高瀬 藤次郎(髙瀨、たかせ とうじろう、1838年8月28日天保9年7月9日[1] - 1913年大正2年)1月6日[2])は、明治時代の政治家実業家新聞経営者。衆議院議員(2期)。

経歴 編集

播磨国加東郡、のちの兵庫県加東郡永富村(上福田村社町を経て現加東市)の大庄屋の家に生まれる[3]1872年(明治5年)永富村戸長に就任し、学区取締などを経て、1879年(明治12年)兵庫県会議員に当選[3]1887年(明治20年)まで務めた[3]。この間、1884年(明治17年)同志と共に五州社を設立し、神戸又新日報を発刊[3]。のち神戸相生町に神戸日報社を設立し愛国新聞を発刊した[4]。ほか、加東郡社村長を務め、神戸法律学校や山陽鉄道の設立にも関与した[2]

1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では兵庫県第6区から出馬し当選[2]。つづく第2回総選挙でも当選し衆議院議員を通算2期務めた[2]。1893年(明治26年)の衆議院解散を機に政界を引退し、郷里に帰る。1899年(明治32年)12月、社村長に選任された[1]

脚注 編集

  1. ^ a b 『加東郡誌』(加東郡教育会、1923年)p.951
  2. ^ a b c d 衆議院、参議院 編 1962, 287頁.
  3. ^ a b c d 篠田 1891, 318頁.
  4. ^ 篠田 1891, 319頁.

参考文献 編集