項 襄(こう じょう、? - 紀元前170年)は、末から前漢初期にかけての武将項羽の一族で、項伯項它らと共に項羽死後も生き残り、劉姓に改姓して漢の列侯に封ぜられた。

生涯 編集

高祖2年(紀元前205年)に龍且・項它と共に漢軍の曹参灌嬰定陶やその南で戦うが敗北し、灌嬰に捕えられる。漢に降伏し、以後客将として灌嬰の軍に付き従った。

高祖11年(紀元前196年)、官職が大謁者のときに淮南王英布の反乱鎮圧に尽力し、劉姓を与えられ千戸の『桃侯』に封ぜられた。また淮南太守に任じられた。

恵帝7年(紀元前188年)、罪を得て爵位を失ったが、少帝2年(紀元前186年)、再び桃侯に封ぜられた。

文帝10年(紀元前170年)、死去し、『安侯』と贈り名された。

子孫 編集

子の劉舎が継いだ。劉舎は景帝の時代に丞相にまで登った。

劉舎は武帝建元2年(紀元前139年)に死に、『懿侯』と贈り名された。

子の劉由が継ぎ、武帝の元朔2年(紀元前127年)に死に、『厲侯』と贈り名された。

子の劉自為が継いだが、武帝の元鼎5年(紀元前112年)、酎金律に反した罪により、封国を除かれた。

しかし、宣帝元康4年(紀元前62年)、劉襄の六代目の子孫にあたる劉益寿が家名再興を許された。

参考文献 編集

脚注 編集