黒田 清定(くろだ きよさだ)は、江戸時代後期の筑前福岡藩大老三奈木黒田家の第9代当主。初名は一定(かずさだ)。

 
黒田清定
時代 江戸時代
生誕 安永7年(1778年
死没 天保11年11月6日1840年11月29日
改名 一定→清定
別名 通称:勘之進、源左衛門、美作、播磨
主君 黒田斉清黒田長溥
福岡藩
氏族 黒田氏三奈木黒田家
父母 父:四宮義和、養父:黒田隆庸
正室:黒田隆庸娘
里穂子(黒田一修室)、敬子(黒田直倫室)、一葦
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生涯

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安永7年(1778年)、福岡藩士四宮義和の子として生まれる[1]。のち、同藩士伊丹景弘の猶子となる[1]

寛政7年(1795年)11月、大老(筆頭家老)黒田隆庸の婿養子となる[1]。寛政12年(1800年)9月に隆庸が没し、11月にその家督と知行1万6205余石を相続し大老となる[1]

享和2年(1802年)、播磨国御着の黒田重隆黒田孝高祖父)廟所建設の際に、大老として石灯籠を献じた。

文化元年(1804年)9月、ニコライ・レザノフ率いるロシア船が長崎に来航した際に、長崎港に兵を率いて駆けつけ警備に当たった。

文政12年(1829年)、藩主黒田斉清偏諱を受け、諱を一定から清定と改める[1]天保7年(1836年)、家老久野外記による藩政改革「御救仕組」の失敗による藩政混乱の収拾に当たる。天保9年(1838年)閏4月、事態の収拾のため江戸に上り、斉清と面談する[1]

天保11年(1840年)11月6日、死去。享年63[1]。法名は浄観院恭翁紹篤[1]博多崇福寺正伝庵に葬られる[1]

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 家臣人名事典編纂委員会 1989, p. 43.

参考文献

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  • 福岡県 編『福岡県史資料. 第2輯』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 家臣人名事典編纂委員会(編)『三百藩家臣人名事典 第7巻』新人物往来社、1989年5月。ISBN 4404016077 

参考サイト

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