜井の案内を務めた[9]2002年(平成14年)には、桜井との交流を綴った著書『しがまっこ溶けた』を著した[2]

これらのハンセン病関連の功績の評価により、同2002年末に銀座ステファニー化粧品の感謝部門賞[5]2005年(平成17年)には社会貢献支援財団の「21世紀若者賞」を受賞した[7]。桜井との交流を辿った青森放送のラジオ番組『おじぎ草の我が人生』『哲ちゃんとちょんみ』『金正美の青春 詩人桜井哲夫との17年』の3部作は、それぞれ2002年度の日本民間放送連盟賞優秀賞[10]、2007年度の同賞最優秀賞[11]、2012年度の文化庁芸術祭ラジオ部門優秀賞を受賞した[12]

脚注

編集
  1. ^ プロフィール” (PDF). 桂川町. 2016年12月10日閲覧。
  2. ^ a b c d 金 正美”. コーエンプラス (2015年). 2016年11月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月10日閲覧。
  3. ^ a b 私のハラボジ - 桜井哲夫”. ラジオ深夜便. NHKサービスセンター (2003年). 2016年11月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月10日閲覧。
  4. ^ 金正美『しがまっこ溶けた 詩人桜井哲夫との歳月』日本放送出版協会、2002年7月25日、46頁。ISBN 978-4-14-080704-0 
  5. ^ a b 「銀座ステファニー化粧品 千葉県富里市に配送センター竣工」『産経新聞産業経済新聞社、2003年1月12日、東京朝刊、8面。
  6. ^ 雑誌・新聞掲載記事”. 金正美の部屋. 2016年11月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月10日閲覧。
  7. ^ a b 受賞者紹介 社会貢献者表彰”. 社会貢献支援財団. 2016年12月10日閲覧。
  8. ^ 権徹『てっちゃん ハンセン病に感謝した詩人』彩流社、2013年11月21日、4-10頁。ISBN 978-4-7791-1954-5 
  9. ^ 志賀信夫「放送時評 難病の子に夢の施設」『信濃毎日新聞』信濃毎日新聞社、2002年2月24日、朝刊、34面。
  10. ^ 日本民間放送連盟賞 / 2002年(平成14年)入選・事績”. 日本民間放送連盟賞. 2016年12月10日閲覧。
  11. ^ 日本民間放送連盟賞 / 2007年(平成19年)入選・事績”. 日本民間放送連盟. 2016年12月10日閲覧。
  12. ^ 平成24年度(第67回)文化庁芸術祭受賞一覧(参加作品)” (PDF). 文化庁. 2016年12月10日閲覧。