バレーボール日本女子代表
バレーボール女子日本代表(バレーボールじょしにほんだいひょう)は、国際大会で編成される日本の女子バレーボールナショナルチーム。2018年度までは、日本バレーボール協会での正式名称はかつて全日本女子バレーボールチーム(ぜんにほんじょしバレーボールチーム)であったが、2019年1月からバレーボール女子日本代表に変更された。
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国または地域 |
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大陸連盟 | アジアバレーボール連盟 |
協会 | 日本バレーボール協会 |
監督 | 眞鍋政義 |
国名コード | JPN (Japan) |
FIVBランキング | 6位(2023年1月1日現在)316ポイント[1] |
オリンピック | |
出場回数 | 13回 |
初出場 | 1964 東京 |
最高成績 |
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世界選手権 | |
出場回数 | 16回 |
初出場 | 1960 世界選手権 |
最高成績 |
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ワールドカップ | |
出場回数 | 13回 |
初出場 | 1973 ワールドカップ |
最高成績 |
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アジア選手権 | |
出場回数 | 20回 |
最高成績 |
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概要と特徴について編集
プレイスタイルについて編集
女子日本代表チームはユニチカ以来の守備力重視のバレーを継承している。1996年のアトランタオリンピック後は高さ重視のバレーで戦っていたが、主力選手の度重なる怪我により再度守備力重視のバレーに方針を転換した。現在は守備力とスピードを重視したバレーを行っている。
「IDバレー」を掲げる眞鍋政義監督は、分業制で複数のコーチを起用。2011年には、トスから0.8秒でサイド攻撃のスパイク(従来は1.1秒ほど)という男子並みの「高速バレー」にも挑戦した[2][3]。
ユニフォームについて編集
1964年東京オリンピック前後から日の丸を連想する赤と白の配色を使用し、これが長らく日本代表の定番であった。また、1968年メキシコシティーオリンピックではシャツとブルマーがオレンジ色のユニフォームを、1972年ミュンヘンオリンピックではそれぞれが深緑色のユニフォームを着用したが、ミュンヘンオリンピック以後は再び赤と白タイプのものに戻った。
1989年から現在に至るまで、ミズノ社のユニフォームを女子は採用している。
1991年に赤・青・深緑・黒を基調にした4種類のユニフォームが登場。しかしながら公式戦においては赤か白を着用することがほとんどであった。1994年にはワンピースタイプ(一般に発売されたのはセパレーツタイプ)、1995年には一時期ワンピースタイプを改造したスパッツタイプ、1997年はワールドグランプリまでは(9月のバレーボールアジア選手権については不明)定番であったブルマーだったがグラチャンでスパッツタイプが採用され(ただし第3戦からはブルマーを着用(詳細は当該ページを参照))、1998年からはショートパンツが採用され半袖になり、2002年からはノースリーブ型に移行。2006年にはシャツの着丈とパンツの股上が短くなり、シャツネームの愛称使用も導入された[4]。
2008年北京オリンピックのバレーボール競技・世界最終予選の頃にはまだ数名だったが[5]、その後肘・膝サポーター(パッド)は、従来の白でなく黒で統一されていった[6]。
2009年のグランドチャンピオンズカップでは黄色、2010年の世界選手権では代表ユニフォーム色としては珍しいオレンジが登場。また、移動時やベンチではオレンジ色のジャージを着用した[注 1]。
東日本大震災が発生した2011年には、ワールドカップで左胸(日の丸の上部)にこころはひとつと小さく縫いつけられた[7][注 2]。また、その日のユニフォームの色に応じて赤・黒・紫のお揃いの細いヘアバンド(ヘアゴム)を着用して臨戦する選手もいた[11]。
近年オリンピックにおいては新デザインがお披露目されることがほとんどであったが、ロンドンオリンピックに於いては前年からのデザインのものを着用。
2013年のモントルーバレーマスターズから、動きやすさを追求した新ユニフォームを着用[12]。同年秋のグランドチャンピオンズカップでは、それとは異なる新ユニフォームを着用。正面・脇に細かいドット柄のあるデザインで、新素材「テクノスパークLS」を使用し115g[13](従来比約10gの軽量化)を実現した[14]。また、全日本史上初となる、赤を基調としたシューズを着用[15][16]。なお、監督ほかスタッフのポロシャツ、選手の上ジャージは、共にマゼンタ色のものだった。
2015年にはミズノ社の「火の鳥カラー」(オレンジ色)の試合シューズで色を選手全員統一した[17]。ユニフォームは従来通り3パターン(それぞれ赤・黒・白を基調としたもの)。
2016年には「火の鳥 NIPPON」を炎に例えてきたユニフォームの最終形として、最も高温時に発色する「ブルー」を採用(シューズカラーも)[18]。これに伴い、パンツの色は従来の黒・赤の2種類から黒・紺へ変更となった。
呼称について編集
かつては競技スポーツ全般において、日本のナショナルチームを「全日本」と呼ぶことが通例であったが、2019年現在、この呼称は使われなくなってきており、バレーボールに関しても報道機関によっては以前より「日本代表」と呼称している場合があった。日本バレーボール協会でも、2018年までの「全日本」「全日本チーム」という呼称を変更し、2019年より「日本代表」を用いることとした。
日本バレーボール協会は、「監督名+ジャパン」のような(例:「柳本ジャパン」)メディアからの番組放送上の呼称発信ではなく、協会が自らキャッチフレーズを提唱することを決定。2009年3月から4月、チームの愛称を公募した。2009年6月、一般公募の中から協会での選考の結果、チームの愛称を「火の鳥NIPPON」とすることを表明している[19][20]。
歴史編集
日ソ2強時代編集
1951年、国際バレーボール連盟へ加盟[21]。
第二次世界大戦での敗戦の爪痕がまだ残っていた日本社会ではあったが、戦後の復興スピードは目覚ましく、特に、紡績業が糸へん景気に沸き、大きく業績を伸ばしていた。だが世間的には、紡績業は「女工哀史」のイメージがあまりに強く、紡績企業が望む希望雇用人数に達することは難しい時期でもあった。それゆえに、各紡績企業は、過去のイメージを払拭すべく、手厚い福利厚生をアピールしつつ、自社名を世間に広めるために、女子バレーボール実業団チームを持つことが流行になっていた。日紡も少し遅ればせながら、この業界の流れに加わり、本拠地を貝塚に置き、実業団チームを結成した。これが、日紡貝塚の出発だった。
初代監督には、関西学院大学で大学二連覇の実績を持つ、社員の大松博文が抜擢された。日常業務終了後、比較的、背が高いだけの素人女性社員達を集めて、大松が独りでパスから教えるという環境であったため、当然、芳しい結果は得られなかった。大松は、チームの成績が低迷していることに、上層部から厳しい叱責を受け、日本一になることを命じられる。大松は「肉体への厳しい訓練は、精神強化に繋がる」ことを自らの過去の経験で知っていた。大松は、世界大戦時、推定16万人の犠牲者を出したインパール作戦に、第31師団小隊長として従軍し、「死の行軍」と呼ばれた撤退作戦を生き抜いて帰国した人物だった。かくして、大松は、軍隊式の厳しい体力強化訓練と自らの持つバレー技術を、素人同然の女子選手達に指導し、チーム発足から5年目にして、当時のバレーボール界での5冠を達成し、圧倒的な強さを誇る日本一のチームを作り上げた。
当時の日本では、まだ9人制が主流だったが、世界は6人制が主流だった。このために、日本女子バレーの世界での実力は未知数だったのだが、1958年に国内で6人制の大会が行われ、6人制でも日紡貝塚は圧倒的な強さを見せたことが「1960年のブラジル世界選手権に出させてみよう。日本は勝てるのではないか?」という期待に繋がっていった。1960年には、河西昌枝・宮本恵美子・増尾光枝・谷田絹子・半田百合子・松村芳子という、後に「東洋の魔女」と呼ばれたメンバーが日紡貝塚に集結していた。
初の世界大会となる1960年の第3回世界選手権では、予選リーグを全勝で通過。進出した決勝リーグでも強豪国を撃破し、ソ連(現:ロシア)には敗れたものの、初出場ながら銀メダルを獲得した。
代表選手選考は、日紡の選手を中心に選出され、監督も大松が務めた。結果は初出場にて銀メダルと言う輝かしいものだったが、国内無敗だった日紡貝塚メンバーと大松にとっての銀メダルは「敗北の屈辱しかない」大きな衝撃であり、結婚を見据えて引退を決意していた河西・宮本は、引退決意を撤回し「打倒ソ連」に人生の全てを賭けた。この大会で、大松が一番強く感じたのは、「海外選手との体格差」だったという。チームで一番背の高い(174㎝)セッターの河西以外は、ほぼ大人と子供のような差すら感じたようで、大松はソ連対策に明け暮れた日々を過ごしていた。
そこで、大松が編み出したのが「回転レシーブ」である。「棚から落ちたダルマ人形が、勝手に立ち上がったのを観て思いついた」という、まるで、漫画のような話だが、本当の話である。そして、その技術指導は悲惨を極めた。
選手達は、いつも体中のどこかに、生傷や怪我を抱えた状態のまま就業し、就業が終わったら、夜遅くまで練習をする日々を過ごした。練習時に、選手が失敗をすれば、大松の罵声と怒号が体育館に響き渡った。
この苛烈な練習状況を知った労働組合やフェミニズム団体は、大松の練習姿勢を大きく批判した。日本女子バレーボールに「スパルタ」「精神論」「根性」のイメージがついた原因は、このことが大きい。
しかし、実際の現場の様子は違っていたようで、「私達が先生の奴隷だったような話になっていますが、もし本当だったら、皆、とっくにバレーも会社も辞めています。全然違います」と主将の河西は断言する。
選手達の証言によれば「大松先生が回転レシーブを実際に何度もやってみせてくれたから、私達もやろうと思った。黒板に書いて説明するだけの馬鹿監督なら誰もついていかない。先生は、絶対にソ連に勝ちたかった私達に付き合ってくれただけ」という内容のものが多く、選手達の大松に対する感情・意見は、総じて世間のイメージとは大きく違っている。
当時の日本女子チームの強さの理由のひとつに、主将河西の存在があった。最年長の河西は、メンバー全員にとって、プライベートでも実姉のような存在であり、チームの団結は強固だった。
「就業時間が、大松先生より私達の方が短いので、先に河西さんを中心に練習を始めます。河西さんの構えた所に、私達がレシーブを返すんですけど、一ミリズレたら、河西さんは取らない。無言で睨み返してくるだけです。先生より怖かったです。河西さんは、自分のための練習時間を犠牲にして、私達を鍛えてくれているのが痛いほどわかってましたので、ホントに必死でした。大松先生が来たら、皆、ホッとする感覚もありました」という、選手間だけの練習時の模様の話も残ってる。
大松は、練習中、チーム内に気が緩んだ空気を感じると「やめちまえ!」と練習場から不意に出ていく癖があった。この場合の東洋の魔女チームの対処は、まず河西が大松を追いかけて、練習続行を懇願する。
だが最終的に、河西は、大松の傲岸な態度に我慢ならなくなり、「練習中に出ていくなんて、監督は卑怯です!」と大松を罵倒した。その様子を外から眺めている他メンバーが「そろそろいく?」と相談し、皆で泣きながら大松に練習を直訴した。
宮本によれば「泣くのは演技です。茶番です」だそうだが、時は流れて、狩野舞子がいた八王子実践高校でも似たようなことがよくあったそうで、この練習時の監督激怒茶番劇は、どこの女子バレーチームにもある伝統芸なのかもしれない。
1962年の第4回世界選手権は日紡貝塚の単独チームによる出場で金メダルを獲得。
当初の全日本女子は「東洋の嵐」というニックネームだったが、世界選手権前の欧州遠征強化試合にて22連勝を達成したことで、ソ連の新聞により「東洋の魔女」と命名された。
決勝相手は、当時世界最強だったソ連となる。決戦時の日本チームの状態は、増尾は膝の怪我、谷田は脚気、宮本は小指骨折、松村は片目が見えない状態という、怪我人だらけの布陣だった。
だが「皆、これくらいの怪我は、ごく普通の事でした」という驚異的な環境で過ごしていた彼女達は、「ソ連に勝つ為ならなんでもやりましたから」と、試合出場を全くためらわず、更に怪我を感じさせないプレーでソ連に勝利する。
ソ連に勝つ悲願を達成した魔女達が、勝利の喜びを大爆発させた理由の一つに「解放感」があった。若い磯辺以外のメンバーは、勝利と共に引退を決意していたからだ。だが、当時の日本の世論は、魔女の引退を許さなかった。
「世界の舞台でソ連に勝った」という事実は、当時の日本人にとって特別なことだった。第二次大戦後、シベリアに抑留された日本人捕虜・死者数は数万人に及んでいたし、
日本から離れた満州や北朝鮮で暮らしていた日本人達は、敗戦と共に帰国の途に付くも、ソ連兵の襲撃にあっていた。この時、ロシア人によって性的屈辱を受けた婦女子の数は相当数に登っている。
ゆえに、この勝利には、「恨み・怒り・哀しみを晴らしてくれた」という日本人の感謝の想いがあった。
この瞬間より、日本女子バレーボールは、日本人にとって常に「勝利への絶対的期待」と「敗北が許されない呪い」が伴う特別なスポーツになった。
1964年の東京オリンピックも日紡貝塚中心のチーム構成で金メダルを獲得し、大松博文監督が率いる同チームは東洋の魔女と呼ばれた。
そもそも、大松監督と魔女チームは、東京五輪に出場する気持ちが全くなかった。大松は、あらゆる関係者からの出場要請を断り続けた。その理由は「選手達が結婚適齢期を過ぎてしまうから」という内容だった。
大松は「もし東京オリンピックに出るなら、皆、結婚適齢期を越えてしまいます。特に河西は31歳にもなる。29歳で辞めるのと、31歳では雲泥の差です。そんなむごい事は、僕にはできません」という内容を何度も繰り返した。
現代では、逆に女性差別に繋がる理由だが、当時では、普通人の思想と考えられており、女性蔑視には取られない思想だった。それでもなお、周囲は大松への要請を辞めない。弱りはてた大松は、日紡の選手達自身に五輪出場判断を委ねた。
引退を決めていた選手達は弱りはてた。そして、全ては、河西昌枝に委ねられた。河西は答えの出ない思考を続け、「現状の世間の期待に抗う事は難しい」という結論を出し、五輪に出場する覚悟を決めた。
肝臓を傷めていた増尾だけは、引退せざるを得なかったが、他のメンバー達は「河西さんがやるなら、私もやります」と、皆、予定していた自分の人生を投げうって、河西についていくことを決めた。
「現代のような高度なチームプレイがないから、という理由もありますが、私達のチームでは、セッター河西さんからのサインは全く出ないのです。何も言わなくても、私達の間柄なら、全部わかりますから。
例えば、ジグゾーパズルみたいなものです。たった1ピースが欠けちゃうと駄目です。誰か一人でも抜けるとチームとして機能しない。私達は、自分の人生よりメンバーの方が大事ですから」と宮本は振り返る。
絶対に負けられないプレッシャーに勝ち、金メダルが決まり、日本社会が、空前の規模の歓喜に湧いた。魔女達も喜びを爆発させた中、大松だけは喜びきれなかった。
大松は「全てが終わった。まるで、自分の身が地に沈んでいくような、不思議な感覚でした」と述懐している。
大松は、五輪終了後すぐに、選手達のお婿さん探しに奔走し続けた。恋愛結婚の半田以外は、彼女達の結婚は、全て大松の紹介によるものだ。だが、最年長の河西の相手だけが決まらず、大松はこのことを嘆いていた。
大松は「会社が、河西の婿を見つける約束でしょう!」と、婿探しに動かない会社に激怒し、会社に辞表を提出した。翌年、日本の首相に佐藤栄作が就任した。その祝賀パーティーでの出来事である。
「大松君、こういってはなんだが、金メダルのご褒美に何か欲しい物があったら、私に是非いってほしい」と佐藤栄作は大松に言葉をかけると、大松は「是非、河西昌枝の婿探しをよろしくお願い致します」と即答した。
大松の返答に、心を打たれた佐藤栄作は、自衛隊二尉の中村和夫を河西に紹介し、河西は、中村とお見合い結婚をする運びとなった。
この経緯で、日紡を退社した大松は、中国の周恩来首相のたっての希望で、中国にて女子バレーボールを普及させ、1981年ワールドカップ・1982年世界選手権・1984年ロサンゼルス五輪にて、中国女子が王者となる下地を作った。以後は日本とソ連が優勝を争う日ソ2強時代がしばらく続き、1968年のメキシコシティオリンピック、1972年のミュンヘンオリンピックはいずれもソ連に敗れて銀メダルであった。
1976年のモントリオールオリンピックでは日立中心のチーム構成で臨んだ。「たい焼きレシーブ」など守りの粘りと、セッター松田紀子の「世界一速いトス」による前田悦智子の「稲妻おろし」やエース白井貴子の「ひかり攻撃」、高柳昌子の「ロケットサーブ」などの攻撃で、他を圧倒し12年ぶりに金メダルを獲得[22]。ソ連との決勝では15-7、15-8、15-2のストレート勝ちを収め、大会史上初となる失セット0の完全勝利という快挙であった。
1980年のモスクワオリンピックの出場権は、前大会優勝国として既に獲得していた。選手強化も順調に進み、1979年のプレオリンピックでも優勝したことで五輪連覇できる可能性はかなり高いと言われていた。しかし同年開催国のソ連がアフガニスタンに侵攻し、これに対する対抗措置としてアメリカ政府が提案したオリンピックボイコットに日本政府が同調したため不参加となった。
「東洋の魔女の大成功物語」から始まった日本女子バレーボールの歴史は、大松の退任以降、長期に渡って、山田重雄と小島孝治の二大巨頭中心に回っていく。
二人の共通点は「体育教師」という一点のみだった。ルックス、好むバレーボールスタイル、個人の性格、ほぼ全ての部分で正反対であったといえよう。
この時期の女子バレーボールは「日本のお家芸」「国技」と言ってもおかしくない超人気スポーツの位置にあり、日本社会が空前の好景気だった追い風もあって、日本の巨大企業群を巻きこみ、利権が絡む覇権争いを生み出していった。
当時の山田重雄は、コーチとして三鷹高校を日本一に導いた小さな実績と、巨大な野心を持っていた男だった。全日本バレーボール女子監督に就任して世界一になる夢を持ち、自ら足を運んで、各企業群に自分を売り込む活動をしていた。
そして、ある年に、山田の念願が叶った。多摩地区企業群に、バレー部設立の話を持ち掛けた時、小平市に工場を構えていた日立製作所が、山田の話に乗ったのだ。山田は、かつての教え子達に片っ端から連絡し、日立に呼び寄せ、指導を行った。
女子バレー界屈指の名門「日立製作所武蔵工場バレーボールチーム(後の日立ベルフィーユ=廃部)」は、こうして「野心家の一人の男」によって、日本社会に誕生した。
もう一人の体育教師、小島孝治は、四天王寺高校の体育教師であった。バレーボールにおける高い指導力から、大松の後任として、日紡貝塚に就任し、次期メキシコ五輪の有力候補となっていた。
しかし、すでに日紡貝塚には、魔女達はおらず、小島がチームを一から作る状態となっていた。その結果、日紡貝塚は、258連勝の大記録をヤシカに止められ、山田率いる日立武蔵に敗北し、小島は、その指導力に疑問を持たれてしまう。
この間、山田は日立武蔵をわずか4年にて、NHK杯・日本リーグ・全日本総合タイトルを獲得させ、この勢いにのって、全日本女子バレー監督に就任が決まった。この時の山田の年齢は、わずか36歳であった。
山田は、拾って繋ぐ大松イズムを否定し、攻撃的パワーバレーを好んだ。全日本女子チームでも、自身が率いる日立のメンバーを中心に構成し、攻撃的パワーバレーにて、メキシコ五輪に臨んだ。
全日本女子は、快進撃を続け、五輪の決勝相手にソ連を迎えた。当時のソ連の監督は、名将ギビ。ギビは、完膚なきまでに山田の戦略の裏をかき、パワーバレーで日本を叩き潰した。ソ連は苦しむことなく金メダルを獲得した。
ギビは、完勝の理由を「日本の戦略が全てわかっていたからだ」と説明した。山田が、この瞬間にギビから受けた屈辱は計り知れない。銀メダルの結果を受けた山田は、責任を取る形で、全日本監督を退いた。
しかし、この時から、山田の「執念」が始まる。山田は、資産家の養子であり、お金には困らない立場だった。私有資産をつぎ込み、ソ連のある人物から、ギビの生い立ちや住まいの様子など、履歴情報を全て買い入れた。
ソ連チームが来日した際には、ギビの椅子に隠しマイクをつけ、選手にかける声を全て拾い、分析をした。ギビは普段から何を食べるのか、私生活でどんな会話をするのか、食事に使う額はいくらか。何もかもを徹底的に調べ上げた。
この山田の執念が、1976年モントリオールでの日本の完全勝利へと繋がる。山田は逆に「ソ連が何をするのか全部わかっていた。ギビも、そのことに気づいただろう。試合の途中、彼が気の毒ですらあった」という勝利感想を述べる。
バレーボールにおける、日ソの二強時代は、この70年代にて終わったと言えるだろう。
時期が前後するが、1972年のミュンヘン五輪で指揮を執った人物は、小島だった。決勝時の、日本とソ連の激闘は、伝説の名勝負とされている。当時20歳で、身長180㎝を越える白井貴子が、全日本に現れていた。
白井は、日本が待ち望んだ、期待の高身長パワーアタッカーだった。しかし、白井は、守備を好む小島のスタイルとは合わず、自身が肩も痛めていたことで、五輪決勝まで、ほとんど試合で起用されることはなかった。
その白井が、決勝にて起用され、活躍を見せた。「小島さんが好きなスタイルではない自分が、まさか、この大事な試合に出るとは思っていなかった」と述懐する白井は、劣勢だった日本を救うスパイクを打ち込み、ポイントを重ねていった。
波に乗った日本の金メダルは目前にみえたが、小島が、フォーメーション表を間違えて記入提出をしてしまったことで、あっけない敗北の終焉を迎えた。
「私は、レシーブが苦手。小島さんの拾って繋げるバレーは私には向かない」と悩んでいた白井が、バックの守備位置から始まることになってしまった。本来なら、白井は前衛レフトスタートから始まるはずだった。
チームの動揺は大きく、ソ連に主導権を掴まれてしまった。結果は、銀メダルではあるものの、「前回のメキシコ五輪に続き、ソ連相手にまた負けた」こと、「金メダルを連続で逃した」ことで、世論から大きな非難を受ける。
敗北による悔恨の念に塗りつぶされた白井は、帰国の飛行機の中にて、わずか20歳ながら引退を決意した。「金メダル以外は敗北」という時代に生きた彼女達にとって、なんら不思議なことではなかった。 だが、その飛行機の中で、小島から日本の新聞を渡された白井は「白井、日立に移籍決定」という記事に驚く。白井自身が全く知らなかったからだ。「山田さんのマスコミ戦略です。でも、私自身これで終わるより、賭けてみるかなって」。
山田は「ソ連に勝つには、まず自分のチームである日立を強化するべき」という方針をとり、勝利のために、日本の各企業チームから優秀な選手を、片っ端から日立に引き抜いた。山田は、小島のチームからも6人もの選手を引っ張った。
1976年のモントリオール五輪にて、再び全日本監督に返り咲いた山田重雄は、得意のパワーバレーによる「ソ連対策」の厳しい練習を選手達に叩きこみ、ソ連相手の決勝にて、3セット55分で終わる最短記録を叩きだして勝利した。
「ソ連のスタメン表をみた瞬間に、私達の勝利がわかりました。練習通りにやるだけでした」と白井は笑って述懐した。翌年、日本開催W杯でも、日本女子は優勝し、山田は、世界選手権・五輪・W杯の三冠を達成した大成功者となった。
この時、日本女子バレーは、東洋の魔女以来の黄金期を迎えた。
低迷期へ編集
1984年のロサンゼルスオリンピックは、逆にソ連がボイコットして不参加。米田一典監督が率いる全日本は江上由美(丸山由美)や三屋裕子など日立中心のチーム構成で臨み、準決勝で中国に敗れるも3位決定戦でペルーに勝利し銅メダルを獲得。しかし、この銅メダルという不本意な結果に対し「単独チーム方式」では限界があるという声がしだいに大きくなり、1986年の第10回世界選手権では所属チームにこだわらず広く各チームから才能を集める「純粋選抜方式」で挑んだが、結果は7位と沈んだ。
モントリオール大会で世界の頂点を極めた日本女子バレーではあったが、山田は「日本女子バレーの将来は危ない」と危惧していた。
1982年の世界選手権で、小島率いる全日本が4位に沈んだこともそうだが、それ以前に、1981年から、中国が強くなってきたのだ。かつて、中国に渡った大松の指導が全てとは言わないが、少なくとも成功への下地は大松が作った。
東洋の魔女の大成功は、中国がバレーボールに大きな興味を持つきっかけとなった。当時の社会主義国家が好んだ行動の一つに、スポーツ振興を国家的プロジェクトとして推し進めるというものがあった。国家威信を高める効果を狙ってのことだ。
中国は、国家的事業スポーツの一つに、女子バレーボールを選び、巨額の国家予算を自国の女子バレーボール界に割り当てた。その結果、年々優秀な選手が発見、指導、育成されていき、指導する組織も順当に編成されていった。
70年代後半から、強さを世界に示し始めた中国は、80年代初頭になると、女子バレーボール界における世界強豪国の一角となっていた。
その他キューバや東欧諸国の社会主義国家も、バレーボールに力を入れ始めていた。山田は、日立にジュニア育成事業の必要性を熱心に説いたが、日立にすれば、バレーボールはあくまで企業の一事業であり、山田の案を受け入れなかった。
「それならば」と山田は、私費でエリート養成システムを作り、優秀な人材を育成する練習場と寮施設を作り、特別育成選手を全国募集するオーディションを開催。数千人に及ぶ候補者が現れ、その中に「中田久美」がいた。
中田久美は、15歳で全日本に選出され、81年の日立チームが達成した「失セット0での全勝優勝」に貢献した後、1983年に日本代表のスタメンセッターとなり、アジア選手権にて、当時世界最強に君臨していた中国を破る原動力の選手になった選手だ。中田は「稀有な才能と、努力を惜しまない性格が共存していた逸材」であり、かつて日立の練習場には「中田久美は、練習時いつも同じ場所でトス練習をしており、そのいつもの場所の床は、中田の汗で変色していた」という逸話がある。
ロス五輪大会では、ダイエー所属の米田が率いる形になってはいたが、米田は日立の元コーチであり、チーム選考などの重要事項は、総監督山田が決定していることは誰もが知っていた。
ロス五輪全日本女子代表メンバーは、山田が率いる日立メンバーを中心に選ばれた。前年度のアジア選手権にて、日本が苦手だった中国に遂に勝ったことや、幾つかのバレーボール強国が、ボイコットで五輪出場を断念したことから、日本社会の女子バレーボールチームへの金メダル奪取期待値は非常に高まっていた。山田率いる全日本は、準決勝相手が「米国」と予想し、米国対策を徹底的に練り、練習時間を大きく割いた。
しかし、この予想に反して、準決勝の相手は中国になってしまった。中国を分析し、対策するには、時間が足りなかった。中国は、もはや対策不十分で勝てる相手ではなく、日本は準決勝で中国に敗れてしまう。
日本は、最終的には3位でロス五輪を終えた。表彰式にて、中田は、自身の首にかけられた銅メダルをすぐに外した。「欲しかったメダルはこれじゃない」。
日本女子が、ロス五輪大会にて金メダルを逃したことは、日本社会とバレーボール関係者に衝撃を与え、議論がおきた。
「ユニチカの小島か、日立の山田か。どちらかを選ぶやり方ではなく、日本人が一丸となって戦わないと世界には勝てない」という結論から、ディフェンス重視スタイルの、ユニチカ所属小島を全日本監督にすえ、
オフェンススタイル重視の、日立所属山田を強化委員長に据えた。しかし、この人事は「現場に、ただ悲惨な混乱が起きただけ」という結果に終わり、成績も大きく落ちた。この案はすぐに撤回されることになる。
1988年のソウルオリンピックでは中田久美や大林素子など再び日立中心のチーム構成で臨むも、準決勝でペルーに、3位決定戦で中国に敗れて初めてオリンピックでメダル無しに終わった。その後は1992年のバルセロナオリンピックでは5位、1996年のアトランタオリンピックでは9位と成績は下降を続け[注 3]、2000年のシドニーオリンピック最終予選では3連勝の後に中国・イタリア・クロアチア・韓国に4連敗を喫して初めてオリンピック出場権を逃した。
第20回日本リーグを制した日立の山田は、全日本監督にまたもや返り咲く。山田は、日立チームにおいて、セッター中田久美を中心にしたチームを作り、なおかつ選手の大型化を図った改造を行うことを計画し、成功していた。
ゆえに、山田は、当然、自身の日立チームを中心に、全日本メンバーを結成したが、日本の至宝・全日本の司令塔であり、キャプテンだった中田久美に右膝靭帯断裂事故が起きてしまう。悲願のソウル五輪での金メダル奪取に暗雲がたちこめた。
この出来事も、山田は得意の「執念」で乗り越える。すでに現役引退後のブランクが二年ほどあり、新婚で小田急の監督に就任したばかりの江上由美を復帰させるプランを考えた。
だが、かなりの難題であった。江上自身が声をかけ、江上を頼って、小田急に来た選手も多く、江上には、選手の親への立場もある。小田急も、新監督江上の人気と指導に期待していた。
山田は、小田急の監督に、江上の夫を据える提案・実行を進めた。江上の夫は、大学にてバレー指導をしていたが、山田は、江上の夫に大学監督業を辞めてもらい、小田急での監督に就任させることで手打ちとした。
江上自身は「日本のピンチですから、自分の事情は後回しです」とこの案を受け入れた。一方、中田は過酷なリハビリを乗り越え、まだ医療が発達していない時代のこの大怪我から1年で復帰を果たす。
とはいっても、中田の右膝は、ほぼ曲がらない状態のままで、強い痛み止めを摂取し、右膝の感覚がほぼないままのプレーだった。しかし、この状態でも、中田久美は実力を発揮し、復帰した江上と共にチームを勝利に導いていく。
ソウル五輪での激戦を勝ち進み、日本の準決勝の相手はペルーに決まった。最終セットにまでもつれ込むも、日本は優勢の場面を迎えた。ところが、試合の終盤、審判は、ペルーに有利で不可解な裁定を、連続で行い続けた。
それまで取らなかったホールディングを急に二度も取るなどの判定が続き、日本は極度にリズムを崩し、この大事な試合を敗戦してしまう。そして、3位決定戦では強敵中国に負け、銅メダルを逃してしまった。
「日本女子バレーボールが五輪でメダルを逃す」ということは、日本人にとって初めての事態であり、日本社会は、女子バレーボールへの批判・不満の声を高らかにあげた。
92年のバルセロナ大会には、中田久美は当初、出場しないつもりだったが、イトーヨーカドーのコーチだった米田が代表監督に就任し、この米田のたっての願いで代表に出ることを決めた。
日本女子と世界との差は、バレーボールの技術がどうこうよりも、身長差と運動能力という、身体構造の違いによる差で勝てない時代になった。そのため、世界との差を埋めるには、中田の現場戦術眼がなければ、初めから勝つ見込みはなかった。
中田は「イメージ通りに動かない右膝との付き合いがわかってきた」ことと、「アタッカーをいかに上手に活かし、伸ばすかという考え方になった」ことで、中田の現場戦術眼は、最盛期を迎え、日本の名選手達を育てる役割を果たしていた。
バルセロナ大会の結果は5位に終わったが、負けた相手は、レベルの高いEUN(旧ソ連)とブラジル。現場レベルでの回想だと「勝負は紙一重だった」そうだが、日本社会は、またも日本女子がメダルを逃したことに失望し、監督と選手に「最低限でもメダルを獲らなければ許さない」という十字架を背負わせ続けた。
何よりも、社会事情が変わってきていた。1991年より、日本社会に重度の経済問題が起きていた。「バブル崩壊」と言われる社会現象で、不動産価格と株価が大幅下落を記録し、景気が日々悪くなっていき、底が見えないほど、落ち続けた。
当時の企業は、リストラと呼ばれる従業員解雇を大量に行うことがお決まりの手段となり、新卒採用を減らし、大量の氷河期世代を産んだ。
なおも、95年には、阪神・淡路大震災が起きてしまい、関西圏企業では、この大地震によるダメージを受けた工場や商業施設の再建設化を迫られる状況が産まれ、企業経営事情はどんどん悪化を辿っていった。
当然、各企業は「保有する実業団バレーボールチームの予算に力を入れる」という判断を決断させる材料が、日々乏しくなっていった。もはやチームの維持すら難しく、コストカット方針がとられた。
時期が少し前後するが、93年にサッカー界に、Jリーグが産まれ、一時的ではあったが、空前の大ブームが起き、大成功を収めたことで、「実業団主体の運営から、プロ化への道を進む」ことが色んなスポーツ界で検討され始めた。
「バレーボールもプロ化すべきではないか?」という激しい議論がなされ、行動を起こした人物・何もしなかった人物、それぞれ、バレーボールに籍を置く人物全てのの運命が変わる現実が待っていた。
山田重雄は、バブル崩壊直後時期あたりから、練習場にて指導する機会が極度に少なくなった。山田は、自室で株式売買に集中していると噂された。
かねてから、山田は、私有資産をバレーボール界に惜しげもなくつぎ込んでいたが、株価と不動産の大幅下落による影響で、決算収支に悩んでいたという推測がなされていた。雑に言えば「資金に困っていた」ということになる。
そんな状況下にあっても、山田は「バレーボールのプロ化は、日本のバレーボール界を発展させる」と考え、自身の影響力や政治力を使って、プロ化を強引に推し進めようとした。
まず、自身の所属する日立から始めたが、日立は猛烈に反対した。反対理由はいくつもあげられるが、何より「収益化の具体的プランが何もない。無謀無策」という決定的理由が目立っている。
この日立の回答に対して、山田は、子飼いの日立主力選手9人に、日立に辞表を出させる暴挙を犯して対抗した。この脅迫のような行為に日立は激怒し、チームの廃部を提示し、他企業チームもプロ化反対の立場に並んで賛同した。
この時点で、「日本女子バレーボールのプロ化は、実質なくなった」といえよう。プロ化の急先鋒的旗頭だった山田は、すでに風前の灯火のような存在と化していたが、日立は、なおも怒りを示した。
日立は、突如、山田を解雇し、更に辞表を撤回したはずの日立の9選手の内、大林素子と吉原知子の代表中心クラス選手二名も、突然に解雇した。この突然解雇は、他企業に所属する選手にとっても、無言の圧力にもなった。
解雇に動揺した大林・吉原は、プロ化に成功していたイタリアへ渡ったが、山田の行き先はどこにもなかった。
同時に、山田潰しが始まった。山田は、世間から猛烈なバッシングを浴びた結果、協会理事を辞任した。同時に、山田の息がかかった協会幹部陣は一掃された。
更に、山田はこうして98年に病死した。享年66歳であった。
山田は、女子バレーボール界において、空前の大成功を収めたが、同時に、成功のために強引な手段を使うことも多かったため、敵は多かった。 そして、協会会長だった松平康隆が、辞任を発表し、バレーボール協会は機能不全に陥った。バレーボール協会という存在は、この長きに渡り、個性と指導力の強いトップからのトップダウンのみで動いていた組織だった。
トップになるべき人材がいなくなると、役員達は、お互いに牽制だけを行い、少しでもリスクのある判断を避け続けた。川渕三郎は、著書にて「私には、バレーボールのプロ化は無理に思える。会長がすぐに変わり、本気で責任を取る気概のある人が全くいない。試合運営は地方協会に丸投げし、宣伝も広告代理店に丸投げしている。誰が何をやっているのかわからないまま、お金だけを獲っている組織だからだ」と強く批判している。
このVリーグ騒動に伴う破滅的状況の中で、96年アトランタ五輪大会は行われた。バレーボール協会は、この時期、チームをサポートする力を完全に失っていたようにみえる。例えば、「五輪本番時に、代表チームのための練習場を抑えなかった件」があげられるが、他にも細かい事項に及べば、不備は数え切れなかった。この状態で五輪で勝てる方が奇跡であろう。吉田国昭率いる代表チームは、厳しい敗戦に終わった。予選リーグのセット数は、3-12の1勝4敗。ウクライナ戦以外の試合全てのセットを落として、敗北した。日本人は「五輪大会にて、完膚なきまでに負け続ける日本女子チーム」という姿を観たことがなかった。日本社会に、「バレーボールは終わった」という衝撃が走った。
この結果に憂慮した協会は、アトランタ大会後の97年、NECで結果を出していた葛和伸元を監督に指名し、日本女子バレー建て直しへの全てを託した。だが、同時に強烈に重い足枷を付けた。「年齢制限」である。
「24歳以下で大型の選手を集めて、世界と闘ってほしい」という内容だ。表向きは「若返りと大型化で世界のトップ入りを目指す」という理由だったが、ベテランを切り離すという、果たして極めて不可解な理由であった。
これには、当時、日本トップクラスの実力者だった吉原知子を代表入りさせまいとする勢力の思惑が働いていた。オリンピック経験者で、チーム主将に任命された多治見麻子は、人事に違和感を感じたと述懐する。
「日本代表に、私がプレイを観たことをないどころか、名前を聞いたことのない選手が何人もいるんです。選手選考基準が不思議でした」。この時、代表に熊前知加子が選ばれていたが、当時は小田急にて、チームのビデオ係だった。
「チームの試合にすら一切出ていない私が、いきなり全日本なんて、意味がわからないじゃないですか」。確かにその通りであろう。勝ち負け以前に、戦った経験のない人間の集団が集められた。それが葛和ジャパンのスタートだった。
葛和は、あらゆる場面で諦めずに戦った。「戦術とか技術とかそういう以前の問題です。闘争心を持ってほしいという所からスタートです」。
葛和は、数年間、怒鳴ることで自分の意志を示した。葛和の怒号に泣きだす選手、怒りだす選手もいたが、葛和は、怒鳴るだけでなく、葛和の持つ独特の選手掌握術で、選手の心を解きほぐしていった。
3年が経過し、小島孝治をして「こんな急に成長するチームは初めてみた」と驚かせるほどに、チームは、葛和が当初に目指した戦う集団になっていた。
だが、主力の多治見の怪我により、葛和ジャパンは、苦難の道に戻される。多治見の膝は、手術が必要なほどに壊れていた。多治見がいたから、ここまで来れたことは、葛和が一番知っているが代表から外さざるを得なかった。
後任主将には、津雲が指名されたが、キャプテンマークは江藤に託された。江藤と多治見は、ジュニアの頃からの付き合いだったことからの葛和の判断だった。「麻子(多治見)の分も、絶対にシドニーに行く」と江藤は決意した。
だが、得点源の大懸に疲労骨折が判明。セッター板橋も調子があがらないことで、葛和は大きな決断をした。NECから竹下佳江、高橋みゆき、杉山祥子を、シドニー五輪最終予選の3か月前に招集することにしたのだ。
竹下は159㎝、高橋は170㎝と、協会の方針に反するサイズだった。特に竹下の身長に対して、協会からの強い横槍と口出しが来たが、葛和はその声を無視した。
竹下も、その声をわかっており、新加入記者会見にて「私は、勝つために来ました」と宣言し、戦う決意を周囲に示した。新戦力の加わった葛和の代表チームは、竹下と江藤のクイックが、非常に機能したことで、強豪国をことごとく破っていった。
しかし、葛和ジャパンの試練はなおも続く。江藤が右肘の靭帯を断裂してしまったのだ。江藤は、緊急手術を勧められたが、これを断り、「氷水で腕の感覚を一度完全に麻痺させて、その状態で無理矢理に腕を伸ばす治療」という、一般人には想像しがたい「痛くてたまらなかった」と江藤が邂逅するリハビリを続けた。この「アスリートが苦しむレベルの激痛」に抗えたのは、江藤には、戦線離脱した多治見への想いがあったからだった。
そして、大懸は、疲労骨折のまま「経験者の私が出ないと駄目だから」と出場を続けた。大懸の骨折箇所は実に4か所に及んでいた。
日本女子バレーの歴史を紐解くと、必ずといっていいほど、「選手達の自己犠牲」が見え隠れする。彼女達は、自分の骨が砕け、靭帯がちぎれ、筋繊維を引き裂かれる事態になっても、不撓不屈の精神で、コートの上に立って戦ってきた。
彼女達は、そのことを犠牲だとは全く思わず、「勝ちたい。そして後輩に繋げたい」という想いだけで戦ってきた。そして、彼女達は、満足できないとしても、それなりの結果を必ず出してきた。しかし、果てしない犠牲を払っても、届かない壁は存在する。「シドニー五輪大会出場を逃す」という、今まで日本女子バレー界が陥ったことのない、結果だけみれば、空前の大失敗が待っていた。
予選敗退がきまった試合後の控室は、百戦錬磨の葛和監督をして「とても声をかけられなかった」そうで、成人女性達が発する金切り声と泣き声が混じり合った絶叫の響き渡る異常空間だった。
竹下佳江は「シドニーの十字架」をこの時に背負うことになる。彼女のこの時のチームの最終予選参加期間は、わずか3か月にすぎない。
しかし「感覚的には、たぶん誤って、人をあやめてしまった時って、ああいう感じじゃないかなって思います」と振り返るほどに、精神的に追い詰められた。
竹下は、実に12年もの間、ロンドン五輪でのメダル奪取まで、この悲壮な想いを背負い続けたことになる。予選日程終了後、精魂尽き果てた江藤が日立に戻ると、多治見が門の前で待っていた。多治見は江藤を受け止め、江藤はただ泣き崩れた。
監督・選手達の努力はまるで何もなかったかの如く、各新聞・テレビでは「戦犯」という言葉の暴力のようなワードが何度も使われ、各選手達に言葉の刃が向けられる事態になる。
それは主に、誰にでもわかりやすい「バレーをするには低身長すぎる」という特性を持つ竹下に集中して向けられた。このことに、一時期、葛和は精神の不調に陥ってしまう。
葛和は、何もかもを背負うつもりだったが、選手達に批判が向かうことには耐えられなかった。竹下と大懸は、自身が前を向いて生きていく人生を送るため、一時期バレー界から去ってしまう。
2001年に吉川正博が監督に就任、同年のグランドチャンピオンズカップこそ銅メダルを獲得したものの、アジア選手権では史上初のメダル無し、2002年の第14回世界選手権でも13位タイのワースト記録を更新するなど低迷を続けた。
さらに直後の釜山アジア大会でも中国と韓国相手に1セットも取れずに3位で終わったため、低迷の責任を取る形で吉川監督を含む強化委員全員が辞任する事態となった。
柳本監督時代編集
2003年に柳本晶一が監督に就任、同年のワールドカップではキャプテンとして全日本に復帰した吉原知子、佐々木みき、竹下佳江といったベテランと、大山加奈や栗原恵などの若手選手が融合したチームを作り上げて5位となった。2004年5月のアテネオリンピック世界最終予選では最終戦でロシアに敗れたものの、6勝1敗の1位で2大会ぶりとなるオリンピック出場権を獲得。同年8月の本大会では準々決勝で中国に敗れベスト8となった。
オリンピック出場とその後のワールドグランプリ、世界選手権での躍進によってチームは一時期の低迷を脱し、2007年の第14回アジア選手権では木村沙織や荒木絵里香など若手の活躍によって24年ぶりに金メダルを獲得。同年のワールドカップでは7位に終わりオリンピック出場権は翌年の世界最終予選へと持ち越されたが、2008年5月に行われた北京オリンピック世界最終予選ではFIVBが大会期間中に出場規定の変更を通知するというトラブルが発生したものの6勝1敗の3位で出場権を獲得。同年8月の本大会では準々決勝でブラジルに敗れアテネと同じく5位に終わった。
「日本女子バレーボールは過去の栄光」。オリンピックを逃し、その後の低迷状態に対して、世間の一般人はそうみていた。「試合前にジャニーズが歌って踊って、試合は負けるスポーツでしょ?」というくらいの意識だった。
柳本の就任時も、全く期待はされていなかったといっていい。原因は監督や選手がどうこうではなく、プロ化の時に大揉めした際に協会が負った傷が、未だに癒えておらず、代表をバックアップできる体制がないのは明白だったからだ。
だが、日本女子に現れる指導者には、強心臓の人物が多い。柳本は生粋の勝負師だった。「勝負事はトップを目指すのが当たり前です。ちまちました目の前の小さい勝利に囚われたら、もうそこで終わりです」と断言する。
柳本が選出した全日本候補には、竹下佳江・高橋みゆき・杉山祥子といったシドニー組、高卒してすぐの大山加奈・栗原恵といったメンバーと共に、「吉原知子」の名があった。
吉原は、かつてシドニー五輪代表選出時にて、年齢制限によって外されたことに大きな違和感を覚えていた。明らかに、過去のプロ化経緯での嫌がらせによる吉原外しであり、世のバレーボールファンの「おかしい」という声を協会は黙殺した。
柳本は「吉原をキャプテンに戦う事が絶対必要です」と、吉原起用を非難する協会を説得して押し通した。
吉原は「今頃、何の御用ですか?と思いましたけど、次のアテネを逃したら、女子バレーが本当に終わると思ったんです。私の個人的感情を考えている場合じゃないと思ったので、要請を受けました」と述懐する。
そして、竹下佳江の選出にも、同じく協会から非難の声があがったが、これも柳本は「竹下より上手いセッターがどこにおるんですか?」と押し通した。
竹下自身、悩み抜いての現役復帰ではあったし、前回のバッシングの経験から「代表でのプレーはもうない」と思っていたが、「やれると思うし、挑みたい」という強い気持ちで代表復帰を決めた。
高橋みゆきは、シドニー五輪後、前年度の世界選手権にて、主将に任命されてプレーしていた。高橋は、その時の成績低迷の責任を一方的に負わされ「代表に使っては駄目な選手」という烙印を押されていた。
柳本は「高橋の明るい性格がチームに必要ですし、高橋の高い能力も明らかです」と押し通した。
要は、柳本は「協会から絶対に使うな、と釘を刺された選手3名」を中心に置いた。この3人に加えて、まだ粗さはあるものの、大山加奈・栗原恵の日本人離れしたパワーが加われば、世界で勝てると踏んだ。
果たして、柳本の読みはあたった。まず吉原は、勝利意識を全員に認識させる。吉原は代表合流時のチームへの印象を「私の知る代表の姿ではなかった。負け犬根性が見え隠れしていた」と述べる。
吉原は、当時から「日本一のセンター」と評される実力があったが、朝6時から自主練を行い、夕食後も自主練を行うのが日課だった。雑に言うなら、日本一バレーボールの上手な人間が、代表での練習量も一番多いということになる。
この様子に驚いた選手達が、吉原に続いた。吉原や竹下は、朝4時から練習場にいることもあった。吉原は、選手全員の練習姿勢を変え、チームに勝利意識を植え付けた。実力と行動でチームを引っ張る吉原を中心に、チームは結束していく。
そして、当時まだ高校2年生の17歳だった木村沙織が、この時代の全日本に現れた。レジェンド達から「バレーボールの申し子のような存在」とまで評価される木村は、練習合流初日から、非凡な能力を見せた。眉毛も細かった。
竹下佳江をして「サオリは、教えた事の吸収力、こうしてほしいという対応能力がハンパない。才能って凄いと思った」とまで言わせる彼女は、全日本で煌く才能達の中でも、とびきわ強く輝く光だった。
一方で、その木村は、吉原と竹下がいるこのチームの中で「オリンピックとワールドカップって、何が違うんですか?」と真顔で尋ねる天真爛漫さがあった。周囲は、木村のド天然発言の連続に、笑いが止まらなかった。
吉原は、情熱の炎を産むために、自分の魂を薪としてくべて燃やし、周囲を焼き尽くすような所があるが、木村も、眩しい才能の光をキラキラと発しながらも「できる為に練習をする。それって努力じゃないですよね」と捉える選手だった。
この時、大友愛も代表に選ばれ、全日本に現れていたが、当時は、大山・栗原の若手コンビの控えとして回され、ビデオを撮るデータ係を担当していた。大友は「これなら、NECで練習をした方がいいと思った」と、自ら代表を辞退する。
柳本との初面談時にも、(上からモノをいう、なんか嫌な人だな)と柳本に嫌悪感を感じた大友は「私、監督とはうまくやれませんけど、日本の為に頑張ります」と本人にハッキリ言うような人物だ。
柳本は、大友のハッキリとした物言いと態度、気性の強さに好感を持った。かつて柳本は、所属チームにて、試合中に指示を出していた際に、コート内の吉原から、「うるっさい!」と一喝された経験がある。
しかし、柳本は「勝ちたいがゆえです。そういう子がチームを勝たせるんですわ」と笑って、吉原を許すような人物だ。その後、大友が身内の不幸から代表復帰を決意し、アテネ五輪最終予選直前に、柳本に頭を下げて代表復帰を求めた時、
柳本は大友の復帰を快く許している。大友は、吉原に許されるまでに時間が少しかかったが、大友の本気度を認めた吉原は、身勝手でチームを離れた大友を許し、以降、両者は非常に仲の良い間柄となった。
「昔、日本が強かったスポーツ」の代表的アイコンになっていたバレーボールが、柳本の剛腕によって、人気スポーツの地位に返り咲こうとしていた。選手の才能と頑張りがあってのことだが、この結果を産んだ柳本の功績は計り知れない。
彼女達は、実業団所属であり、立場はあくまでアマチュアであって、プロではない。金銭的収入でいえば、実業団所属である以上、年収は200万円~500万円が相場だ。世間からはプロ選手と見られるが、実際はセミプロという立場に近い。
しかし柳本は、彼女達にバレーボール選手としてのプロ意識を植え付け、激しい選手間競争をあえて促しつつも、集団として団結し、世界の中で、勝利を目指して戦えるチームを作った。
柳本は「抜擢した人材、特に大山は意図的に多く叱りました。どこかでバランスを取らないといけないから」集団指導の難しさを語った。当時、まだ若かった大山には気の毒な話ではあるが、この手の微妙な指導感覚が必要なのだろう。
いつの時代もそうだが、この時代の代表競争は特に激しかった。柳本は初回の代表招集時は32名を選出し、容赦なく絞っていった。後に日本を引っ張る荒木絵里香ですら、アテネ最終予選直前に落選の憂き目を見るレベルの高さであった。
競争と指導によって、チームは強くなり、テレビ中継視聴率は20%越えを連発した。いつもなら、耐えきれず負けているはずの場面でも、彼女達は負けなかった。特に、韓国とキューバに勝ったことは、女子バレーへの注目度を大きく引き上げた。
「ワールドカップでは上位3チームが五輪出場」というルールの中、日本は5位に終わるが、前回大会で逃した五輪切符を手にすることが、大いに期待できる内容となった。しかし、柳本は、なおも勝利への道を探って、チームの変化を行った。
アテネ五輪大会最終予選の初戦は、2002年世界選手権覇者、イタリアだった。イタリアに勝つため、そして最終予選を突破するために、選手編成が行われた。まずは、上記理由で、チームを離れていた大友愛が合流している。
そして「シドニーの十字架」を背負った成田郁久美(旧称:大懸)が代表に復帰した。成田は、シドニーで燃え尽き症候群に陥った後、引退していたが、久光にて現役復帰し、テレビでみる全日本女子の姿に、自身の代表への情熱が再燃していた。
かつて、FIVBベスト6プレイヤー、アジアベストプレイヤーに選ばれている日本の実力者成田は、代表復帰後「ポジションを教えてもらえない」ままの苦しい日々を乗り越え、持ち前のサーブ・レシーブ力を活かしたリベロでプレーし、日本の最終予選突破に大貢献することになる。日本は、最終予選を順当に勝ち進み、韓国戦にて勝利し、アテネ五輪出場権を獲得した。
この時、テレビの瞬間視聴率は48%を越えた。日本社会はバレーボールに対して「五輪出場は当たり前のこと」から「五輪出場は悲願」という見方に変わっており、国民の期待に応えた彼女達は、一躍スター軍団となった。
アテネでメダルを期待された日本女子だったが、五輪独特の重圧の空気に飲まれてしまい、初戦から、普段の彼女達からは考えられないイージーミスを連発してしまう。「オリンピックから少しでも遠ざかってしまうことで産まれる副作用」であると吉原は語り、子供の頃から、国内での大きな大会に出場し、緊張に慣れたはずの彼女達ですら耐えられない五輪本大会の特殊な空気に、彼女達は飲み込まれてしまった。
しかし、主将吉原が、厳しい檄を飛ばすことで、チームを落ち着かせ、全日本女子は、予選リーグを突破した。そして、全日本女子は、準々決勝にて中国と激突。各選手の奮起があったものの、アテネ大会での中国は、あまりに強く、0-3でのストレート負けを喫し、日本女子は敗北し、無冠で大会から去る結果となった。
オリンピックでメダルを取るためには、まずはベスト4に入らなければいけない理屈なのだが、これには、あまりに難しい道のりを辿ることになる。バレーボールのオリンピック出場枠は12か国で、地球上で12か国しか出られない競技だ。それぞれ6か国ずつに分けたA組・B組において予選リーグを行い、それぞれの組で下位2国をカットし、合計上位8か国でメダルを争う方式をとる。
そうなると、特に準々決勝が課題となる。「A組1位対B組4位」「B組1位対A組4位」の組み合わせになるために、もし予選リーグを4位で突破してしまうと、自然と他組1位と当たる。その試合で負ければ、すぐにメダル圏外となる。
アテネ大会の金メダルは、最終的に中国が獲ったのだが、日本は、この大会にて予選リーグを4位で突破したために、アテネ五輪で世界最強に君臨した中国と、準々決勝にて、当たることになってしまった。当時の世界のトップグループは、中国・米国・イタリア・ブラジル・キューバ・ロシアなどの国で争われ、当時の日本女子は、まだセカンドグループに位置していた。現実的にトップグループの壁は高く、五輪の予選リーグにて、日本が3位に食い込むのは至難の業であった。
中国との敗戦後、大友は「また来ましょう」と吉原に声をかけた。主将吉原は、この時34歳。大友の暖かい声に涙を浮かべたが、すでに代表引退を決意していた。2006年に膝の怪我の影響もあり、吉原は36歳で現役を引退。
もし、この時代に吉原がいなければ、さらに、その吉原の檄に応える能力のある選手達がいなければ、おそらくはこの時代以降、日本における女子バレーボールの地位は、「体育で少しやったことがあるスポーツ」程度のものになっていただろう。
柳本から、直々に次世代エースとして将来の日本を担う役割を期待されたのは「大山加奈・栗原恵」だった。しかし、大山はアテネ以降、腰痛が悪化して長期離脱。栗原も故障が重なり、代表から離脱する機会が多くなってしまう。
2005年ワールドグランプリにおいて、大山と栗原のいない全日本女子を引っ張ったのは、大友愛だった。だが大友は、当時のマスコミ攻勢に強い嫌悪感を抱き、自身の写真集やDVDを出版する流れが断ち切れない周囲環境にうんざりしていた。
2006年、大友は、自身の妊娠に驚くものの「この命を守らなければ」と24歳全盛時にて、現役引退。全日本女子は、容赦なく再編を迫られていく事態になる。
だが、日本には隠れていない才能があふれ、世に出たがっていたし、柳本は、なおも宝石を掘り続ける努力を惜しまなかった。
そして、全日本女子代表に、荒木絵里香が現れた。アテネ五輪では落選の憂き目をみた彼女だったが、「同期が全日本に呼ばれて活躍をしている。私もその場に行く」と落選の悔しさをバネに、日本リーグMVPの実績を引っさげて、代表入りした。大友に代わって、センターを任された荒木は、見事に期待に応えた。そして、2007年アジア選手権では、全日本女子は24年ぶりに優勝を果たす。北京五輪に向かっていく準備が整いつつあったが、またも怪我による離脱が続き、メンバーが固定しない苦しい時期が続くも、乗り越えていく。
2008年北京五輪予選代表メンバーの選出がなされた。竹下を引き続き主将に据え、栗原、高橋、木村、荒木といった常連組に、シドニー組の杉山祥子と、ベテラン多治見麻子を加え、アテネ組の大村加奈子、リベロには佐野優子、櫻井由香が選ばれた。「映像をみて、なお、数字を中心に選びました」と柳本は選考理由を説明した。柳本は前回アテネ五輪の敗北理由を「初選出の選手が多すぎた」とコメントしており、五輪の難易度を身をもって知った経緯から、経験者を選出した傾向がみられる。なお、経験者だけではなく、当時30歳を越えた狩野深雪が、主要大会では初選出メンバーとして選ばれている。幾多の綺羅星から選び抜かれた選手達は、北京五輪最終予選では、五戦全勝で予選突破を決めた。当然、メダルへの期待は大きくなっていった。
2008年北京五輪本大会では、準々決勝にて、ブラジルと対戦し、全日本女子は敗北した。準々決勝を抜けられない難しさの仕組みは、先ほど上記したように「日本の予選リーグ突破順位=4位」にある。
日本は、予選リーグにて、キューバ・アメリカ・中国と同リーグになり、4位で通過した。3位で通過した所で次も強敵しかいないのだが、日本が準々決勝で対戦したブラジルは、この2008年北京大会で、金メダルを獲った最強の存在だった。
「日本がメダルを獲る為には、あと何が必要なのか」という問いは、バレーボール関係者にとって、果てしない難問であった。いわば「数学上の未解決問題」に匹敵する難問であったろう。
ミレニアム懸賞問題として有名だったポアンカレ予想は、2006年にグリゴリー・ペレルマンによって証明されたが、この日本女子バレーボール問題は、2012年、眞鍋政義率いる女子バレーボールチームによって証明された。
2012年のロンドンでの成功物語は、大小様々な出来事の積み重ねに翻弄されても、決して諦めずに立ち向かった、監督・選手・スタッフ・バレーボール関係者達全ての想いが組み合わさったことで産まれた奇跡の物語であろう。
眞鍋監督時代編集
2009年度より眞鍋政義監督が公募によって就任し、2012年のロンドン五輪へ向けた新体制が発足した。iPadを使用してデータを駆使する「IDバレー」を掲げ、2010年に日本で行われた第16回世界選手権では1982年大会以来28年ぶりにベスト4進出を果たすと、準決勝でブラジルの前にフルセットの末敗れはしたものの3位決定戦でアメリカをフルセットの末に勝利し、32年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得した。
2011年のワールドカップでは中国と同じ8勝3敗の成績ながらも勝ち点差2の4位でオリンピック出場権は翌年の世界最終予選へと持ち越されたが、初出場の岩坂名奈や新鍋理沙ら新戦力の活躍などで結果的にロンドンオリンピックで金メダルを獲得したブラジルと銀メダルを獲得したアメリカにストレート勝ちを収めた。しかし1位通過を目標として臨んだ2012年5月のロンドン五輪世界最終予選は序盤こそストレート勝ちによる開幕3連勝を飾るも韓国と対戦し敗れてからリズムに乗れず、出場権獲得はセルビアとの最終戦まで持ち越され最終的に4勝3敗の4位でアジア1位として出場権を獲得した。
同年8月の本大会では予選リーグを3勝2敗の3位で通過すると、準々決勝で中国に全セットが2点差決着というフルセットの激闘を制しソウルオリンピック以来24年ぶりのベスト4進出を果たした。続く準決勝でブラジルと対戦しストレートで敗れたものの、3位決定戦で韓国にストレート勝ちで収めてロサンゼルスオリンピック以来28年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得した。これを受けて日本協会は公募で新監督を決める予定を撤回して眞鍋監督に続投を要請し、同年10月に2016年リオデジャネイロオリンピックまで続投することが発表された。
2013年7月25日、休業していた正セッターの竹下が引退を発表、五輪でもう一人のセッターだった中道瞳は11月のグラチャンバレーから復帰した。江畑幸子が腰痛でほとんど出場できない状況ながら他メンバーの活躍もあり、ランク上位のブラジル・アメリカに敗れたものの、同大会における12年ぶりの銅メダルを獲得した。
2014年のワールドグランプリでは、一人の選手が複数のポジションの役割を担う新戦術「ハイブリッド6」を採用し[23]、決勝ラウンドで初戦から4連勝し最後はブラジルと対戦して敗れはしたが同大会では初のメダル(銀メダル)を獲得した[24]。
2016年リオデジャネイロオリンピックではアメリカと対戦して敗れ、2大会連続のメダルは獲得することができず5位に終わった。
「全日本女子バレーが五輪でメダルを獲るためには、一体どうすればいいのか」。この最高難易度の難問に対する答えは、自身が数度のオリンピックを経験している竹下佳江が、すでに仮説を持っていた。
竹下は、「アテネ大会と北京大会では、同じ五位で、同じような経緯を辿ったのですが、戦い方がまるで違いました。アテネと違い、北京では、自分達に足りないもの、世界での戦い方が分かった大会でした」と述べる。
(日本女子バレーボールの良さを伸ばせば、メダルのチャンスは十分ある)と、メダル獲得への険しい道筋を朧気ながらも見つけていた竹下だが、ロンドン大会では自身は34歳になる。
竹下は「バレーボールは続けるけれど、全日本は次でおしまい」と、身の振り方も決めていた。竹下は前回主将時に「ストレスで眉毛がごっそり抜け落ちた」ということも経験したが、代表の第一線でもう一度戦い続けることを選んだ。
そして、日本女子の敗北をテレビ中継の解説席で見届けた眞鍋政義も、「メダルの可能性は十分ある」と見ていた。当時、久光製薬の監督をしていた眞鍋は、45歳の若さを誇る。
眞鍋のキャリアの華々しさは、とてつもない輝きを放つ。現役時は、1985年に新日鐵入社した一年目から、セッターでのレギュラーを獲得し、新人王を獲得。新日鐵黄金時代の立役者の一人となり、85年~03年まで日本代表を務めた。
ソウル五輪経験もあり、イタリア挑戦の海外キャリアも持つ。監督業としては、男子監督では選手兼任監督として、新日鐵を優勝に導き、女子監督では、05年に久光製薬の監督に就任するや否や、輝かしい成果を出し続けた。
「全日本監督は公募で決定した」ということなのだが、2008年12月に久光製薬がプレスにて発表した内容には「各方面から強い要請がありまして」とあり、眞鍋の自薦というよりも、他薦の影響が大きかったことを示唆していよう。
眞鍋といえば「iPad」を片手に、秒単位で分析家から自分の手元に送られてくる数字データを基に戦略を立て、ストイックなまでに知的に戦う監督というのが、一般的な人物イメージではなかろうか。
元々、眞鍋がiPadを使用していた理由は「スタッフから、色んなデータを頂くのですが、私が老眼の初期で小さな字が見えない。でも、iPadなら、字を大きく設定できる。単に見やすかったんです」というだけの事情だった。
眞鍋自身は、生粋アナログ人間であり、「大事な事は、手帳に絶対に手書きです。人間は、書かないと駄目」と言い切る。だが、眞鍋は手元のiPadに入ってくる分析データを「これは面白い」と捉え、「世界一の分析家になる」と決めた。
様々なスポーツにおいて、スポーツアナリティクス(分析)分野というジャンルが注目されるようになっていた。特に、バレーボールでは、この分析による傾向対策が進んでいた。
雑に書けば、要は膨大な過去データから「この試合・この場面・誰が・どんなサーブをうつのか・どんなトスをあげるのか・どこのポジションの誰に・アタックはどの方向に・どの強さで打つのか?」という未来を瞬時に予想するというものだ。
2000年代に入り、欧米諸国は、スポーツアナリティクス分野で世界を引き離した。全日本の母体となるバレーボール実業団は、半導体関係の製造を行う会社を母体とするチームが多く、「IT分野では世界に負けない」と推測されていたが、
ソフト開発における分析能力の差は開く一方だった。柳本時代も、IT分析によるデータバレーを2003年から取り入れてはいたが、世界基準から遅れていたサービス製品を使っており、経験と勘に頼る部分の大きすぎる状態で戦っていた。
日本に「渡辺啓太」という人物がいる。柳本時代よりアナリストとして、チームに随行していたが、2010年イタリアへ渡り、世界最新のアナリティクス技術を学び、帰国後、眞鍋専用の分析アプリを開発し、眞鍋のiPadにインストールした。
元バレーボール選手である眞鍋の大きな指のサイズに合わせた、渡辺こだわりの逸品である。以前は、報告する度に紙に印刷する必要があったが、渡辺は、ダイレクトに秒単位で眞鍋の手元に、世界基準の分析結果と予想を送り続けた。
もちろん、この分析が全てではない。選手達は、まるで営業成績のように、自分の欠点を指摘された数字成績表を見せられると、当然、気分を害し、数字を基にした評価に拒否反応を示すようになるし、数字を意識しすぎて、試合でのメンタルに影響を及ぼす副作用を産みかねない危険性もある。
眞鍋は、データ=数字を重視するスタイルではあったが、歴史上の全日本女子バレー監督全員に共通する「強心臓の勝負師」の面が強い。眞鍋は「数字も大事だけど、やっぱり最後は、選手の気持ちの強さが大事です」と言い切る人物だ。
時期はかなり遠く飛ぶが、運命の2012年ロンドン五輪での準々決勝、対中国戦、最終セット。眞鍋は、手元のiPadのデータよりも、自らの「勝負師の勘」を信じた。眞鍋は「竹下に全部任せる」とだけ指示をし、iPad分析よりも竹下の現場判断を選択した。異様にまでポイントが競り続け、張り詰めた空気が流れ続けた試合の中で迎えた最終セット。当然、この試合に負ければ、全ては終わる。そして、眞鍋ジャパンは、準々決勝の壁を遂に突破した。
選手達は声を揃えて「2010年世界選手権の米国戦で勝った銅メダルの成功体験が大きかった。五輪で勝てるイメージができたから」と述懐する。この銅メダルは、世界選手権では32年ぶりという恐ろしい年月を要したメダルだった。
竹下も眞鍋も「日本の良さを伸ばせば、五輪で勝てる」と思ったそうなのだが、果たして、日本の良さとは何だったのか。その仮説の答えは、この米国戦で試合でおぼろげにみえてくる。
世界選手権の代表メンバーには、当時は山本愛名義だった大友愛が復帰し、活躍していた(以降、彼女の名称は、大友愛で統一)。雑談になるが、復帰直後の大友には「現役復帰を決めて、キツイ練習による傷まみれのヘロヘロな状態で、疲れた暗い顔をして、子供の手を繋いで、スーパーで買物をしていると、神戸のおばさま方に、大丈夫ですか?とか、良い施設を紹介しますよ?とか言われて謎だったんです。私、どうも周囲にDV疑惑を心配させてたみたいで」という逸話があるが、日本の勝利には、この大友愛の復帰が大きい。これは単に、大友の復帰の話ではなく、「女性の就業問題改革」であろう。驚くべきことに、子供がいても代表でプレーできる環境というのは、2000年代にしてまだ完成されておらず、眞鍋が作った。
当時の日本バレーボール界には「結婚・妊娠をしたら、選手生命は、そこで一段落し、違う選手がその座を継ぐ」という流れがあった。イタリアでのプレー経験のある眞鍋は「これはおかしい。能力が高く、経験もあり、彼女達なら、すぐにフィジカルも戻せる。引退を迫るなんて、もったいない」と考え、眞鍋が所属していた企業を説得し「子供のいる女性の現場復帰を応援する環境」を作った。とはいっても、当初は、眞鍋のやり方に多少の問題があったようだ。まだ大友のお腹に子供がいる状態で、なおかつ「もう現場には戻れない」と決死の思いで引退した大友に対して、眞鍋は、初対面時から、「おい、現役復帰しないか?オリンピックはどうだ?」といきなりの現役復帰を迫ったため、非常に強い不信感を持たせてしまった。
そしてこの時、大友は、すでに日本有数のセンター選手に戻っていた。選手層の厚さから、主将の荒木が控えに回る機会が多くなっていたが、荒木は、自身のメンタルを安定させ、大事な場面で起用されると、期待に応える活躍を見せた。
井上香織・山口舞のブロックが功をなし、江畑幸子がスパイクを決め続け、江畑が止められても、迫田さおりがスパイクを決める。途中投入された石田瑞穂が流れを変える働きを見せると、竹下は石田にトスを上げ続けた。
そして、代表に戻った大友愛が「あのサオリが、まるで別人みたいに、きちんと自分の意見を発言するようになっていた」と驚いた、日本のエースに成長した木村沙織がいた。
全てのプレーの土台には「竹下のトス」があった。選手層が厚く、誰かが相手に捕まっても、変わって入った違う選手が結果を出し、試合の主導権を取り戻す。総じて、選手達全員のレシーブ能力が高い。とにかく強引にでも拾い続けて、竹下に繋ぎさえすれば、竹下は、スパイクがきちんと打てるトスを、調子のいい選手めがけて、正確に何度も上げ続けた。後に「選手全員がサーブで相手を崩す」という特徴も加わるのだが、すでにこの時点で、世界のトップグループと互角に戦える段階までにきていた。
眞鍋は、戦術コーチ、サーブコーチ、ブロックコーチ、ディフェンスコーチ、メンタルコーチ、アナリストと、専門別に分けたコーチ制度を設けたのだが、アナリストの強い推薦により、身長の高い男子選手起用による強いスパイクを獲るレシーブ練習を採用し、各選手のレシーブ能力上昇に繋げていた。木村は、元々レシーブが上手い選手だが、対戦するチームは、少しでも木村を崩すために、サーブで木村を狙うことが多く、結果、木村は、リズムを狂わせられることが多かった。
眞鍋は、木村の「妹的なのんびりした性格」を問題視し、あえて厳しい言葉を発して、木村の精神的成長を促した。眞鍋が「サオリ!俺はお前と心中するつもりだ!」と言うと、木村は(心中って、恋人同士の自殺だよね。なんで私?)と誤解するなど、相互理解に時間は少しかかったが、木村はエースの自覚が完全に芽生え、レシーブでのミスがあっても、動じない選手になっていった。
木村は、後にトルコのチームに属して、年俸が億を越える選手になるのだが、世界が認める強さがこうして磨かれていった。竹下は、主将という立場で皆を引っ張るという行為がどうにも苦手だったらしく、荒木が主将を引き受けてくれたことや、このコーチ分業体制によって、自分のプレーに集中できる好ましい環境となったことで、竹下の戦略眼が洗練されていった。
この試合の前日、世界ランク一位のブラジル戦にてフルセットで長時間を戦った日本女子は、強い疲れから、決めるはずの選手が決めきれなかった。江畑が止められ、木村が止められてしまう。
だが、悪い流れに引きずられず、交代起用された選手達が高い質を見せ、堅守から竹下が「スパイクを打てるトス」を上げ続けた。全日本女子選手達は点差があろうと、競る場面になろうと、絶対に崩れない姿勢を見せ続け、米国に勝利した。
この試合のテレビ最高視聴率は35.9%を記録し、平均では20.5%にも及んだ。好成績の結果を出した日本女子の姿を32年ぶりに観た日本社会は、ロンドン五輪でのメダル奪取の期待を隠しきれなくっていった。
しかし、復帰した大友愛が、2011年9月、右膝の前十字靭帯と内側側副靱帯を損傷。井上香織も、同時期に右肩を脱臼し手術。栗原恵は膝の手術。代表中心選手の大きな怪我と離脱により、ロンドン五輪への黄信号が灯火する。
更にこの時期、日本社会に重大な天災が発生していた。2011年3月11日。東日本大震災が発生し、死者数・破壊家屋数の規模において、太平洋戦争以来、空前の規模の数字があがっていた。
東日本大震災によるスポーツへの影響は大きく、当時、日本で行われた、ほぼ全てのスポーツイベントにおいて、開催中止・延期・自粛などの処置がとられた。日本人は、この受け入れがたい現実に対し、「復興」を叫ぶことで一つになっていった。
著名アスリート達は、各メディアを通じて、復興に向けた応援メッセージを被災者達に送り続け、ボランティアやチャリティー活動が活発化していった。もちろん、女子バレーボール選手達もメッセージを送っている。
この時期より、スポーツの重大な役割の一つに「勇気を与える」という価値観が産まれた。かつて東洋の魔女や、水泳の古橋廣之進などの影響で産まれた、このスポーツが持つ価値観は、すでに日本に存在していたが、戦争から長きの時が過ぎ、現代の日本人に、より具体性を持った形の価値観としてまた再登場することとなる。
代表例が、2011年6月末から行われた、「FIFA女子ワールドカップ日本女子代表」=通称なでしこジャパンがこの年、ワールドカップで優勝を遂げ、日本中が歓喜に沸いたことだった。
この明るいニュースは、スポーツが日本に大きな勇気を与えたことの代表例といっていいだろう。だが、その一方、全日本女子バレーボールチームは、前年度の世界選手権での成功から一変し、苦しみの時期を迎えることになる。
中田監督時代編集
2017年度より中田久美が公募によって就任し(女性監督は生沼スミエ以来2人目)、2020年の東京五輪へ向けた新体制が発足した。コーチの一人としてフェルハト・アクバシュを起用(女子日本代表では初の外国人コーチ)[25]。
1年延期された2020年東京五輪ではドミニカ共和国に敗れ、9位に終わった。
眞鍋監督時代編集
エピソード等編集
男女共にバレーボール日本代表の応援として定番の「ニッポン、チャチャチャ」であるが、この応援はサッカー日本代表の最古のサポーター集団「日本サッカー狂会」が1968年5月23日の日本VSアーセナルの親善試合で初めて行なった。なお、バレーボールで最初に使われたのは1981年11月13日に宮城県スポーツセンターで行われたワールドカップ女子第5戦のアメリカ戦である[要出典]。
過去の成績編集
アジア選手権の成績編集
- 1975年 - 優勝
- 1979年 - 準優勝
- 1983年 - 優勝
- 1987年 - 準優勝
- 1989年 - 準優勝
- 1991年 - 準優勝
- 1993年 - 準優勝
- 1995年 - 3位
- 1997年 - 3位
- 1999年 - 3位
- 2001年 - 4位
- 2003年 - 準優勝
- 2005年 - 3位
- 2007年 - 優勝
- 2009年 - 3位
- 2011年 - 準優勝
- 2013年 - 準優勝
- 2015年 - 6位
- 2017年 - 優勝
- 2019年 - 優勝
オリンピックの成績[28]編集
- 1964年 - 金メダル
- 1968年 - 銀メダル
- 1972年 - 銀メダル
- 1976年 - 金メダル
- 1980年 - 不参加
- 1984年 - 銅メダル
- 1988年 - 4位
- 1992年 - 5位
- 1996年 - 9位
- 2000年 - 最終予選敗退
- 2004年 - 5位
- 2008年 - 5位
- 2012年 - 銅メダル
- 2016年 - 5位
- 2020年 - 10位
世界選手権の成績編集
- 1952年 - 不参加
- 1956年 - 不参加
- 1960年 - 銀メダル
- 1962年 - 金メダル
- 1967年 - 金メダル
- 1970年 - 銀メダル
- 1974年 - 金メダル
- 1978年 - 銀メダル
- 1982年 - 4位
- 1986年 - 7位
- 1990年 - 8位
- 1994年 - 7位
- 1998年 - 8位
- 2002年 - 13位
- 2006年 - 6位
- 2010年 - 銅メダル
- 2014年 - 7位
- 2018年 - 6位
- 2022年 - 5位
ワールドカップの成績編集
- 1973年 - 準優勝
- 1977年 - 優勝
- 1981年 - 準優勝
- 1985年 - 4位
- 1989年 - 4位
- 1991年 - 7位
- 1995年 - 6位
- 1999年 - 6位
- 2003年 - 5位
- 2007年 - 7位
- 2011年 - 4位
- 2015年 - 5位
- 2019年 - 5位
ワールドグランドチャンピオンズ杯の成績編集
ワールドグランプリ・ネーションズリーグの成績編集
- 1993年 - 6位
- 1994年 - 4位
- 1995年 - 7位
- 1996年 - 8位
- 1997年 - 4位
- 1998年 - 7位
- 1999年 - 7位
- 2000年 - 8位
- 2001年 - 6位
- 2002年 - 5位
- 2003年 - 9位
- 2004年 - 9位
- 2005年 - 5位
- 2006年 - 6位
- 2007年 - 9位
- 2008年 - 6位
- 2009年 - 6位
- 2010年 - 5位
- 2011年 - 5位
- 2012年 - 9位
- 2013年 - 4位
- 2014年 - 2位
- 2015年 - 6位
- 2016年 - 9位
- 2017年 - 7位
- 2018年 - 10位
- 2019年 - 9位
- 2021年 - 4位
- 2022年 - 7位
現在の代表編集
- 過去の代表は「日本女子バレーボール代表選手の一覧」を参照。
2022年度の代表登録メンバーは下記の通り[29]。
監督 | 眞鍋政義 |
---|
No | P | 選手名 | シャツネーム | 身長 | 所属 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | L | 山岸あかね | YAMAGISHI | 165cm | 埼玉上尾メディックス | |
2 | OH | 内瀬戸真実 | UCHISETO | 172cm | 埼玉上尾メディックス | |
3 | OH | 古賀紗理那 | KOGA | 180cm | NECレッドロケッツ | |
4 | OH | 石川真佑 | ISHIKAWA | 174cm | 東レアローズ | |
5 | MB | 島村春世 | SHIMAMURA | 182cm | NECレッドロケッツ | |
6 | OH | 佐藤優花 | SATO | 172cm | 埼玉上尾メディックス | |
7 | S | 柴田真果 | SHIBATA | 171cm | JTマーヴェラス | |
8 | S | 宮下遥 | MIYASHITA | 176cm | 岡山シーガルズ | |
9 | L | 小島満菜美 | KOJIMA | 158cm | NECレッドロケッツ | |
10 | OH | 井上愛里沙 | INOUE | 178cm | 久光スプリングス | |
11 | OH | 田中瑞稀 | TANAKA | 170cm | JTマーヴェラス | |
12 | S | 籾井あき | MOMII | 176cm | JTマーヴェラス | |
13 | OH | 金田修佳 | KANEDA | 177cm | 岡山シーガルズ | |
14 | OH | オクム大庭冬美ハウィ | HAWI | 178cm | 日立Astemoリヴァーレ | |
15 | OH | 林琴奈 | HAYASHI | 173cm | JTマーヴェラス | |
16 | S | 宇賀神みずき | UGAJIN | 176cm | 岡山シーガルズ | |
17 | L | 花井萌里 | MOERI | 167cm | ヴィクトリーナ姫路 | |
18 | OH | 中元南 | NAKAMOTO | 177cm | デンソーエアリービーズ | |
19 | MB | 山田二千華 | YAMADA | 184cm | NECレッドロケッツ | |
20 | OH | 長内美和子 | OSANAI | 175cm | 日立Astemoリヴァーレ | |
21 | MB | 佐々木千紘 | SASAKI | 175cm | ヴィクトリーナ姫路 | |
22 | L | 福留慧美 | FUKUDOME | 162cm | デンソーエアリービーズ | |
23 | MB | 横田真未 | YOKOTA | 177cm | デンソーエアリービーズ | |
24 | S | 松井珠己 | TAMAKI | 170cm | デンソーエアリービーズ | |
25 | MB | 小川愛里奈 | OGAWA | 178cm | 東レアローズ | |
26 | OH | 宮部藍梨 | AIRI | 181cm | ヴィクトリーナ姫路 | |
27 | S | 山崎のの花 | YAMAZAKI | 172cm | 埼玉上尾メディックス | |
28 | MB | 濵松明日香 | ASUKA | 181cm | 久光スプリングス | |
29 | OH | 志摩美古都 | SHIMA | 175cm | PFUブルーキャッツ | |
30 | S | 関菜々巳 | SEKI | 171cm | 東レアローズ | |
31 | MB | 山中宏予 | YAMANAKA | 180cm | 埼玉上尾メディックス(内定) | |
32 | OH | 中川美柚 | NAKAGAWA | 183cm | 久光スプリングス | |
33 | L | 水杉玲奈 | MIZUSUGI | 164cm | 東レアローズ | |
34 | OH | 西川有喜 | NISHIKAWA | 180cm | JTマーヴェラス | |
35 | MB | 平山詩嫣 | SHION | 180cm | 久光スプリングス | |
37 | OH | 宮部愛芽世 | MIYABE | 173cm | 東海大学 | |
38 | OH | 佐藤淑乃 | YOSHINO | 177cm | 筑波大学 | |
39 | MB | 麻野七奈未 | ASANO | 183cm | デンソーエアリービーズ |
歴代の監督一覧編集
名前 | 再 | 国籍 | 就任時の所属 | 在任期間 |
---|---|---|---|---|
前田豊 | 1960年 | |||
大松博文 | 日紡貝塚 | 1961 - 1964年 | ||
船山浩志 | ヤシカ | 1966 - 1967年 | ||
前田豊 | 2 | 日本文化出版 | 1967年 | |
山田重雄 | 日立 | 1967 - 1968年 | ||
小島孝治 | ユニチカ | 1970 - 1972年 | ||
船山浩志[注 4] | 2 | ヤシカ | 1973年 | |
山田重雄 | 2 | 日立 | 1973 - 1978年 | |
小島孝治 | 2 | ユニチカ | 1978 - 1982年 | |
生沼スミエ | 日立 | 1982年 | ||
米田一典 | 日立 | 1983 - 1984年 | ||
小島孝治 | 3 | ユニチカ | 1985 - 1986年 | |
岩本洋 | 日立 | 1987年 | ||
山田重雄 | 3 | 日立 | 1988年 | |
宗内徳行 | 日本体育大学 | 1989年 | ||
米田一典 | 2 | JVA | 1990 - 1993年 | |
横田忠義 | JVA | 1994年 | ||
小島孝治 | 4 | ユニチカ | 1995年 | |
吉田国昭 | ユニチカ | 1996年 | ||
葛和伸元 | NEC | 1997 - 2000年 | ||
吉川正博 | NEC | 2001 - 2002年 | ||
柳本晶一 | 2003 - 2008年 | |||
眞鍋政義 | 久光製薬 | 2009 - 2016年、2021年 - | ||
中田久美 | 久光製薬 | 2017年 - 2021年 |
歴代の主な主将編集
- 1960-1970年代
堀江方子、河西昌枝、吉田節子、松村勝美、飯田高子、前田悦智子、矢野広美
- 1980年代
横山樹理、小川かず子、江上(のち丸山)由美、石田京子、中田久美、丸山(旧姓江上)由美 (再)、佐藤伊知子
- 1990年代
佐藤伊知子、中西千枝子、大林素子、中西千枝子 (再)、多治見麻子
- 2000年代
江藤直美、熊前知加子、高橋みゆき、吉原知子、竹下佳江、荒木絵里香
- 2010年代
- 2020年代
荒木絵里香 (再)、古賀紗理那
脚註編集
注編集
- ^ 監督以下スタッフは、左胸に日の丸が入った黒い半袖のポロシャツ。
- ^ 熊本地震の発生後の2016年のリオ五輪世界最終予選でも[8][9][10]。さらに男子もユニフォームに同様の対応をした。
- ^ アトランタオリンピックでは1次リーグでアメリカと対戦し敗れたが、この逆転劇を演出したのは母親が1960年世界選手権代表の堀江方子で、自身もかつて全日本入りを目指したヨーコ・ゼッターランド(堀江陽子)だった。ヨーコは当時の全日本選手では恒例だった高校卒業後の実業団入りではなく早稲田大学への進学を選択し、全日本選手選考の対象から外された経験を持っていた。
- ^ 1973年ワールドカップにヤシカによる単独チームの監督として出場。同時期に山田重雄が監督を務めるもうひとつの全日本が存在する。
出典編集
- ^ FIVB. “SeniorWorldRankingWomen”. 2020年7月26日閲覧。
- ^ バレー女子代表がW杯で体現を狙う「超高速化」。~半永久的な課題を克服するために~ Sports Graphic Number 790号
- ^ サオリン東レ、完全V「よかった」/バレー (2/2ページ) - SANSPO.COM、2011年3月25日
- ^ 全日本女子、新ユニホームはニックネーム入り! SANSPO.COM 2006年5月9日
- ^ 手を振る日本選手ら - 日刊スポーツ、2008年5月24日
- ^ 第32回 ワールドグランプリ2009大阪大会 メダルへの道① - バボChannet(バボちゃんネット) - フジテレビ 2009年8月7日
- ^ 五輪へ夢つなぐブラジル撃破/W杯バレー nikkansports.com 2011年11月14日
- ^ 古賀、被災者を勇気づける覚悟「こころはひとつ」 - サンスポ、2016年5月9日
- ^ 火の鳥ニッポンのエース古賀 五輪切符で故郷・熊本に「元気を」 - スポニチ、 2016年5月10日
- ^ “サオリン涙の大逆転劇…最終セット6―12から8連続得点でリオへ前進”. スポーツ報知. (2016年5月19日). オリジナルの2016年5月19日時点におけるアーカイブ。
- ^ “「おしゃれ番長」奮起の6発/W杯バレー”. 日刊スポーツ. (2011年11月18日) 2020年7月16日閲覧。
- ^ 『全日本女子バレーボール オフィシャルユニフォーム』(プレスリリース)ミズノ、2013年5月13日 。2020年7月16日閲覧。
- ^ スポーツ報知、2013年11月6日6面
- ^ 『全日本女子バレーボールチーム 新ユニフォーム完成』(プレスリリース)ミズノ、2013年11月5日 。2020年7月16日閲覧。
- ^ 火の鳥NIPPON、いざ出陣!注目は「新戦術」 グラチャンバレー2013に向けて全日本女子チーム・火の鳥NIPPONが記者会見 - 日本バレーボール協会
- ^ シューズ一覧|全日本女子バレーボール ミズノ
- ^ 「火の鳥」カラーのシューズが続々登場! ミズノ 2015.07.13
- ^ 『火の鳥 NIPPON 青い炎をまとう 全日本女子バレーボールチーム使用 新ユニフォーム/シューズについて』(プレスリリース)ミズノ、2016年3月18日 。2020年7月16日閲覧。
- ^ 全日本女子チームの愛称決定 日本バレーボール協会プレスリリース 2009年5月18日閲覧
- ^ 火の鳥NIPPON 日本バレーボール協会プレスリリース
- ^ “Asian Volleyball Confederation (AVC)”. FIVB. 2010年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年8月7日閲覧。
- ^ オリンピック全記録ハイライト&マル珍エピソード600連発: ロンドン五輪が100倍楽しくなる!! p.150 菅原悦子
- ^ 日本バレーボール協会. “ファイナル東京大会前日監督記者会見を開催 火の鳥NIPPONの新戦術名は「Hybrid 6」!! FIVBワールドグランプリ2014”. 2014年8月22日閲覧。
- ^ 日本バレーボール協会. “ベルギーに勝利!火の鳥NIPPONの銀メダル以上が確定!! FIVBワールドグランプリ2014ファイナル東京大会”. 2014年8月23日閲覧。
- ^ 【バレーボール】 目指せ東京五輪! 日本女子バレーの未来を託されたトルコ人 日本初の外国人コーチ誕生 - TRT 日本語、2017年3月31日
- ^ 全日本バレーボールチーム|アスリートのチカラ | VAAM 株式会社 明治
- ^ 「キレイ?」女子日本代表&真鍋監督がメークで登場/バレー - SANSPO.COM、2015年4月16日
- ^ オリンピック出場の歴史 - NPO法人日本バレーボール・オリンピアンの会
- ^ “2022年度女子日本代表チーム 選手・監督・スタッフ”. 公益財団法人日本バレーボール協会. 2022年4月6日閲覧。
- ^ 全日本バレーボールチーム 男子・中垣内祐一監督、女子・中田久美監督の就任が内定 - JVA、2016年10月25日
- ^ 龍神NIPPON・中垣内祐一新監督、火の鳥NIPPON・中田久美新監督が所信表明 全日本男女チーム新監督就任内定記者会見を開催 - JVA、2016年10月26日