雀部 道奥(さざきべ の みちのく、生没年不詳)は、奈良時代後期の貴族。名は陸奥とも記される。朝臣官位従五位下常陸介

出自 編集

雀部朝臣は『新撰姓氏録』「左京皇別上」によると、巨勢朝臣と同祖であり「建内宿禰之後也」とある。星河建彦宿禰が応神天皇の御世に皇太子の大鷦鷯尊(仁徳天皇)に皮って、木綿襷(ゆうたすき)を繋けて、御膳を掌監した、因って大雀臣の名を賜った、とあり、膳部を職掌としていたことが記されている。「摂津国皇別」にも「巨勢朝臣同祖、建内宿祢命之後也」とある。

古事記孝元天皇段には、建内宿禰の子、許勢小柄宿禰許勢臣・雀部臣・軽部臣の祖とある。『日本書紀』によると天武天皇13年(684年)11月に朝臣を賜姓されている。

経歴 編集

孝謙朝天平勝宝6年(754年)2月30日付の「舎人等上日申送」に造東大寺司官人として自署している[1]

称徳朝天平宝字8年(764年)10月、藤原仲麻呂の乱後の論功で、賀茂田守石村石楯らとともに従六位上から従五位下に叙せられ[2]、同月、佐伯美濃麻呂の後任の常陸介に任命される[3]。翌月には員外介として難波奈良が付けられている[4]

その後、しばらく記録が途絶えているが、光仁朝宝亀2年(771年)9月、安曇石成の後任の若狭守に任じられている[5]

官歴 編集

注記のないものは『続日本紀』による。

脚注 編集

  1. ^ 『大日本古文書』廿五 - 161頁
  2. ^ 『続日本紀』巻第二十五、廃帝 淳仁天皇 天平宝字8年10月7日条
  3. ^ 『続日本紀』巻第二十五、廃帝 淳仁天皇 天平宝字8年10月28日条
  4. ^ 『続日本紀』巻第二十五、廃帝 淳仁天皇 天平宝字8年11月10日条
  5. ^ 『続日本紀』巻第三十一、光仁天皇 宝亀2年9月16日条

参考文献 編集