2011年イエメン騒乱(2011ねんイエメンそうらん)は、イエメンにおいて2011年から2012年にかけて発生した大規模な反政府デモとそれに付随する事件の総称である。この結果、北イエメン時代より30年以上も政権を維持したアリー・アブドッラー・サーレハは2011年12月に大統領権限を副大統領アブド・ラッボ・マンスール・ハーディーに移譲し暫定政権に移行、長期政権に事実上の幕を下ろした。一連の反政府運動は、チュニジアでのジャスミン革命が他のアラブ諸国に波及したアラブの春のうちの一つとして数えられている。

2011年イエメン騒乱
2011年2月3日に首都サナアで発生したデモ
場所 イエメンの旗 イエメン
日付 2011年1月18日 - 2012年2月
サイト ささ

背景

編集
 
アリー・アブドッラー・サーレハ大統領

イエメンはアラブ諸国でも最貧国の一つに挙げられ、失業率が3割を超えるほか、国民の半分は1日2ドル以下で生活しているとされる[1]

このほか、与党国民全体会議が2010年12月より大統領職の任期見直しに着手し[2]、これが大統領の任期を無期限で延長することを可能にする、事実上の終身大統領制の導入[3]につながると批判されてきた。またサーレハ自身が息子アフマド・サーレハ英語版(共和国防衛隊司令官)[4]への世襲を考えているとされるなど、強権政治に対する不満があった[1]

またイエメンそのものが1990年まで南北に分裂しており、1994年にも内戦が起こるなど南部の再分離独立の志向が未だに高い[1](デモが旧南イエメン中心なのは、サーレハ大統領が旧北イエメン出身者ということもあり、旧北イエメン中心の政策に対する不満から来ている)。

こうした数々の政府に対する不満がチュニジアでのジャスミン革命と結びつき、反政府運動につながったと指摘されている。

アラビア半島のアルカーイダの活動が活発になった[5]

推移

編集

大学で始まったデモ

編集

チュニジアでベン=アリー政権が倒れた4日後の1月18日、首都サナアのサナア大学において学生数百人が反政府デモを実施。警官隊が出動し、威嚇発砲を行う騒ぎとなった[6]。1月22日にはサナア大学で再びデモが発生し、学生だけでなくイエメン改革党など野党勢力もあわせて2,500人[7]が参加した。これに対し、治安部隊は催涙弾などを使用し抑えこみを図った。また同時に政府を支持する側である与党国民全体会議派の学生もデモを実施した[1]。この22日の抗議活動が、サーレハを名指しで批判する初のデモであったとされている[8]。いずれのデモにおいてもベン=アリー政権崩壊に触れられており、ジャスミン革命がイエメンにも飛び火した形となった。1月23日のサナアでのデモでは参加者19人が逮捕された[9]

反政府デモが発生したのは首都サナアだけではなく、分離独立の志向が高いとされる南部では1月20日に数千人規模のデモが発生[1]。南部アデンでは抗議活動を行っていた1人が警官隊に射殺され、ラウダルではアルカーイダとみられるメンバーが兵士1人を射殺するなど、双方に犠牲者が出た[9]。1月27日にはサナアでのデモに1万6千人が参加し、過去最大級となった[10]

次期大統領選挙への不出馬

編集

こうした一連の反政府活動に、サーレハは減税や物価抑制策の発表[1]、また貧困世帯へ現金の支給を行ったり、公立の大学における学費を免除するなどの政策を行うなど、不満をそらすための対応に追われた[2]。大規模なデモを翌日に控えていた2月2日、先手を打つ形で議会において2013年の任期満了をもって大統領を退き、息子アフマドへの世襲もしないことを表明した[11]

だがあくまで大統領の即時辞任を求める野党側は2月3日のデモを予定通り実施し、「怒りの日」と呼称した。当初はタハリール広場[12]にて行われる予定であったが、国民全体会議が呼びかけた[13]大統領支持派が広場を埋め尽くしたため会場がサナア大学に変更され、それぞれに数万人が集まった[14][15]。またこの日、アデンで行われた反政府デモに治安部隊が発砲した[16]。3日にはハッカー集団アノニマスにより大統領のウェブサイトが攻撃され、一時閲覧不能となった[17]

2月11日以降のデモ

編集
 
サナア大学における反政府デモ、2011年2月21日

その後、2月11日からは連日のようにデモが発生した。11日にはアデンなどで分離独立を要求して3,000人がデモ行進した。一連の騒乱の中で、これまでの野党勢力によるものではなく、分離独立派による初のデモであるとされている[18]。またエジプトではホスニー・ムバーラク大統領が退陣を余儀なくされるに至り、勢いに乗った反政府勢力は翌12日にはサナアでデモを実施し4,000人が集まった[19][20]。13日のデモでは2,000人が大統領宮殿へ向けて行進を行おうとしたが警官隊に阻止され、負傷者と拘束者を出した[21][22]。14日、15日にも首都でのデモにそれぞれ3,000人が集まった[23][24]。一連のデモに対抗するため、政府側は支持派をバスで反政府デモが行われている現場に送り込んだ[25]

連日のデモでは治安部隊との衝突が起こっており、特に16日以降は治安部隊の発砲による犠牲者が連日出るようになり、さらに緊張が高まった。16日のアデンでのデモでは治安部隊が発砲したことで2人が死亡[26][27]。同じ16日には裁判官が司法の独立や給与の引き上げを求め、法務省の前でデモを行なっている[28]。17日にはデモ隊と大統領支持派が互いに投石を行うなど衝突し25人以上が負傷し[29][27]、アデンではまたも治安部隊が銃を乱射し4人が死亡した[30]。18日には大規模なデモが以前より呼びかけられており、アデンで銃撃を受けた3人が死亡、またタイズでは手榴弾によりデモ隊1人が死亡した[31]

一向に収まらないデモに対しサーレハは11日、公務員や兵士の給与を引き上げる検討を開始し[32]、18日には2月下旬に予定していたアメリカ訪問を取りやめた[31]。2月21日には記者会見にて即時退陣を否定し、一方で治安部隊に対してデモ隊への発砲を禁止したことを明かした[33]。25日にはサーレハの退陣を求めるサナアの8万人デモやアデンのデモに治安部隊が発砲し10人前後の死者が出た。タイズではデモ隊に手榴弾が投げ込まれ、2人が死亡した。17日からの死者合計は24人になった。また、大統領支持だった主要部族のうちハーシド部族連合とバーキル部族連合が反政府派に加わった。

3月の動き

編集

3月1日からデモが拡大。アデンとの連帯を示すためという。北部アムランでデモ隊に軍が発砲、2人が死亡。北部セムラでもデモ隊に軍が発砲、4人が死亡し、7人が負傷。また首都サナアで数万人規模のデモが発生した。18日にはサナア大学の校内にいるデモ隊と武装した政府支持者が衝突。これに対して、建物の屋上や家内から治安部隊の狙撃手が実弾を用いてデモ隊に発砲。52人が死亡、100人以上が負傷した。犠牲者はデモ発生以来最大規模となった。多くが頭部や首を撃たれていたという。この事態を受けて、サーレハ大統領は全土に非常事態を宣言した。

3月19日にはサーレハの出身部族であるハーシド部族連合のサーディク・アル=アフマル族長が大統領の退陣を求める声明を発表し、反政府デモ隊を正式に支持した。また、人権相や観光相、国連大使、シリア、エジプト、サウジアラビア、レバノン、中国の各国駐在大使、アデン県知事、国民全体会議幹部も18日の事態に抗議して20日に辞任した。また、イエメン軍内部でも大将2人や将校60人、内務省職員50人がデモへの支持を表明。サーレハの異母弟であるアリー・ムフスィン・アル=アフマル陸軍第1装甲師団長がデモ隊を支持するとの声明をアルジャジーラで発表した。一方、アリー国防相は「軍は大統領を支持している」と語り、大統領宮殿や政府関連施設にサーレハの長男アフマドが司令官を務める共和国防衛隊が配備された。

年内退陣の提案

編集
 
首都サナアにおける反政府デモ、2011年4月4日

一向に収まらぬ気配のない反政府デモに対処するため、サーレハは21日に年内退陣の提案を側近などに伝え、22日にスポークスマンにより発表[34]。翌23日には野党や軍司令官らとの会談において、サーレハは年内に大統領選挙を実施すると表明したが、野党側が求める即時退陣は改めて拒否した[35]。一方で22日に非常事態法が成立。1ヶ月限定で憲法の停止や司法手続きを経ることなく逮捕できるとした、デモ活動を封じ込めるための内容となっている[36]

湾岸協力会議(GCC)はサーレハの1ヶ月以内の退陣や訴追免除といった内容を含む収拾案を示し、サーレハ自身も4月23日の時点ではいったん受け入れを表明した[37]が、それでも反政府デモの勢いが収まることはなかった[38]。アメリカを始めとする諸外国はサーレハの退陣表明を歓迎したが[39]、24日には早くも政権の早期移譲を拒否[40]。30日には直前で調停案への署名を拒否した[41]

GCCはその後も調停案を軸とした交渉を続けたが、5月上旬には反政府勢力側も調停案を拒否した[42]。5月18日にはサーレハが再び調停案受け入れを表明したとも伝えられたが[43]、翌19日には再び拒否した[44]。5月21日には野党勢力が調停案を受け入れたものの[45]サーレハ側は受け入れ拒否の姿勢を崩さず、GCCは仲介を断念するに至った[46]

周辺諸国による調停が失敗したことにより、5月下旬より治安部隊と反政府勢力との間の衝突が激化[47]。5月25日から26日にかけて50人以上が死亡、政府と敵対する部族の指導者に逮捕状が出されるなど、イエメンは内戦状態突入への危機に陥った[48][49]。5月下旬に行われた第37回主要国首脳会議では首脳宣言でサーレハの退陣と、平和的な政権移譲を求めた[50]。5月28日には治安部隊と反政府勢力の部族との間で停戦合意が行われ、つかの間の戦闘停止が実現した[51]が、5月29日に治安部隊がデモ隊に発砲し20人以上が死亡するなど混乱は収まらなかった[52][53]。また武装したアルカーイダ系の組織が治安部隊と衝突し[47]、これに対処するため政府軍は5月30日にアルカーイダに占領された地域に空爆を行った[54]。その後も衝突による犠牲者の数は増え続けた。

負傷とサウジでの治療

編集

6月3日、反政府の部族の幹部が政府軍によって自宅を砲撃される[55]。その後、大統領宮殿の敷地内にあるモスクが反政府勢力により砲撃され、正副の首相や国会議長、また大統領自身も負傷した[56][57]。大統領には死亡説も流れたが、同日中に国営テレビに声だけ登場し無事をアピールすると共に、反政府の部族への攻撃を徹底するよう指示した[58]。翌6月4日には同じく負傷したムジャッワル首相と共に治療のためサウジアラビアへの病院へ搬送され、副大統領のアブド・ラッボ・マンスール・ハーディーが大統領代行に就任した[59]。こうした政治空白を突いてアルカーイダが実権を握らないよう、アメリカが反政府組織に対して攻撃を強化しているとも報じられた[60]

6月14日にはサーレハが滞在するサウジアラビアのアブドゥッラー国王と電話で会談し、順調に回復していると伝える一方で[61]6月17日にはサウジアラビアの政府当局者が、サーレハがイエメンに帰国しないとの見通しを語ったと報じられ、イエメン外務省幹部がこれを否定するという事態になった[62]。7月7日には入院中の姿がイエメン国営放送で流され、約1ヶ月ぶりに公の場所に姿を見せた。その中の演説で8回の手術を受けたことを明らかにし[63]、反政府勢力との対話を呼びかけたものの自身の退陣には言及しなかった[64]。サーレハとムジャッワルは8月6日に退院。ムジャッワルは8月23日に帰国し[65]、サーレハは9月23日に帰国した[66]。これにより再びイエメン国内で緊張が高まり、反政府デモにおいて軍による攻撃が行われ40人以上が死亡した[67][68]。サーレハはサウジ滞在中の8月29日に大統領選挙を近いうちに実施する意向を表明していた[69]が、帰国後には改めて辞任を拒否した[68]

ムハンマド・ナーセル・アリー国防大臣を狙った地雷テロが8月30日に[70]、また自爆テロが9月28日に発生し[71]、負傷者が出たがアリ国防相自身はいずれも難を逃れている。

大統領権限委譲

編集

サーレハ退陣要求デモが続く中、2011年11月23日にサーレハはサウジアラビアのリヤドを訪問し、アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー副大統領らへの30日以内の権限移譲などが盛り込まれた湾岸協力会議(GCC)や欧米による調停案に署名した[72][73]。これによりサーレハ政権は12月23日をもって終了し(ただし名目上の大統領職にはとどまる[74])、その後60日以内に大統領選挙が行われることが確定した。この背景には、長引く紛争による大統領派の弱体化が指摘されている[73]。アメリカや日本、EUなどはこれを支持する声明を発表したが[75][76][77]、一方でサーレハは退陣の見返りとして訴追免除と身の安全が保障されることとなり、これに反政府派が反発しデモは収まらなかった[78]。後継政権の首相には元外務大臣で野党指導者のムハンマド・サーレム・バーシンドワが指名され、12月7日に挙国一致内閣の閣僚が発表された[79]。12月8日に副大統領によって新政府が承認された。政府にサーレハの「国民全体会議」のメンバーとともに、野党のメンバーらも含まれる。新内閣の構成は、合意された事項にしたがって「国民全体会議」のメンバーには国防相、外相、石油相、通信相、社会事業相のポストが割り当てられる。一方、野党側には、内相、財務相、計画相、情報相のポストが提供された。アブーバクル・アル=キルビー外相およびムハンマド・ナーセル・アフマド・アリー国防相は留任。首相には予定通り野党側の指導者であるバーシンドワが就任した[80][81]。12月18日にはサナアより政府軍、反政府軍の両方が撤退を開始した。

GCCなどとの調整案に基づき、2012年1月21日に議会が訴追免除を可能にする法律を可決させ[74]、このため翌22日にはサナアで数千人による抗議デモが発生。同日、サーレハは治療の名目でアメリカへ出国し、テレビ演説で国民に対し謝罪の言葉を口にした[82]

2012年2月21日に行われた大統領選挙(任期は2年間)にはハーディー副大統領のみが立候補。99.8%の得票を得て当選し、2月25日に就任の宣誓を行った[83][84]

タワックル・カルマン平和賞授賞

編集

デモが続く2011年10月7日には、イエメン国内での反政府デモを先導してきた活動家の一人であるタワックル・カルマンノーベル平和賞受賞が発表された[85]。翌10月8日、サーレハは国営テレビにて、自らは権力を望んでおらず数日以内に権力から離れると宣言。退陣を示唆したと受け止められたが、しかしカルマンら活動家など反体制派は信頼できない言葉だと断じている[86][87]。カルマン平和賞受賞の影響でスカーフベールを燃やす抗議が行われた[88]

各国の反応

編集

脚注

編集
  1. ^ a b c d e f “イエメンで反政府デモ 不安定化に警戒感”. 産経新聞. (2011年1月23日). https://web.archive.org/web/20110210150831/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110123/mds1101231903053-n1.htm 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  2. ^ a b “イエメン大統領、今任期限りで引退する意向”. 読売新聞. (2011年2月2日). オリジナルの2011年9月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110917111433/www.yomiuri.co.jp/world/news/20110202-OYT1T00916.htm 2011年2月19日閲覧。 
  3. ^ “イエメン大統領、2年後退陣を表明 世襲制にも反対”. AFPBB News (フランス通信社). (2011年2月3日). https://www.afpbb.com/articles/-/2784261?pid=6764496 2011年2月19日閲覧。 
  4. ^ “エジプト:大統領、「腹心中の腹心」を副大統領に 退陣後の保身図る”. 毎日新聞. (2011年1月31日). http://mainichi.jp/select/world/news/20110131ddm007030065000c.html 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  5. ^ “イエメン 首都で再び衝突”. http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2011060102000028.html?ref=rank 2011年6月1日閲覧。 [リンク切れ]
  6. ^ “イエメンで学生デモ、警官と衝突”. 産経新聞. (2011年1月19日). https://web.archive.org/web/20110119030401/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110119/mds1101190112001-n1.htm 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  7. ^ “チュニジアの革命、我が国でも 中東圏相次ぐ反政府デモ”. 朝日新聞. (2011年1月25日). オリジナルの2011年1月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110126005246/www.asahi.com/international/update/0124/TKY201101230331.html 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  8. ^ “イエメン:反政府デモ 大統領辞任要求 チュニジアから飛び火”. 毎日新聞. (2011年1月24日). http://mainichi.jp/select/world/news/20110124ddm002030098000c.html 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  9. ^ a b “イエメン反政府デモで19人逮捕、チュニジアに触発”. ロイター (ロイター). (2011年1月25日). https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-19151520110124 2011年2月19日閲覧。 
  10. ^ “エジプト反政府デモ続く エルバラダイ氏、退陣促す”. 朝日新聞. (2011年1月27日). オリジナルの2011年1月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110129181704/www.asahi.com/international/update/0127/TKY201101270446.html 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  11. ^ “イエメン大統領「2年後退陣、世襲しない」 在位32年”. 朝日新聞. (2011年2月3日). オリジナルの2011年2月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110204203424/www.asahi.com/international/update/0202/TKY201102020473.html 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  12. ^ 同時期の2011年エジプト騒乱で主なデモ発生地区となったタハリール広場とは異なる。
  13. ^ “イエメン 2万人超すデモ”. 東京新聞. (2011年2月4日). http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2011020402000030.html?ref=rank 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  14. ^ “イエメンで大規模デモ=「怒りの日」に数万人”. 時事ドットコム (時事通信). (2011年2月3日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201102/2011020300672 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  15. ^ “イエメン、首都で反政府派と大統領派が数万人ずつデモ”. AFPBB News (フランス通信社). (2011年2月3日). https://www.afpbb.com/articles/-/2784379?pid=6768171 2011年2月19日閲覧。 
  16. ^ “イエメン:治安当局がアデンで民衆に発砲-大統領への抗議活動で”. bloomberg.co.jp (ブルームバーグ). (2011年2月3日). http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920012&sid=a5PhjLGz3dao 2011年2月19日閲覧。 
  17. ^ “イエメン大統領サイト、ハッカー攻撃で接続不能に”. AFPBB News (フランス通信社). (2011年2月4日). https://www.afpbb.com/articles/-/2784423?pid=6768504 2011年2月19日閲覧。 
  18. ^ “民主化ドミノに懸念 中東周辺国”. 産経新聞. (2011年2月12日). https://web.archive.org/web/20110215174122/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110212/mds11021212240013-n1.htm 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  19. ^ “反政府デモ、イエメンも”. 時事通信. (2011年2月12日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201102/2011021200306 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  20. ^ “アルジェリアとイエメンでも体制変革要求デモ”. 読売新聞. (2011年2月13日). オリジナルの2011年2月15日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110215012506/www.yomiuri.co.jp/world/news/20110212-OYT1T00558.htm 2011年2月19日閲覧。 
  21. ^ “大統領宮殿に向け行進 イエメンの反政府デモ隊 警官隊が阻止”. 産経新聞. (2011年2月14日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/110214/mds11021400460002-n1.htm 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  22. ^ “イエメン・アルジェリアでデモ勢い エジプトが触発”. 日本経済新聞. (2011年2月14日). http://www.nikkei.com/news/headline/related-article/g=96958A9C9381959FE3E6E2E3E48DE3E6E2E0E0E2E3E39C9CE2E2E2E2;bm=96958A9C9381959FE3E6E2E2968DE3E6E2E0E0E2E3E39F9FE2E2E2E2 2011年2月19日閲覧。 
  23. ^ “イエメンで反政府デモ、バーレーンでも計画”. 読売新聞. (2011年2月14日). オリジナルの2011年3月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110318220120/www.yomiuri.co.jp/world/news/20110214-OYT1T00837.htm 2011年2月19日閲覧。 
  24. ^ “デモ隊が広場占拠 バーレーン、また死者”. 東京新聞. (2011年2月16日). http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2011021602000041.html 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  25. ^ “イエメン:反政府デモに数千人”. 毎日新聞. (2011年2月14日). http://mainichi.jp/select/today/news/20110214k0000e030024000c.html 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  26. ^ “イエメン、警察の発砲でデモ参加者2人死亡”. AFPBB News (フランス通信社). (2011年2月17日). https://www.afpbb.com/articles/-/2785821?pid=6828270 2011年2月19日閲覧。 
  27. ^ a b “イエメンのデモで25人負傷”. 時事通信. (2011年2月18日). http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2011021800001 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  28. ^ “イエメンでも衝突 2人死亡約20人負傷”. 産経新聞. (2011年2月17日). https://web.archive.org/web/20110219090004/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110217/mds11021719070006-n1.htm 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  29. ^ “イエメン:反大統領派、支持派と衝突 12人負傷”. 毎日新聞. (2011年2月17日). オリジナルの2011年2月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110226024542/mainichi.jp/select/world/news/20110218k0000m030087000c.html 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  30. ^ “バーレーン外相「デモ隊排除は妥当」 リビアでは20人以上が死亡か”. 中日新聞. (2011年2月18日). http://www.chunichi.co.jp/s/article/2011021890105121.html 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]
  31. ^ a b “イエメンのデモで18日、少なくとも4人が死亡”. ウォール・ストリート・ジャーナル. (2011年2月19日). http://jp.wsj.com/World/node_185107 2011年2月19日閲覧。 
  32. ^ “アラブ諸国指導者、変革の波を警戒”. 読売新聞. (2011年2月12日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110212-OYT1T00372.htm 2011年2月19日閲覧。 
  33. ^ “「政権打倒は受け入れられない」イエメン大統領、即時退陣を拒否”. 産経新聞. (2011年2月22日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/110222/mds11022212380017-n1.htm 2011年2月23日閲覧。 [リンク切れ]
  34. ^ “イエメン大統領、年明け前後の退陣提案 反体制派は拒否”. 朝日新聞. (2011年3月23日). オリジナルの2011年3月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110324184414/www.asahi.com/international/update/0322/TKY201103220539.html 2011年3月24日閲覧。 [リンク切れ]
  35. ^ “年末までに大統領選=民主化要求デモに懐柔策-イエメン”. 時事通信. (2011年3月23日). http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2011032301113 2011年3月24日閲覧。 [リンク切れ]
  36. ^ “イエメン:非常事態法を可決 デモ指導者「無視」宣言”. 毎日新聞. (2011年3月23日). オリジナルの2011年3月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110325102822/mainichi.jp/select/world/news/20110324k0000m030110000c.html 2011年3月24日閲覧。 [リンク切れ]
  37. ^ “イエメン大統領、辞任決断か=政権移行案を受諾-与党幹部”. 時事ドットコム (時事通信). (2011年4月24日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201104/2011042400021 2011年5月1日閲覧。 [リンク切れ]
  38. ^ “イエメンの反政府デモは終息の兆候なし-大統領の無条件退陣求める”. ブルームバーグ. (2011年4月25日). http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920008&sid=aTDmiPSCZEcU 2011年5月1日閲覧。 
  39. ^ “米国:歓迎声明 イエメン大統領、調停案受け入れで”. 毎日新聞. (2011年4月25日). http://mainichi.jp/select/world/news/20110425k0000m030078000c.html 2011年5月1日閲覧。 [リンク切れ]
  40. ^ “イエメン:大統領、早期退陣を否定 「権力誰に」”. 毎日新聞. (2011年4月26日). http://mainichi.jp/select/world/news/20110426ddm007030173000c.html 2011年5月1日閲覧。 [リンク切れ]
  41. ^ “イエメン大統領が退陣案拒否 湾岸諸国の調停、暗礁に”. 朝日新聞. (2011年5月1日). http://www.asahi.com/international/update/0501/TKY201105010256.html 2011年5月1日閲覧。 [リンク切れ]
  42. ^ “イエメン:反政府デモ勢力「調停案廃止を」”. 毎日新聞. (2011年5月9日). http://mainichi.jp/select/world/news/20110509ddm007030172000c.html 2011年6月4日閲覧。 [リンク切れ]
  43. ^ “イエメン仲介案で再合意か 大統領と反政府勢力”. 産経新聞. (2011年5月18日). https://web.archive.org/web/20120413050905/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110518/mds11051821530007-n1.htm 2011年6月4日閲覧。 [リンク切れ]
  44. ^ “イエメン、混乱収拾遠のく 大統領がGCC仲介案への署名を再び拒否”. 産経新聞. (2011年5月19日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/110519/mds11051910040002-n1.htm 2011年6月4日閲覧。 [リンク切れ]
  45. ^ “イエメン野党勢力、湾岸協力会議の調停案に署名 反政府デモの混乱収束へ”. AFPBB News (フランス通信社). (2011年5月22日). https://www.afpbb.com/articles/-/2801605?pid=7246404 2011年6月4日閲覧。 
  46. ^ “政権移行案の仲介停止=イエメン大統領が辞任拒否-GCC”. 時事通信. (2011年5月23日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201105/2011052300025 2011年6月4日閲覧。 [リンク切れ]
  47. ^ a b “イエメン、混乱が南部に拡大”. ウォール・ストリート・ジャーナル. (2011年5月30日). http://jp.wsj.com/World/Europe/node_243158 2011年6月4日閲覧。 
  48. ^ “首都で戦闘拡大、50人超死亡=反大統領派との内戦懸念も―イエメン”. 朝日新聞. (2011年5月26日). http://www.asahi.com/international/jiji/JJT201105260126.html 2011年6月4日閲覧。 [リンク切れ]
  49. ^ “首都で戦闘拡大、50人超死亡=反大統領派との内戦懸念も-イエメン”. 時事通信. (2011年5月26日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201105/2011052600837 2011年6月4日閲覧。 [リンク切れ]
  50. ^ “G8首脳宣言、イエメン大統領に退陣促す”. ロイター (ロイター). (2011年5月27日). https://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPnTK892248420110527 2011年6月4日閲覧。 
  51. ^ “政府と部族勢力が停戦合意 イエメン、内戦回避”. 共同通信. (2011年5月29日). https://web.archive.org/web/20110723041641/http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011052901000050.html 2011年6月4日閲覧。 
  52. ^ “イエメン治安部隊:フリーダム広場のデモ隊に発砲-アルジャジーラ”. ブルームバーグ. (2011年5月30日). http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920010&sid=azf9NECML_ds 2011年6月4日閲覧。 
  53. ^ “デモ隊を鎮圧、20人死亡=イエメン”. 時事ドットコム (時事通信). (2011年5月31日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201105/2011053100010 2011年6月4日閲覧。 [リンク切れ]
  54. ^ “イエメン政府軍、アルカイダ制圧の南部州都を空爆”. ロイター (ロイター). (2011年5月31日). https://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-21440120110531 2011年6月4日閲覧。 
  55. ^ “イエメン・サレハ大統領 「私は無事だ」とTV声明”. 朝日新聞. (2011年6月4日). オリジナルの2011年6月5日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110605025010/www.asahi.com/international/update/0604/TKY201106040123.html 2011年6月4日閲覧。 [リンク切れ]
  56. ^ “宮殿に砲撃、大統領負傷 イエメン、護衛6人死亡”. 共同通信. (2011年6月3日). https://web.archive.org/web/20110607024942/http://www.47news.jp/CN/201106/CN2011060301001106.html 2011年6月4日閲覧。 
  57. ^ “大統領府攻撃を非難=イエメンに戦闘停止呼び掛け-米”. 時事通信. (2011年6月4日). http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2011060400063 2011年6月4日閲覧。 [リンク切れ]
  58. ^ “イエメン大統領、反体制派部族への徹底攻撃指示”. 読売新聞. (2011年6月4日). オリジナルの2011年6月5日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110605030414/www.yomiuri.co.jp/world/news/20110604-OYT1T00291.htm 2011年6月4日閲覧。 
  59. ^ “イエメン大統領、サウジアラビアの病院へ搬送”. AFPBB News (フランス通信社). (2011年6月5日). https://www.afpbb.com/articles/-/2804001?pid=7301248 2011年6月5日閲覧。 
  60. ^ “イエメン南部に米軍が空爆強化、米紙報道”. AFPBB News. (2011年6月9日). https://www.afpbb.com/articles/-/2805155?pid=7318536 2011年6月9日閲覧。 
  61. ^ “エメン・サレハ大統領、サウジ国王と電話会談”. 読売新聞. (2011年6月15日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110615-OYT1T00946.htm 2011年6月17日閲覧。 
  62. ^ “サレハ大統領が辞任か=「帰国しない」とサウジ当局者―イエメン外務省は否定”. 朝日新聞. (2011年6月17日). http://www.asahi.com/international/jiji/JJT201106170121.html 2011年6月17日閲覧。 [リンク切れ]
  63. ^ “イエメン大統領、負傷後初めてのテレビ演説”. CNN.co.jp (CNN). (2011年7月8日). http://www.cnn.co.jp/world/30003310.html 2011年7月10日閲覧。 [リンク切れ]
  64. ^ “イエメン:サレハ大統領、1カ月ぶり姿 映像で留任示唆”. 毎日新聞. (2011年7月8日). http://mainichi.jp/select/world/news/20110708dde007030060000c.html 2011年7月10日閲覧。 [リンク切れ]
  65. ^ “負傷のイエメン首相帰国 治療受けたサウジから 大統領宮殿爆発”. 産経新聞. (2011年8月24日). https://web.archive.org/web/20110824155628/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110824/mds11082411000007-n1.htm 2011年9月17日閲覧。 [リンク切れ]
  66. ^ “イエメン大統領帰国、反体制派の反発必至 首都で衝突続く”. CNN.co.jp (CNN). (2011年9月24日). http://www.cnn.co.jp/world/30004073.html 2011年9月25日閲覧。 [リンク切れ]
  67. ^ “イエメン:デモ隊攻撃受け、市民ら40人死亡--首都”. 毎日新聞. (2011年9月25日). http://mainichi.jp/select/world/news/20110925ddm007030178000c.html 2011年9月25日閲覧。 [リンク切れ]
  68. ^ a b “イエメン軍、反政府派の拠点攻撃 40人以上が死亡”. 朝日新聞. (2011年9月24日). オリジナルの2011年9月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110924142504/www.asahi.com/international/update/0924/TKY201109240376.html 2011年9月25日閲覧。 [リンク切れ]
  69. ^ “イエメン大統領選を実施=サレハ氏”. 朝日新聞. (2011年8月30日). http://www.asahi.com/international/jiji/JJT201108300017.html 2011年9月17日閲覧。 [リンク切れ]
  70. ^ イエメン:国防長官の車列近くで地雷爆発。兵士2人死亡”. 株式会社エグゼクティブプロテクション. 2011年10月8日閲覧。
  71. ^ “再送:イエメンでまた国防相狙った攻撃、兵士7人が負傷”. ロイター (ロイター). (2011年9月28日). https://jp.reuters.com/article/jpUSpolitics/idJPJAPAN-23387820110928 2011年10月8日閲覧。 
  72. ^ “イエメン大統領、退陣へ 権限移譲の調停案に署名”. 朝日新聞. (2011年11月24日). オリジナルの2011年11月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111123213108/www.asahi.com/international/update/1124/TKY201111230580.html 2011年11月26日閲覧。 
  73. ^ a b “イエメン:サレハ大統領サウジに 権限移譲案受け入れへ”. 毎日新聞. (2011年11月24日). オリジナルの2011年12月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111216212855/mainichi.jp/select/world/news/20111124k0000m030103000c.html 2011年11月26日閲覧。 [リンク切れ]
  74. ^ a b “イエメン大統領の訴追免除法案可決”. 産経新聞. (2012年1月21日). https://web.archive.org/web/20120121221556/http://sankei.jp.msn.com/world/news/120121/mds12012119560002-n1.htm 2012年1月23日閲覧。 [リンク切れ]
  75. ^ “イエメンの大統領権限移譲、米大統領が歓迎”. 読売新聞. (2011年11月24日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111124-OYT1T00363.htm 2011年11月26日閲覧。 [リンク切れ]
  76. ^ “権力移行案署名を歓迎=玄葉外相”. 時事通信. (2011年11月24日). http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011112401063 2011年11月24日閲覧。 [リンク切れ]
  77. ^ “イエメン国民に「最大級の称賛」…EU外相”. 読売新聞. (2011年11月24日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111124-OYT1T00382.htm 2011年11月26日閲覧。 [リンク切れ]
  78. ^ “サレハ大統領の訴追免除にデモ隊が抗議―イエメン”. wsj.com (ウォール・ストリート・ジャーナル). (2011年11月25日). http://jp.wsj.com/World/Europe/node_350003 2011年11月26日閲覧。 
  79. ^ “イエメンが挙国一致内閣を発表、首都でなお衝突も”. ロイター (ロイター). (2011年12月8日). https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPTYE7B703320111208 2011年12月8日閲覧。 
  80. ^ “イエメン、挙国一致内閣を発足 宣誓就任式行う”. AFPBB News (フランス通信社). (2011年12月11日). https://www.afpbb.com/articles/-/2845213?pid=8188313 2012年1月1日閲覧。 
  81. ^ “イエメン 新政府が樹立”. ロシアの声 (ロシアの声). (2011年12月24日). http://japanese.ruvr.ru/2011/12/08/61810065.html 2011年12月24日閲覧。 
  82. ^ “イエメン大統領、治療目的で訪米 国民には謝罪”. CNN.co.jp (CNN). (2012年1月23日). http://www.cnn.co.jp/world/30005368.html 2012年1月23日閲覧。 [リンク切れ]
  83. ^ “イエメン新大統領が就任宣誓、サレハ政権に幕”. 読売新聞. (2012年2月25日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20120225-OYT1T00564.htm 2012年2月25日閲覧。 
  84. ^ “ハディ氏得票率99.8% イエメン暫定大統領に当選”. 朝日新聞デジタル. (2012年2月25日). オリジナルの2012年2月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120227135459/http://www.asahi.com/international/update/0225/TKY201202250324.html 2012年2月25日閲覧。 
  85. ^ “平和賞のカルマンさん、イエメンの「革命の母」”. 読売新聞. (2011年10月8日). https://web.archive.org/web/20111008220755/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111008-OYT1T00029.htm 2011年10月8日閲覧。 [リンク切れ]
  86. ^ “イエメン大統領が辞任示唆、時間稼ぎの見方も”. 読売新聞. (2011年10月9日). https://web.archive.org/web/20111010055933/http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111009-OYT1T00062.htm 2011年10月9日閲覧。 
  87. ^ “イエメン大統領「数日中に退陣」  反体制派は「信用しない」” (日本語). 産経新聞. https://web.archive.org/web/20111009052059/http://sankei.jp.msn.com/world/news/111009/mds11100900530000-n1.htm 2011年10月1日閲覧。 [リンク切れ]
  88. ^ “女性が「決起」、イスラム教ベール焼却 イエメン反政府デモ”. (2011年10月27日). http://www.cnn.co.jp/world/30004398.html 2011年10月27日閲覧。 [リンク切れ]
  89. ^ “イエメンの改革を歓迎=米大統領”. 時事ドットコム (時事通信). (2011年2月4日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201102/2011020400137 2011年2月19日閲覧。 [リンク切れ]

関連項目

編集