雄勝城(おかちじょう/おかちのき)は、出羽国雄勝郡(現在の秋田県雄物川流域地方)にあった日本の古代城柵。『続日本紀』によれば藤原朝狩(公卿藤原仲麻呂の四男)によって天平宝字3年(759年)に築造された[1][注釈 1]

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雄勝城
秋田県
城郭構造 古代城柵
築城主 藤原朝狩
築城年 天平宝字3年(759年
廃城年 不明
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略歴

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研究史概要

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所在地をめぐって

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1910年明治43年)、秋田県史編纂主任の長井金風が雄勝・平鹿に所在する小字を中心として地名から雄勝城の解明に乗り出し、雄勝郡新成村(現、羽後町)土館の城神巡り遺跡発掘調査を行った[5][注釈 3]。その結果、多くの墨書土器をふくむ遺物を発見している[5]1961年昭和36年)から1976年にかけて、城神巡り遺跡を含む足田遺跡群の発掘調査がなされ、多くの遺構を検出し、遺物の出土も確認されたが、これらは古くとも9世紀中葉、多くは9世紀後半から10世紀前半にかけてのものであり、いずれも創建期の雄勝城よりは時代的に新しい、平安時代の遺構・遺物である[5]。現在の雄勝郡域内に創建期である奈良時代の城柵は見つかっておらず、その造営地は現在も不明である[5]

記紀から推定されている雄勝城の造営地は、「雄物川流域沿岸地で、出羽柵多賀城の経路上にあり、かつ出羽柵より2驛手前の距離の土地」ということができる。現時点で発見されている城柵遺跡でこの条件に一致するものは払田柵跡であるが、その創建年代は9世紀初頭と考えられる。

現在、横手市雄物川町地域で発掘調査が進められており、払田柵跡に先行する時代の検出遺構や出土遺物が確認されて、大きな成果をあげている[5]。今後、当該地域の発掘調査が進むにつれ、古代雄勝城造営地が徐々に明らかにされていくものと期待される。

払田柵と雄勝城

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記紀から推定される造営地は、半面では「無名不文の遺跡」と長く評価されてきた大仙市美郷町城柵遺跡である払田柵跡をあてる考えが柵跡発見当初からある有力説のうちの一つである[注釈 4]。しかし、年輪年代法による分析結果により払田柵創建時期が801年頃であることが確実視されており、同柵を天平宝字年間に造営された雄勝城とする説には無理が生じている[5]

とはいえ、払田柵跡の遺構はその規模において陸奥国府が置かれたとされる多賀城を遥かにしのいでおり、払田柵が記紀にある出羽国に設置された1府2城のうちの1城である雄勝城であろうとの見方は動かしがたい。また、記紀にも時折郡里が賊に襲われて郡府の再建が行われたとする記録も確認されることから、現在では、雄勝城は当初の造営地から9世紀初頭の桓武天皇の頃に払田柵跡の地に移設されたのではないかという推定がなされている[注釈 5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『続日本紀』天平宝寺3年(759年)9月26日条に「勅。造陸奥国桃生城。出羽国雄勝城。」の記事がある[1]。また、同日条には出羽国に雄勝・平鹿2郡が置かれたことが記されている[1]
  2. ^ この論功行賞の勅には、「昔、先帝しばしば明勅を降して、雄勝城を造らしむ、其の事成り難くして、前将既に困(くるし)む、…」とあり、雄勝城造営はすでに先帝(聖武天皇)の代に計画され、着手されたが実現には至らなかったことが記されている[2]。「前将」とは、大野東人か、あるいはこの時の持節大使である藤原麻呂が考えられる[2]
  3. ^ 長井金風は北秋田郡大館出身の東洋史学者で秋田県史編纂主任の職にあったが1914年大正3年)の秋田県知事更迭にともなう政治的圧力により離県し、明文化された記録は残されなかった[5]
  4. ^ 払田柵については、無名不文の遺跡説、河辺府説、雄勝城説、山本郡衙説、志波城説などがある[6]
  5. ^ 古くから「払田柵=移転雄勝城」説を唱えた人物に喜田貞吉がいる[7]

出典

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参考文献

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  • 関口明『蝦夷と古代国家』吉川弘文館、1992年2月。ISBN 4-642-02166-3 
  • 高橋崇『古代東北と柵戸』吉川弘文館、1996年7月。ISBN 4-642-02307-0 

外部リンク

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関連項目

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外部リンク

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