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宣帝(せんてい)は、前漢の第9代[1]皇帝武帝の曾孫。初め民間に育ち、霍光に擁立されて皇帝に即位した。後世、後漢光武帝により前漢中興の祖とされ、中宗廟号を贈られた。その数奇な生涯から逸話が多い。

宣帝 劉詢
前漢
第9代皇帝
HanXuanDi.jpg
漢宣帝像
王朝 前漢
在位期間 前74年9月10日 - 前48年1月10日
姓・諱 劉病已→劉詢
次卿
諡号 孝宣皇帝
廟号 中宗(光武帝追贈)
生年 征和2年(前91年
没年 黄龍元年12月7日
前48年1月10日
劉進
王翁須
后妃 許皇后
霍皇后
王皇后
陵墓 杜陵
年号 本始 : 前73年 - 前70年
地節 : 前69年 - 前66年
元康 : 前65年 - 前61年
神爵 : 前60年 - 前58年
五鳳 : 前57年 - 前54年
甘露 : 前53年 - 前50年
黄龍 : 前49年

生涯編集

紀元前91年巫蠱の獄により、曾祖母の皇后衛子夫、祖父の戻太子劉拠、祖母の史氏、父の悼皇考(史皇孫)劉進、母の王氏、兄と姉が処刑された。生後間もない劉病已は投獄されたが丙吉により養育され、恩赦により釈放されると民間で育てられた。成長してからは遊侠を好んだり、鶏を闘わせ、馬を走らせ、そこから村里の奸邪や吏治の得失を知った。掖庭令の張賀張安世の兄)から学費を出してもらい学問も身につけていった。やがて掖庭での養育に改められた際、張賀が劉病已の後見役となり、張安世の息子の張彭祖が学友となり、長安郊外の尚冠里に居した。

紀元前74年、大叔父の昭帝が死去し、従父の昌邑王劉賀が一時即位するが品行不良を理由に廃位されると、儒教の経典、特に詩経論語孝経に通じており、「質素倹約に務め、仁愛深い性格だ」という丙吉霍光らの推薦により上官皇太后の詔を受け、まずは陽武侯に封じられ、間もなく即位した。即位した際に、忌諱が困難であることから即位の際にを病已(へいい)から詢(じゅん)と改めている。

昭帝死去から昌邑王の廃位を経て宣帝の即位に至る一連の動きは、霍光の主導したものであり、政権は引き続き大司馬大将軍である霍光に委ねられた。

紀元前69年、霍光が死去すると、宣帝は肥大しつつあった霍一族の権力、特に軍の指揮権を徐々に剥奪し、外戚の許氏らの子弟に与えた。これに反発した霍光の遺児が反乱を計画すると、それを理由に霍氏一族を処刑している。反乱成功後に帝位を簒奪する予定であった大司馬霍禹腰斬の刑となり、皇后の地位にあった霍氏(霍光の娘)も廃位して幽閉された。宣帝は霍光の死から2年後に親政を開始した。

政策編集

親政後の宣帝は「信賞必罰」(『漢書』宣帝紀の評言による)をモットーとした法家主義的政治信条にのっとり、弘恭石顕ら有能な法政通を官僚に起用し、政策に疎い儒者たちを政治の中枢から遠ざけた。減税や常平倉の設置、国民への爵位の授与、中央(中書を通じての皇帝への直接の上奏と尚書の権限の縮小)と地方(地方行政を県中心から郡中心へ移行)での行政改革、犯罪取締りのための刑罰の強化といった政策を行った。これらは民力を休養させつつ中央政府の権力強化を図る内政重視政策であり、その結果、武帝以降の国内の疲弊を緩和させることに成功した。とりわけ獄吏による刑務所内での虐待を禁止し不当に高額で民衆の生活を圧迫していた塩の値段(当時は政府の専売だった)を大幅に下げたことは、刑務所で育ったのち民間で暮らしていた宣帝ならではの施策と言える。

一方、外交面では烏孫と連携して西域に進出、匈奴を弱体化、分裂化させ、紀元前51年には匈奴の呼韓邪単于を降伏させるなど、一時期弱体化していた漢の国勢を復興させることに努めた。

これら内外政治における成果から、文武に功績があったとされ、班固の『漢書』宣帝紀において、前漢中興の祖という評価を受けている。

しかし、中書を通じての直接の上奏は、中書の任にあたった宦官の権力を強化させる原因になり、後の元帝の代には宦官と外戚が連携して政治に大きな影響を及ぼす一因となったことは否めない。

庶民生活が長く世情に通じている現実主義者だったため、理想主義・懐古主義である儒教を嫌い、儒教に傾倒する皇太子劉奭(元帝)とは反りが合わず廃太子も考えた。儒者登用を進言した皇太子を一喝した言葉は古来名言とされており、『漢書』・『十八史略』などで広く日本社会にも流布している。

漢家おのずから制度あり。元々、覇王道を以ってこれを雑す。なんぞ純じて徳教(儒教)に任じ、周政をもってせんや。かつ、俗儒は時宜に達せず。好んで古を是となし今を非となす。人をして名・実を眩ませ、守るべきところを知らず。なんぞ委任するに足らんや。我家を乱すものは必ず太子ならん。


「漢王朝では昔から覇道[法家]・王道[儒家]のよいところを取捨選択している。儒教だけに価値を認め、儒教の理想である周の政治に戻すなどということがどうしてできよう。そのうえ、半可通の儒者どもは時局に合わせてものを考えず、常に「昔はよかった、今はよくない」などと言い、理想と現実の区別がつかず、政治に何が必要かもわからない。そんな連中にどうして政治を任せることができよう。漢王朝を衰退させる者は皇太子をおいてほかにはいない」

しかし、結局、劉奭に後嗣(後の成帝)が生まれたことを理由に廃嫡を見送った。元帝はこの父のことばどおり、儒者を登用して王莽の専制を招き、前漢滅亡の端緒を開いたのである。

逸話編集

  • 儒者から配膳の際の肉料理の配置を古の作法に戻して欲しいと要請を受けたとき、懐古主義で些末なことを進言する儒者を疎み、「さらに昔は人は料理を手づかみで食べていたがそれに戻せばどうか」と返答し、儒者をやりこめた。

宗室編集

  • 女子
    • 館陶公主 劉施[2]
    • 敬武公主

脚注編集

  1. ^ 中国の歴史家は昌邑王劉賀の即位を認めていない。
  2. ^ 『漢書』外戚伝第六十七上

参考文献編集

登場作品編集

  • 加藤四季お嬢様と私―たなぼた中国恋愛絵巻』 - 主人公のひとりで、下層貴族の屋敷で働く召使いとして登場。お嬢様である許平君の目に余るじゃじゃ馬ぶりを半ば呆れ顔で見守っていたが、ひょんなことから結婚することになってしまう。
  • 白井恵理子『常闇の宮 黎明の星』(『魔境の扉 飛蝶の剣』収録) - 后の許昭君を愛する心優しい皇帝として描写されている。
テレビドラマ
漫画
  • 『天空の玉座』(青木朋)主要人物として宣帝とその妻許平君をモデルにしたキャラクターが登場する

関連項目編集