麻田弁自

1899-1984, 日本画家、版画家
麻田辨自から転送)

麻田 弁自(あさだ べんじ、1900年明治33年)12月14日 - 1984年昭和59年)12月29日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家版画家。長男は日本画家の麻田鷹司、次男は洋画家の麻田浩[1]。旧字体表記は麻田辨自。

来歴

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京都府船井郡富本村(現・南丹市)に生まれる。本名は弁次。父は中西栄治、母はふじ。西村五雲に師事して日本画を学んでいる。1914年大正3年)から作画を開始しており、同年、京都市立美術工芸学校に入学した。1921年(大正10年)の第3回帝展に出品した「洋犬哺乳」が初入選、1924年(大正13年)、京都市立絵画専門学校を卒業する。1927年(昭和2年)から麻田姓を名乗り、翌1928年(昭和3年)頃から棟方志功らと版画同人誌『版』を刊行する。1929年(昭和4年)、五雲に入門し、また、徳力富吉郎浅野竹二亀井藤兵衛らと京都創作版画協会の結成に参加した。1930年(昭和5年)には恩地孝四郎らとともに雑誌『きつつき』を創刊するとともに木版画のシリーズ「新京都風景」(12枚1組)を徳力、浅野と共作で刊行した。翌1931年(昭和6年)、雑誌『大衆版画』を創刊、1932年(昭和7年)に日本版画協会に入会している。さらに1933年(昭和8年)、武田新太郎らと雑誌『黄楊』を発刊、その後、1938年(昭和13年)、五雲社中の山口華楊らと晨鳥社という日本画の団体を創設する。

1950年(昭和25年)の第6回日展で「樹蔭」が、翌1951年(昭和26年)の第7回日展で「群棲」が続けて特選を果たすとともに同年、同志とともに京都版画協会を結成した。その後、1958年(昭和33年)には日展の評議員となった。1959年(昭和34年)の第2回新日展では「風霜」が文部大臣賞を受賞、1964年(昭和39年)の第7回新日展では「潮騒」が日本芸術院賞を受賞した。1977年(昭和52年)、著書『巴里寸描』を求龍堂から出版している。

作品

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  • 「燕子花其他」 1930年
  • 「犬」 1931年
  • 「海芋」 1933年頃
  • 「コップの花」 1934年
  • 「新日本百景 琵琶湖」 1939年
  • 「創作版画花尽 牡丹図」 木版画 内田美術書肆より 1931年
  • 「京都八坂の雪」 木版画 東京国立近代美術館所蔵
  • 「京都清水寺雨後の月」 木版画 東京国立近代美術館所蔵

脚注

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  1. ^ 美術人名辞典

参考文献

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関連項目

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