鈴木 文彌(すずき ぶんや、1925年1月4日[1] - 2013年1月20日)は、日本のフリーアナウンサー、スポーツ評論家。「鈴木文弥」と新字体による表記が用いられる場合もある。

すずき ぶんや
鈴木 文彌
プロフィール
出身地 日本の旗 日本東京府
(現・東京都
生年月日 (1925-01-04) 1925年1月4日
没年月日 (2013-01-20) 2013年1月20日(88歳没)
最終学歴 早稲田大学
職歴 NHKアナウンサー→フリー。
活動期間 1948年 - 2013年
ジャンル スポーツ中継
担当番組・活動

来歴・人物 編集

東京府(現・東京都)出身。東京府立第一商業学校を経て早稲田大学卒業。1948年NHKに入局し、広島中央放送局大阪中央放送局を経て、1958年より本部編成局アナウンス部に配属され[2]アナウンサーとして長年に亘り、スポーツ中継の実況担当で活躍。その後一時期、大阪中央放送局のチーフも務めた。

特にオリンピックでは、1964年東京オリンピックの開会式[3](ラジオ。市川崑が監督を務めた記録映画で、開会式の場面で流される実況音声は鈴木のものである)や、バレーボール日本女子代表が金メダルを獲得した試合の実況を担当。「金メダルポイント」、あるいは体操競技の「ウルトラC」という名言を発したことでも知られた[注釈 1]

オリンピック以外でも野球中継も担当し、1969年第51回全国高等学校野球選手権大会決勝愛媛県立松山商業高等学校青森県立三沢高等学校)の一戦ではラジオ実況中継を担当している[1]。意外なところではNHKがプロボクシング中継していた昭和30年代に実況を担当していたことがあり、ファイティング原田が世界チャンピオンになる前の1961年に後楽園ジムナジアム[注釈 2]でソムワン・バンブン(タイ)とノンタイトル戦を行った試合(1961年9月9日、NHK総合テレビ)の中継を担当した記録が現存する[4]

ほかに1970年並びに1971年の両年には『NHK紅白歌合戦』で司会と実況を務めた。

1982年にNHKを退職後[1]はフリーに転向し、テレビ東京スポーツTODAY・プロ野球速報』の初代総合司会者に就任するも、病気により途中降板した。

1990年代にはニッポン放送いまに哲夫のジョイフルモーニングニッポン』に「スポーツ評論家」として電話出演していた。

2013年1月20日、急性肺炎のため死去。88歳没[5]

著書 編集

  • 『ホップ・ステップ・ジャンプ!!―鈴木文弥のスポーツ放送・ウルトラC』(講談社、1982年)
  • 『仕事人間、55歳からの元気のすすめ』(講談社、1989年)

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 「ウルトラC」の語は、五輪前年に体操競技の強化委員だった上迫忠夫が取材に答えて発したものを、デイリースポーツが報じたものが初出であり(『デイリースポーツ三十年史』デイリースポーツ社、1978年、P49)、鈴木はすでに存在していた言葉を使用したにすぎない点は留意が必要である。
  2. ^ 当時は後楽園ホールが建設されておらず、後楽園球場の近傍にあった後楽園ジムナジアムでプロボクシングの試合を開催していた。

出典 編集

関連項目 編集

  • 土門正夫 - 東京オリンピック女子バレーボール決勝のラジオ実況担当アナウンサー。