長谷信成

日本の公家、官僚・華族

長谷 信成(ながたに のぶなり)は、日本公家官僚華族子爵

 
長谷 信成
長谷信成
時代 江戸時代後期 - 大正時代
生誕 天保12年1月27日1841年2月18日
死没 大正10年(1921年11月26日[1]
主君 孝明天皇明治天皇大正天皇
氏族 長谷家
父母 父:長谷信篤
阿野しず子(阿野公誠の長女)
四辻光子(四辻公績の八女)
大原閑子(大原重徳の次女)
信道
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経歴

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山城国京都参議長谷信篤の長男として誕生[1][2]美濃権介に任じられる[1][2]慶応2年8月1866年)朝廷刷新の二二卿建議(廷臣二十二卿列参事件)に加わり、同年12月差控となり、慶応3年2月1867年)に許された[2]

慶応3年12月9日1868年1月3日)王政復古を迎え、同月、秘書御用、参与助役となり、慶応4年1月14日1868年2月7日)参与に任じられた[3]。その後、会計事務局補加勢、同局権補、近臣、御厩御用掛、少納言侍従宮内大丞皇后宮亮、兼宮内少丞、白峯宮宮司兼大講義、宮中祗候、歌御会講頌御人数、御歌所参候、御歌御会始奉行などを務めた[1]

父・信篤の死去に伴い、1903年1月20日、家督を相続し子爵を襲爵した[1][4]

栄典

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系譜

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g 霞会館 1996, p. 234–235.
  2. ^ a b c 日本歴史学会 1981, p. 699–700.
  3. ^ 修史局 1928, p. 276–278.
  4. ^ 『官報』第5863号、明治36年1月21日。
  5. ^ 『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。
  6. ^ 『官報』第1322号「叙任及辞令」1916年12月27日。

参考文献

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  • 人事興信所 編『人事興信録』(4版)人事興信所、1915年。 
  • 修史局 編『百官履歴』《上巻》日本史籍協会、1928年。 
  • 日本歴史学会 編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。 
  • 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成』《下巻》吉川弘文館、1996年。 
  • 安岡昭男 編『幕末維新大人名事典』《下巻》新人物往来社、2010年。 
公職
先代
野宮定功
皇后宮大夫
  皇后宮亮
1871年
次代
(欠員→廃止→)元田永孚
皇后宮大夫
公職
先代
本多康穣
神道本局管長
1914年 - 1921年
次代
神崎一作
日本の爵位
先代
長谷信篤
子爵
長谷家第2代
1903年 - 1918年
次代
長谷信道