Wikipedia‐ノート:スタイルマニュアル/フィクション関連/過去ログ1

Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)の素案作成のお知らせ 編集

Wikipedia‐ノート:性急な編集をしないにおいても必要ではないかという話が出ていたWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)の素案を作成いたしました。英語版を元に日本語版の事情を加味した内容としてみました。今後ガイドライン化へ向けて作業を行いたいと思いますので、ご意見などありましたらこちらまでお願いいたします。--Web comic 2009年7月10日 (金) 12:16 (UTC)

いくつかの語の定義をはっきりさせておいた方が良いかなと。現実世界、一次資料、プロット/あらすじ(ストーリー)の違いなどなど。--EULE 2009年7月10日 (金) 14:24 (UTC)
一次資料あるいは二次資料に関してはWikipedia:独自研究を載せないに言及がありますし、そこへの内部リンクも貼ってあります。本文中においてはこれを元に記述したものがそれぞれ一次情報、二次情報と明記してあるので問題ないと思います。プロットとストーリーの違いに関しても、それぞれプロット (物語)ストーリーへの内部リンクを貼り、これらのリンク先に違いが明記されているため問題ないと思います。最後に現実世界ですがこれは現実へのリンクとしましたが、これで内容はおおむね理解できるのではないでしょうか?--Web comic 2009年7月11日 (土) 02:28 (UTC)
別にここで詳しい語句の解説をしろと言うわけでは無いのですが、知っている人間から見れば当たり前のことでも、知らない人間から見れば当たり前ではないと。プロット(やストーリー)が何かと言うよりも、プロットとストーリーは違う物であると、簡単で良いから補足しておくような感じで。これは英語版を引き写したものですが、英語版はもっぱら節名は「プロット」だから問題ないかもしれませんが、日本語版は「あらすじ」や「ストーリー」ですから。
あと一次資料なんかは、それはそうなんですが何か釈然としないというか。単に「一次情報はフィクション世界に関する一次資料、すなわちフィクションの原書またはその系列作品(例えば同じシリーズの別のエピソード)から発する情報について説明します。」が日本語としておかしいだけかもしれませんけど(正しいとしても、いまいち文意がわかりづらい)。
現実世界という語も、これ自体は(フィクションの記述を説明する上で必要な)固有名詞と言っても過言ではなく、これをリンクだけで説明責任を果たしているとするのは、難しいと考えます。フィクション世界(架空世界)/現実世界と言う訳自体は、良い訳だと思いますし、だからこそ語句の説明をしておくと。
総じて、このルールの設立意図は、今まで暗黙のうちに許されてきた日本語版でのルール(「慣習」)を成文化することにある、と言う観点が必要だと思います。--EULE 2009年7月11日 (土) 06:59 (UTC)
(追記)一次資料については独自研究にあるけれども、一次資料と言う語句自体が何を指すかは、一般にWikipedia:信頼できる情報源の方が参照されます(されると思います)。氏自身が述べられた『過度に「一次情報源よりは二次情報源を重んじる」傾向』の源泉でもありますが--EULE 2009年7月11日 (土) 07:40 (UTC)
とりあえず資料とプロット、ストーリーについては説明を追記しました。現実世界の説明については今のところちょっといいものが思いつかないので、考え中です。もしいい説明があればお願いいたします。--Web comic 2009年7月11日 (土) 07:56 (UTC)
その物語の世界を架空世界(またはフィクション世界)と呼び、私たち記述者(もしくは閲覧者)のいる現実の世界を現実世界とします。例えば『サザエさん』や『クレヨンしんちゃん』のように実在の地名や世界であっても、ここでは架空世界とします。
で、どうでしょうか?まあ、例や文末など直す余地があると思いますが大筋で。--EULE 2009年7月11日 (土) 08:04 (UTC)

(インデント戻し)EULEさんの案を元に内容を反映させてみました。フィクションとして考えられる典型例とそれとは対照的なものを挙げた方が分かりやすいと考え、例示は変更してみました。--Web comic 2009年7月11日 (土) 08:32 (UTC)

とりあえず私の当初の懸念は解決されたと思います。ご苦労様です。ついで、一部手を入れました。
あとは『過度に「一次情報源よりは二次情報源を重んじる」傾向』に対して、どのようなスタンスを取るかですかね。本文中で、そのような傾向があることに配慮するか、そのようなスタンスの人たちとノートで議論して、「一次資料を扱うことは問題ないことである」と説き伏せるか。この先、ガイドライン化を目指す上で1つの焦点になると思います。--EULE 2009年7月11日 (土) 08:48 (UTC)
(追加)肝心なことを忘れていました(一応、「日本語版でのルール(「慣習」)を成文化することにある」と述べてますが、具体性に欠けますね)。英語版と日本語版の差異からくる観点ですが、英語版は、ストーリー(プロット)の記述を特に問題視してないこともあり、そちらに量が割かれてます。当然、「ストーリー記事の独立化」と言う項目に意味があります。
翻って日本語版は、ストーリー(プロット)の記述を、暗黙のうちに制限しています。代わりにされていることが、登場人物や用語の説明に量を割くことです(これは、ウィキペディア日本語版とかどうかではなく、日本人的な感覚としてのネタバレへの忌避が現れた結果なのだと思いますが)。よって「ストーリー記事の独立化」は、日本語版の慣習としては相容れない項目です。
まあ、その辺をどうするかは議論すべきことですが、慣習にならって「ストーリー記事の独立化」を禁止すべきだとは言いませんが、「推奨する」と言う文言は良くないと思います。と、同時に「登場人物や用語の説明に量を割く」という現状に対応する項目を策定する必要があるように考えます。--EULE 2009年7月11日 (土) 09:14 (UTC)#日本語版の慣習からに移設--EULE 2009年7月11日 (土) 10:00 (UTC)

日本語版の慣習から 編集

日本語版の慣習(あるいは許容されてきた側面)の観点からいくつか意見を述べさせてもらいます。

  1. プロットの記述量の差異
    英語版ではプロットの記述量が多いために「ストーリー記事の独立化」が意味を持ちますが、日本語版ではプロット(ストーリー)の記述を抑える傾向が強いため、あまり必要性が無いと思います。代わりに、日本語版では登場人物や用語の説明に記述量が割かれるため、こちらに特化した項目を作るべきだと考えます
  2. 適切な参照
    一般に「適切な参照」とは、その情報について逐次、出典を求める物です。が、日本語版ではフィクションの一次資料においては、厳密に適応されてませんし、許容されてきました。基本的に、フィクション関連においての参照とは、「○○編では」と言うような形をとることが多く、実際、その方が、一般の記事とは違って脚注機能を用いない方が、返って内容を把握しやすいと考えます。よって何を持って「適切」とするかを「Wikipedia:出典を明記する」に丸投げするのではなくて、ここで多少定義した方がいいと考えます。

--EULE 2009年7月11日 (土) 10:00 (UTC)

一応、主に1関する草案です(こういうの初めてなので文体がいまいちおかしいですが)。

== 登場人物や用語に関する記述 ==
原則として、登場人物や用語の説明は簡潔であることが望ましく、詳細な情報やトリビア的な情報(プロフィールや好きな食べ物など)は不要です。また、記述する対象もストーリーに深く絡んだり、登場回数が多いというもの以外(1話限りの端役など)は不要です。よって、それ1つの説明のために独立記事にする、あるいは独立記事にすることを前提で記述すること(赤リンク化するなど)は避けてください。ですが、ストーリー進行や他の対象との関係性によって記述量が増えることを禁止する物ではありません。しかし、その場合、単なるあらすじになることを避けてください。あくまで記述の目的は、対象の説明であり、あらすじを書くことではありません。各プロジェクトも参考になるでしょう。

記述量が増え、他のセクションとの分量のバランスをとる必要が出てきた場合には、分割の前に記述の整理を検討してみてください。単なるあらすじになっていないか、内容が重複してはいないか、それは特筆性のある情報か、などが1つの判断基準になると思われます。その上で分割が必要と判断される場合も、「○○の登場人物一覧」、「○○の用語解説」といった形で分割してください。基本的に、1つの対象のために独立記事にすることはそう無いはずです。

あと以下、個人的な観点。

  • 「性格」「物語上での立ち位置」「他のキャラクターとの関係」などを、段落ごとに切り分けて説明すると判りやすく、内容が重複してしまう問題も減らせるというような内容。
  • 他のキャラクターとの関係を記述すると、しばしば、その他のキャラクターの説明になっているというようなありがちなミスの説明
  • ある事柄を説明するのに、根拠(事例)を書くと良いかもしれない。ただし、目的は「ある事柄の説明」であって、1,2例あれば良く、それに関する事例を全て書き出す(=単なるあらすじになる)必要は無い。

--EULE 2009年7月12日 (日) 04:47 (UTC)

Wikipedia:キャラクターの記述に対するガイドラインが公式化に向けて議論中です(ちと停滞気味のようですが)。そちらとのバランスも考慮した方がいいのではないでしょうか。-- 2009年7月12日 (日) 13:00 (UTC)
こんばんは。個人的には、ガイドラインは駄目出し系よりも、理想となる模範的な形を示すほうがいいのではないかと思っています。日本語版の現状は確かに問題点が多いですが。その慣習化してしまっている問題点について、ただ見える表面だけ禁止するような形にしても、それは結局記事の根本的な改善にはならないのではないでしょうか。ネタばれに注意、性急な編集をしない、過剰な内容の整理など、色々と禁止系駄目出し系のガイドラインが数多くつくられそして今も現役ですが、記事の成長に成果があがっているようには、他の言語版と比較して見えません。--Giftlists 2009年7月12日 (日) 16:12 (UTC)
私の意見に対する物として答えますが、少なくともこの草案の策定に関しては、慣習化した問題への対抗措置(具体的な制限)を掛けることはすべきではないと考えてます。私が言う慣習の観点とは、1つには、例えばこの草案の一番の目的である(と私は考えている)「一次資料の活用を認める」というような、慣習に根拠を与えること(成文化)、2に、これは英語版から引き写したものであるから、日本語版と、その差異を埋めることを言ってます。その結果「この慣習は成文化しない方が良い」みたいなら、それはそれで一向にかまないと思いますが、「この慣習によって生じる問題の対処をここで書くべきだ」となると、それは違うんじゃないか?と思います。
なんか、「性急な編集をしない」を廃案する代わりにこれが作られている(言い換えれば、性急な編集をしないの内容をここで包括する)みたいになっているけど、(Web comic氏には悪いが)私はそんなつもりは毛頭ないどころか、かえって反対であって、あくまで当面のここでの目標は、「慣習に根拠を与えること」のただ一点だと思ってます。その上で、もし、ここで「性急な編集をしない」が包括できる余地があるなら、とりあえずこれをガイドライン化してしまってからが良いと思います。現状、例え素晴らしい記事であっても、サブカル系だと一次資料がなんだと秀逸な記事に選ばれにくいのがその証左で。--EULE 2009年7月13日 (月) 09:47 (UTC)

ガイドラインへの移行提案 編集

上記のEULEさんの提案内容はWikipedia‐ノート:キャラクターの記述に対するガイドラインにてEULEさんが改めて提案されていること、またこちらからWikipedia:キャラクターの記述に対するガイドラインへの内部リンクを張ること、さらに「精度と適切な分量」や「雑多な内容」においてもこれらについて言及しているため、記載しないということでよろしいでしょうか?そして現在のところ本草案そのものへの反対意見は今のところありませんのでこのまま反対意見がないようでしたらガイドラインへ移行したいと思いますがいかがでしょうか?--Web comic 2009年7月24日 (金) 21:34 (UTC)

  賛成 はい構わないと思います。私自身としては、これも欲しいあれも欲しいというところがありますが、性急な編集のノートでも述べたように、一次資料の扱いという目的に対しては既に達成していると思いますので。私の意見はどのようなことになるにしろ、ガイドライン化した後でも何も問題は無いので。--EULE 2009年7月25日 (土) 00:41 (UTC)
(追記)構わないと言っておいて何ですが、細かいところを直してみました。文意が変わっているとかなら戻されても構いません。現実/フィクション世界のリンク解除は元々現実世界を説明するという目的が無くなったため、スピンオフ記事は、日本語版では一般に子記事と呼ぶため変えました。--EULE 2009年7月25日 (土) 01:57 (UTC)
(賛成)特に問題はないと思います。ただ日本語としてどうかな? という点がひとつ。#二次情報のところですが、EULEさんの版では「フィクションの特定の作品にかえされているような刊行物」となっている部分ですが、直前の版では「フィクションの特定の作品に帰されているような刊行物」となっています。例としてファンブックが挙げられていることから、この部分は「フィクションの特定の作品に依拠した二次的刊行物」とした方が通りがいいんじゃないでしょうか。これだけのために版を重ねるのも何なので、次の編集の際に盛り込むことをご検討ください。-- 2009年7月25日 (土) 02:54 (UTC)

一週間以上経ちましたが特に反対意見はありませんでしたのでガイドラインへ移行いたしました。郁さんの提案も特に問題も反対意見もありませんでしたので移行時に反映させました。--Web comic 2009年8月4日 (火) 00:56 (UTC)


インフォボックスの項の内容の一部を特筆性の項へ移す提案 編集

インフォボックスの項目にある、雑多な内容の具体例を、特筆性か雑多な内容の項へと移したいと思います。インフォボックスに限定するような内容では無いと思いますので。具体的な文面はまだ作ってませんが、この主旨に何か異論や意見があれば受け付けます。--EULE 2009年9月4日 (金) 05:19 (UTC)

「Wikipedia:ウィキペディアにふさわしいストーリー紹介の文体」作成の案内 編集

Wikipedia:ストーリー紹介の在り方についての解説素案の分割を提案していましたが、異論がなかったのでWikipedia:ウィキペディアにふさわしいストーリー紹介の文体を作成しました。意見があれば当該記事のノートの方にお願いします。--Kojidoi 2009年10月11日 (日) 08:36 (UTC)

「日本語版の事情を加味した点」の確認 編集

こんばんは。別の議論を見ていた関係で気になったのですが。英語版から日本語に翻訳した際に、英語版にはなかった節を「日本語版の事情を加味して」付け足されたとの説明がノートの最初にありましたが、これは具体的に何処を指すか、後から読まれる方のために念のために確認しておいてもいいでしょうか?

粗く目を通した印象では、「最新の情報」節と「雑多な内容」節は、日本語版で独自に付け足したもののようにお見受けしますが、その理解であっていますでしょうか。--Giftlists 2010年4月12日 (月) 15:16 (UTC)

ガイドライン変更提案(現実世界の観点) 編集

現在「ノート:ウィキプロジェクト ガンダムシリーズ」に於いて、フィクション世界の視点で記事を書く事を延々と主張されている方々がいます。私の方から、ウィキペディアの創作物関連の記事は現実世界の視点で記述することがガイドラインで定められているということは何度か説きましたが、それでもなお、我流を貫くお考えの様です。限られた編集者グループ間で合意しても、より大きな規模のコミュニティの合意を無効にすることはできないものなので、このガイドラインの変更を試みるようここで議論をしていただく事にしました。--220.96.121.8 2010年7月21日 (水) 17:54 (UTC)

  コメント 現在の「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)」には、「一次資料と二次資料のバランスの取れている使用を維持してください」とあり、「現実世界の観点への厳格な固守があっても、フィクションに関して書く際には、常に情報源としてオリジナルのフィクション自体を使用することを含んでいます」と書かれています。その事物が作品世界内で何と呼ばれているかという情報は、本ガイドラインで例示されている「架空のキャラクターの生没日」や「架空の生物に関する基礎的な情報」と同様に「一次資料を含む利用可能な情報」の一種であるように思えます。
220.96.121.8さんの提案はつまり、例えるならトランスフォーマーシリーズはアニメではなく玩具の方が原作なので、現実世界の呼び名に倣ってG1コンボイの呼び名は「01コンボイ」、マイクロン伝説版のコンボイは「MC-01コンボイ」または「アルマダコンボイ」、実写映画版は「MA-01オプティマスプライム」ないし「RA-01オプティマスプライム」と呼ぶべき、といった類の主張と理解しますが、玩具の解説が中心の記事ではなくアニメや映画の内容が中心となっている記事の場合、こうした呼称は不適当でしょう。同様にアニメの記事で「ララァ・スン専用モビルアーマー」「メサイアバルキリー」「オートボットジャズ」のような名称を「現実世界の視点」と称して持ち込むことは不適切に思えます。
実際にどちらが適切な名称かという問題はまあ、その記事が「アニメの劇中に登場するキャラクター」の解説記事なのか、「玩具やプラモデルの仕様」について解説した記事なのかにも関係し、一律で決められるものではないと思います。各記事のノートで話し合うべき案件かと思います。--Kanohara 2010年7月22日 (木) 00:01 (UTC)
世界観や設定において、現実世界の観点を重視するというのは、第一には架空世界には矛盾点や不明点が存在するからです(完全な世界じゃなく、またそれを検証する手段も限られるので)。そのような矛盾点や不明点が現れた時に架空世界の観点のみだと、その整合性を取ろうとしたり、不明な点を埋めようする必要が出てきて、独自研究や不正確な内容が跋扈することになる。なので、現実世界の観点(矛盾点は矛盾点、不明点は不明点として明らかにしておく)で記述せよというものです。
さて本題のガンダムに関しては、私はガンダムについては知らないので何とも言えません。が、作中で用いられている表記、あるいは公式な二次資料で用いられている表記を、1つの基点とすることは、現実世界の観点を蔑ろにすることでは無いと考えます。これは矛盾点や不明点が介在する問題では無いからです(本編中では「ガンダム」と付かないことはわかっている。)。重要なのは、その世界の中で(架空世界の観点)、または公式な設定として(現実世界の観点)、略称かどうかであり、一方で上記Kanohara氏も述べているように玩具では付いているとか、派生物を根拠に持ち出して、正式名称を論じることは現実世界の観点とは呼べません。--EULE 2010年7月22日 (木) 04:07 (UTC)
御二方へ、残念ながら現在議論になっているキャラクターとトランスフォーマーとでは訳が違います。これらのキャラクターの名称は玩具特有の名称ではありません。普通にアニメやドラマのキャラクターの名称として創作された物で、玩具でもそれをそのまま使ったものです。
利用者:ステイシア・ボーダーさん達の主張は「ガンダムSEED世界『コズミック・イラ』では我々(現実の人間)が『ガンダムタイプ』としている機体の名称には『ガンダム』と付かない」(よって記事の中にこれ等のキャラクターの名称が出た場合はガンダムを外す)というもの。名乗程の名は無いさんのように「2003年11月発売のゲームソフト『仮面ライダー 正義の系譜』(時代設定は2004年)では、仮面ライダー1号が自らを仮面ライダーと名乗っていることを聞き、津上翔一も自らを仮面ライダーと名乗るようになった、という設定になっています。なので、2001年に製作され同年が舞台の『仮面ライダーアギト』のストーリー中の世界では「仮面ライダーアギト」なる呼称は存在しない」(よって記事の中にこれ等のキャラクターの名称が出た場合は仮面ライダーを外す)という主張をされた方もいました。
これらは明らかにフィクション世界の視点に比重を置きすぎたものであり、「作品タイトルや役者の本名等の情報はフィクション世界の中には存在していないから、解説中にこれらを表記することが望ましい状況になっても書きこまない」等のことにも通じるものですから、ガンダムや仮面ライダー等の一部の作品のファンが、各記事のノートで現実世界の視点で書きこむかフィクション世界の視点で書きこむか話し合って済む問題ではないので、彼らにはこちらでフィクション世界の視点で書きこんだ場合の利点でも説いてガイドラインの変更や撤回を試みてもらう事にしました。--221.188.193.79 2010年7月22日 (木) 11:20 (UTC)
私が言いたいのは、今回の議論は現実世界/フィクション世界の視点とは関係が無いってことです。もっと言えばそれ以前の問題。重要なのは、それが正式名称なのか、単なる略称なのかをはっきりさせること。その点において、「視聴者はガンダムと見ているから」とか「派生物ではこういう名称だ」というのは根拠にはならない。ここで言う現実世界の視点とはそういう事を指しているわけじゃない。
もし現実世界の視点を取り入れるとすれば、それは「それが略称なのか正式名称なのか不明であることを閲覧者に明示すること」であって、現実世界の視点だからこっちが正しいと主張することではない。--EULE 2010年7月22日 (木) 11:59 (UTC)
  コメント 概ねEULEさんの意見と同意見です。なおこの件に関しては、私が最初に挙げたように、現行のガイドラインにおける「一次資料と二次資料のバランスの取れている使用を維持してください」「現実世界の観点への厳格な固守があっても、フィクションに関して書く際には、常に情報源としてオリジナルのフィクション自体を使用することを含んでいます」といった記述の範疇のことであり、221.188.193.79さんの主張する「ガイドラインの変更や撤回」は必要ないと考えています。--Kanohara 2010年7月22日 (木) 12:21 (UTC)
私自身は「仮面ライダーシリーズ」に対して「SEEDシリーズでの私の主張」を持ち込む気はありません。ましてや「IPユーザー氏」のおっしゃる「作品タイトルや役者の本名等の情報はフィクション世界の中には存在していないから、解説中にこれらを表記することが望ましい状況になっても書きこまない」などとは考えたこともありません。
「IPユーザー氏」は「ガンダムSEED世界『コズミック・イラ』では我々(現実の人間)が『ガンダムタイプ』としている機体の名称には『ガンダム』と付かない」という設定は存在しないという立場で、
私+何人かの方は「ガンダムSEED世界『コズミック・イラ』では我々(現実の人間)が『ガンダムタイプ』としている機体の名称には『ガンダム』と付かない」という設定は存在するという立場になっていて、根本から対立しています。
設定は存在するという立場の方でも、「ガンダム」と付けた方がいいという方もいらっしゃいます。--ステイシア・ボーダー 2010年7月22日 (木) 13:14 (UTC)

私もステイシア・ボーダーと同じ立ち位置に近いもので、機動戦士ガンダムSEEDシリーズの場合のガンダムはあくまで、そのような期待はあっても名称としてのガンダムは付かない設定であるということに認識を持っています。機動戦士ガンダムSEEDや機動戦士ガンダムSEED DESTINYも外伝版も同様であり、強いて言うならばOSの略称をキラ・ヤマト自身が言い始めてから広まったのが唯一の設定といえるでしょう。アニメ本体でも、小説版でもそういう風になっている実態からも、現行プロジェクトの枠内での論議に対して一定の配慮と尊重すべきでしょう。あくまでファーストガンダムと機動戦士ガンダムSEEDシリーズは別個の世界観であるという区分から見ていくべきだと想います。今回の論議が手こずり過ぎているのは、数年前にも起こったことが再び起こったような流れでもあるのと、関係している資料自体が余りに大規模で、膨大すぎるほどの膨大さで論議の停滞感がある程度起こっていってしまうという背景も含まれています。今回の論議はプロジェクト枠内でやって行くべきだと想います。総意によって纏まっていくべきでしょうし、これ以上の論戦を持って一区切りにしていくという流れでは、この方が適切だと考えられます。--Syunrou 2010年7月22日 (木) 13:40 (UTC)

僕はお話の中の観点で解説することに賛成です。その方が読む人にとっても面白い記事になると思うんです。--名乗程の名は無い 2010年7月23日 (金) 02:41 (UTC)

こうしたものに総括的なガイドラインを設けるのは却って混乱を招くというか、事実上不可能だと思います(理由は既に出尽くしているので私からは特に挙げません)。あくまでも百科事典を作るのだという大前提を忘れない限り、各々の記事の編集者の合意によって解決されうる事ですし、そうあるべきだと思います。よって、Kanoharaさんが仰っているように、これらの問題は個別に扱っていく方がより望ましい形になるのではないでしょうか。なお念のため付け加えておきますが、「読む人にとって面白い」というのは百科事典にとって必ずしも求められるものではなく、寧ろそのために百科事典の記事としての質を落としてしまうようでは本末転倒というもので、この場においては考慮するに足りない瑣末な要素であると言えます。それが両立可能な範囲であれば構わないどころか寧ろ歓迎すべき事だと思いますが、そういった分別が出来ない方はもっと相応しい場へ移動して下さいますようお願いします。--すっく=ら=ぼん 2010年7月23日 (金) 05:55 (UTC)

読む人にとって面白い方が好いに越したことはないでしょう。その方が多くの人に読んでもらえるんですから。--名乗程の名は無い 2010年7月26日 (月) 04:06 (UTC)
  コメント もちろんウィキペディアは辞書、マニュアル、ガイドブック、教科書、学術雑誌などではなく(Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか)、人々の知的好奇心を満たすための百科事典なのですから、可能な限り文章は読みやすく、人を惹き付けるような書かれ方であるのが理想であるとは思います(Wikipedia:完璧な記事)。ですが同時に、「寧ろそのために百科事典の記事としての質を落としてしまうようでは本末転倒というもので、この場においては考慮するに足りない瑣末な要素」であるというすっく=ら=ぼんさんの主張ももっともですし、そもそも「お話の中の観点で解説すること」ことは必ずしも「その方が読む人にとっても面白い記事になる」ことには結びつくとは思えず、名乗程の名は無いさんの主張には「○○であるから××である」という因果関係が成立していないように思えます。--Kanohara 2010年7月26日 (月) 04:35 (UTC)

もう1度言いますが、今回の議論は、当ガイドラインが規定していることと本質的には関係が無いと思われます。だから、ガイドラインの変更について(その変更することの必要性も含め)議論すること自体が筋違い。
今回の議論を改めて読んで思うのは、本来、根拠とならない物を「現実世界の視点」というオブラートに包んで根拠としたのがそもそもの誤りではないか。本来ここで現実世界の視点という物を持ち出すなら、それは二次資料、公式の設定資料とか製作者のコメントとかそういう情報源について言うのであって、『現実世界の人間から見れば、「機動戦士ガンダムSEED」という作品に、「ガンダム」という名前が付いているロボットが居るのは普通』ということではない。これは端的に言えば独自研究あるいは不確かな情報です。ここで言う現実世界の視点ではない。
なので今回の議論に関するアドバイスとして、とにかくその主張を根拠とする出典、情報源をまずはしっかりきっちり提示する、それが一次とか二次とか関係なく。そこがまず大事なのではないかと思います。その辺りすっ飛ばして(あるいは軽視して)、架空世界の観点がどうとか、現実世界の観点がどうとかやるから混乱する、している。他の分野の記事と同様にあくまで情報源の信頼性について議論を進めるべきで、当ガイドラインを引き合いに出して正当性を主張するってのは誤りであると。
(追記)上記意見は、IP氏にとって厳しい物だけど、これは何も一次資料派に組みしているわけではないです。例えば、その、名乗程の名は無い氏の考えってのは問題であるし、それこそが当ガイドラインの範疇にある。すっく=ら=ぼん氏が言うように、別のサイトにでも行った方が良い。--EULE 2010年7月23日 (金) 13:57 (UTC)
EULEさんとKanoharaへ、今回まず最初に問題になっているのは「それが正式名称なのか、単なる略称なのか」ではなく、「ガンダムSEED世界では、現実の人間が『ガンダムタイプ』としている機体の名称には『ガンダム』と付かないという設定は存在するか・しないか」です。でもって「そういう設定が本当に存在するとしたら、その設定を重視して、ガンダムを外す」というのがステイシア・ボーダーさん達の主張です。そして私の主張は「仮にそういう設定が存在したとしても、その設定は飽く迄フィクション世界での話で、ここは現実世界だからフィクション世界の視点では書かない」というものです(この辺りは5月29日あたりのノート:ウィキプロジェクト ガンダムシリーズを読んでいただければ解ると思います)。ステイシア・ボーダーさん自身もいったんそれを御理解なさった上で、一度私の会話ページからプロジェクトページへ議論の場を移動しています。御覧の通り「一次資料と二次資料のバランスの取れている使用を維持してください」「現実世界の観点への厳格な固守があっても、フィクションに関して書く際には、常に情報源としてオリジナルのフィクション自体を使用することを含んでいます」といった記述の範疇のことではありません。
そして、『現実世界の人間から見れば、「機動戦士ガンダムSEED」という作品に、「ガンダム」という名前が付いているロボットが居るのは普通』という理屈を根拠としている訳でもなく、情報源は既に何度も明示されています。過去の議論を読んでいただければ見つかると思いますが、一応ここでも一例を出しますとこちらのアニメや、風の旅人さんが明示された物も紹介しておくと『機動戦士ガンダムSEED DESTINY ASTRAY 第2巻』等です。
それからステイシア・ボーダーさんとSyunrouさんへ、フィクション世界内の架空の命名経緯から推測するに、フィクション世界の中ではガンダムという名称のキャラクターは存在しないという類の主張は何度も聞きましたから、仮にその推測が設定として実際に存在した場合、どうしてフィクション世界の視点で書かなければならないか、そうする事に何か利点は有るのかをお答えください。そうでなければここに議論の場を移した意味がありません。--220.104.249.205 2010年7月29日 (木) 11:44 (UTC)
仮にそういう設定が存在したとしても、その設定は飽く迄フィクション世界での話で、ここは現実世界だからフィクション世界の視点では書かない
だから、そのフィクション世界の視点に対応する現実世界の視点をまず資料で規定しろというのが1つ(それは後述)。そして最初に言っているように、もしここで現実世界の視点を持ち出すとするならば、それは「作品自体ではガンダムとは付かないが、「機動戦士ガンダムSEED DESTINY ASTRAY 第2巻」にはガンダムと付いている」というような文章を付記して、その辺りの違いを読み手に明示することです。逆に言えば、その記述さえあれば、物語の世界の観点を優先してガンダムを付けない、あるいは、IP氏の主張を通して、ガンダムと付けようが、どっちでも構わないんです。それがここで言う現実世界の観点なんですよ。その上で、どちらを基準にするかはそれこそケースバイケースだから、作品に詳しい方々でやってください。ただ、このガイドラインでは、「こっちを優先しろ」という結論を引き出すことはできません。
それで「設定は存在するか・しないか」だというなら、それでも構いませんよ。私の言いたいことに変わりは無いです。まず優先すべきは、「設定は存在するか・しないか」を、資料を持って議論し、時に、資料の信頼度なども議論の範疇に入れて考えろってことですから。そういった当たり前のプロセスをすっ飛ばして、こっちは現実世界の観点(あるいはそういう資料)だから優先すべきだとか言っているのでそれを問題視しているんです。それは全く根拠にならない。あくまで資料自体の信頼性を測るのが先です。まず、それをしろと言ってるんです。IP氏だけじゃなくて、どっちにも。--EULE 2010年7月29日 (木) 12:47 (UTC)
言いたいことが全然伝わらない文章なのでもっと具体的に追記。
まず、大前提はその主張に対して根拠(出典)を提示することです。これは言うまでもなく、ウィキペディアに限らず、議論における当然の原理です。そして次にすべきなのは、その根拠(出典)が妥当な物か検証すること。例えばそれが一ファンの見解であるなら、それは根拠とは呼べない。しかし、原作者にも公認されているような有力なファンがいて、そういった人物の見解ならば、根拠となる(かもしれない)。あるいは、それは主張に対しての根拠にはならないとか。そういった根拠や情報源の信頼性や妥当性を測るのが重要なわけです。
で、今回の主張は3つある。だから3つに分ける。
  1. ガンダムと付かない設定が存在する
  2. 本当はガンダムと付いているが作中では何故か省略されている
  3. 現実世界の観点ではガンダムと付いている
2と3は一見同じようだが、全く別物だ。これは必要な根拠や情報源について考えてみれば分かる。今回の問題に関して1番良いのは、その辺の食い違いについて具体的に言及している公式の資料があることだ。が、無いなら、状況証拠で議論していくしかない。その場合、1の観点は難しくない。作品自体が証拠だ。2の観点もそんなには難しくない。作品本体以外で、そう描写されている物を提示すれば良いだけだ。実際に風の旅人氏が提示したものがそうだろう。ただ1の観点が立証されている以上は、これは可能性を示唆する物でしかない。ゆえに1の観点を優越することはない。優越するにはあくまで「省略する設定が存在する」ということを証明しなければならない。
しかし、3の観点の証明は難しい。例えば、二次資料以上でガンダムと付いている物を見つけたとしても、それは「ガンダムと付いている物もある」ということを証明するだけであって、「現実世界の観点ではガンダムと付いている」ということにはならない。あるいは有効な二次資料全てに「ガンダム」と付いているなら証明したことになるかもしれない。しかし、それは結局は消極的証拠であって、それに実際には作品本体と同じく「ガンダム」と付いてない物もあるだろう。だから証明にならない。証明手段を考えるとすれば、それこそ現実世界の視点を持つ視聴者・読者に対してアンケートするなどしてサンプルを取り、そこから結論を出すとか。もしそれで多数が、ガンダムと付くと考えているなら、これは現実世界の視点と認めても良いと思う。しかし、それは独自研究だ。ウィキペディアにおいて根拠にはならない。作品に対する研究や評論で「現実世界の観点では「ガンダム」と付く」とあれば、これは直接証拠となりえるが、果てしてあるのやら。
IP氏がそれをどうやって証明するのかは知らない。少なくとも今出されている情報源は、2の観点の根拠とはなりえるが、3の観点の根拠とはなりえない。--EULE 2010年7月29日 (木) 14:35 (UTC)
IPユーザー氏のいう「現実視点」とは「公式ページや書籍の期待紹介の見出しで『○○ガンダム』と記述してあるのだから、それが現実視点である」というようです。確かにそういう記述があることは認めます。
確かにIPユーザー氏のいう様に『機動戦士ガンダムSEED DESTINY ASTRAY』(コミック版)第2巻の124ページや第3巻の14・15ページで「インパルスガンダム」と登場人物が発言しています。「DESTINY 第1話」でアスランが奪われた3機を見て「"ガンダム"と呼んでいる描写」はあります。ですが、DESTINY小説版第1巻ですが、"○○ガンダム"と記載されているのは、冒頭の口絵での"FORCE IMPULCE GUNDAM"の記載と10ページの登場メカ解説の"インパルスガンダム"記載のみで、登場メカ解説ページで「他のガンダムタイプ」には"○○ガンダム"記載はありませんし、小説本文においても"○○ガンダム"との記載はありません。また小説版第4巻13ページでは登場メカ解説ページでの"インパルスガンダム"も"インパルス"表記になっています。
正直に言いますが、「ガンダムSEED世界『コズミック・イラ』では我々(現実の人間)が『ガンダムタイプ』としている機体の名称には『ガンダム』と付かない」設定が「○○」という文献の何ページにある、というのを出してください、といわれた場合、「私の今の手元には、そう明記してある文献はありません」と答えざるを得ません。
ただ、模型ムック「機動戦士ガンダムSEEDモデルVol.4 紅の炎編」の目次・作例見出しにおいては「すべてのガンダムタイプ」の機体の名称に「ガンダム」と付いていません。またメディアワークス刊「データコレクション 機動戦士ガンダムSEED 上・下巻」においては『ガンダムタイプ』の機体の見出しにはすべて「ガンダム」と付いていましたが、英表記ではどの機体にも「GUNDAM」と付いていませんでした。状況証拠といわざるを得ないかもしれませんが、「ガンダムSEED世界では、現実の人間が『ガンダムタイプ』としている機体の名称には『ガンダム』と付かないという設定は存在しない」のでしたら上で挙げた文献の様に「ガンダム」や「GUNDAM」と表記しない必要性はないと考えます。
上に挙げた文献は2004年の発行で、この時期に「『ガンダムタイプ』としている機体の名称には『ガンダム』と付かない設定」がそもそも存在しないならば、ここに挙げた文献でここまで「ガンダム」という単語を省略する必要はないはずです。省略と考えるIPユーザーさんの認識が誤っている、と思います。 --ステイシア・ボーダー 2010年7月30日 (金) 12:14 (UTC)
つまり「付く場合もあるし、付かない場合もある。そして、その区別が明言化された資料はない」ってことで良いですか?(まあ、それ前提に今まで書いてたけど)
この辺も改めて言いますが、もし「作品本編には△△と書かれているからこっちが正しんだ」みたいな作品それ自体を正典として扱い、その他の資料を一切無視する。そういった場合には、当ガイドラインを引き合いに出して、それは問題であるとしても良い。じゃあ、現実世界の視点は何かと言えば、それは今回の例で言うならまさに「付く場合もあるし、付かない場合もある。そして、その区別が明言化された資料はない」ってことです。それが現実世界からみた観点であって、「付く場合がある」ってことが現実世界の観点じゃあないのです。そして、現実世界の観点が必要というのは、つまり最初から言っているように「そういう違いを読み手に明示せよ」ということであって、ある見方に絶対的な優劣を付けることを認めるというわけじゃないと。
だから、どちらにも言いたいのは、どっちを正当な記述とするかではなくて、違いを明記することをまず考えてください。その上で、その次に来るのは面倒な名称問題ですが、まあ、ここで筆を置きます。--EULE 2010年7月30日 (金) 13:34 (UTC)
わかりましたEULEさん。もう一度ガンダムシリーズのプロジェクトページに議論の場を戻してみることにします。ご指摘ありがとうございました。(こちらに新しいセクションを作りました)
ステイシア・ボーダーさん。前にも言いましたが、それらの書籍の表記がどういう意図でそうなっているのかは、筆者本人に聞いてみなければ解らないとしか言えません。今では省略であるとも考えておりません。--221.190.107.130 2010年8月4日 (水) 16:49 (UTC)

只今Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 特撮#平成仮面ライダーシリーズにおける「仮面ライダー」の呼称についてで議論が行われておりまして、本来根拠とならない物を「現実世界の視点に即して」とかいうオブラードに包んで、誤った理論を展開している人がいます。どなたか正しい意見を出していただけませんか--名乗程の名は無い 2010年7月30日 (金) 05:21 (UTC)

それは「議論に参加した人は貴方以外全員が誤っている」という意味でよろしいですか?(全員というほど多くの方が現時点で参加していらっしゃるわけではないですが) こちらとしては、大勢の方が議論に参加してくださるのは望むところです。--Golza 2010年7月30日 (金) 15:14 (UTC)

In-universeタグを輸入しては? 編集

英語版だとこのガイドラインを推奨するタグとしてen:Template:In-universeがあるので日本語版にも輸入してみてはどうでしょうか?--アッー! 2011年6月26日 (日) 10:51 (UTC)

要改訳 編集

あまり別の議論のついでのような仕方でテンプレートを貼りたくありませんでしたが、非常に誤訳が多い点、また日本語として意味をなしていない文章が多い点をWikipedia‐ノート:あらすじの書き方で指摘させていただきました[1]。枝葉末節の誤訳ではなく、文章のそもそもの意図が理解されずに書かれている部分が多いです。私もすぐに精査してぱっと改訳できるほどの語学力はありませんので、他の方の協力を仰ぐために貼らせていただきます。--頭痛 (会話) 2012年3月2日 (金) 12:05 (UTC)

当ページの問題点を指摘するのなら、このノートページで行うべきであり、よそのノートへ議論を拡散させるような行為は慎まれるようにお願いいたします。わざわざそのような行為をする必要性があるとは思えません。--Web comic (会話) 2012年3月2日 (金) 12:14 (UTC)
おっしゃっていることがおかしいと思います。「よそのノート」で発生した話が「当ページの問題点」であったためこのページで指摘しなおした、というだけのことですから。「わざわざそのような行為をする必要性があるとは思えません」とはどういう意味でおっしゃっているのですか。--頭痛 (会話) 2012年3月2日 (金) 12:16 (UTC)

問題点の指摘 編集

では失礼しまして、Wikipedia‐ノート:あらすじの書き方を読まれた方は繰り返しになりますが問題点の説明をいたします。まず、本文の「文脈の提供」という節のサブセクション「プロットの概要」というところを見てください。「プロットとは、作品内の出来事を時系列ごとに並べるストーリーとは違い、出来事を再構成してまとめたもので、・・・」といった説明があります。ここで何故「プロット」の説明などが入っているのか前から疑問だったのですが、英語版を見てみれば要するにいわゆる「あらすじ」のことを「plot summary」と言い表しているものを、専門的な説明をしているプロットの説明から杓子定規に解釈してしまって「プロットはストーリーとは違う」といった場違いな説明が入ってしまっているわけです。英語版のガイドラインの同じ節にはen:Wikipedia:How to write a plot summaryへのリンクがありますが、こちらには「plot summaryは作品内の出来事を順序どおり説明しても再構成してもかまわない」と書かれています。要するに「plot summary」は(狭義の)「プロット」でも簡略化された「ストーリー」でもいいと言っているわけで、この場合「plot summary」の「plot」は「ストーリーとは違い・・・」といったプロット (物語)で解説している文芸批評などの狭い概念ではなく、「物語の大筋」という程度のごく日常的な意味合いで使われていることは明らかです。当然英語版のen:Wikipedia:Manual of Style/Writing about fictionにはplotとstoryの違いなどのような説明はされていません。

これだけであればその部分を直せばそれで済むのですが、英語版と対象させながら現在のガイドラインを読んでみますと誤訳だらけであることがわかります。例えば「文脈の提供」という節の冒頭ですが、

一般的に創作した文脈と原書(オリジナルフィクション)の文脈という二つの可能性のものとみなされています。オリジナルのフィクションそのものが記事の主題であるとき、フィクション世界の外部にある情報は全て、そのオリジナルのフィクション(例えば、プロットの概要を含む)の文脈に設定される必要があります。記事の関心、例えばオリジナルのフィクションについての文書であるときに、一次資料の材料の内容について議論することは必ずしも重要であるというわけではないでしょう。

意味が通じるでしょうか。原文を見ますと

There are generally two possible issues to be considered: The context of the production and the context of the original fiction. Whenever the original fiction itself is the subject of the article, all out-of-universe information needs to be set in the context of that original fiction (e.g., by including a plot summary). When the article concerns, e.g., a documentary about that original fiction, then it would not necessarily be important to discuss the content of the original source material.

です。The context of the productionを「創作した文脈」とはどう考えても訳せません。やや意訳気味に試訳してみますが、最初の一文は

一般に考慮されるべき二つの論点が考えられます。製作側の文脈と作品側の文脈です。フィクション作品それ自体が記事の主題となっている場合であれば、物語世界外の情報は常に(例えば作品の「あらすじ」を記事に含めたりすることによって)その作品の側の文脈に位置づけらている必要があります。

と大体こんな感じになるのでは。これもあまり自信があるわけではありませんが、少なくとも現在の文面ではほとんど意味が通じませんし、日本語としても不自然です。訳は省きますが、後半の部分も明らかに構文がわかっていません。「オリジナルのフィクションについての文書」というのも「そのフィクション作品についてのドキュメンタリー」くらいでしょう。つづく「プロットの概要」にも明らかな誤訳が見られます(たとえば「「第1巻より」「第2章より」」という部分は「「第一巻では・・・」「第二章では・・・」」というふうにしなければ意味が通じないでしょう)。 全文を精査したわけではありませんが、同じ方が訳されていますので全文に渡ってこのような調子になっていると思います。「フィクションの記事をフィクション内部の視点で語らない」という最も肝心な点は読み取れるのであまり気にせず使われていたのでしょうが、本文書はガイドラインに必要な精度に達していないと思われます。--頭痛会話2012年3月2日 (金) 17:01 (UTC)

  • このガイドラインを利用することは無かったのでしっかり読んだことは無かったのですが、いま読み込んでみますと内容がさっぱりわからないですね。というより、英語版のガイドラインが「ある小説や映画などといった"物語"についての記事を作成するばあいには検証可能性が重要であり、またウィキペディアは荒筋や登場人物のプロットなどといった情報のみを蒐集する場所ではなく、その作品の作成された経緯や出版履歴などといった【現実の世界での話題】を軸にすえて記述すべきである」ということが記述されているのに、日本語版ではまったく異質なガイドライン(「物語の要約記事や荒筋記事を書くさいのマナー」みたいなもの)になってしまっていますね。--大和屋敷会話) 2012年3月4日 (日) 04:38 (UTC)尤も日本語版Wikipediaの原状は、この主旨から明確に逸脱した記事だらけであり、現実の日本語版記事の実情にも照らし合わせないとだめでしょうけれども。たとえば記事新世紀エヴァンゲリオンについて重要なのは3.概要以降であり、本来2.作品設定自体は非百科事典的記述であり削除してもよい記述である。しかし現実の編集感覚としてはこの程度の要約であれば、まあ間違いではなかろうしWikipedia読者に対する許容される・現実の百科事典でもありがちなサービスといえるだろう、という編集感覚が基礎にあるべきでしょう。一方で輪るピングドラムについては、本来4.用語までは無用の記述であり削除されてしかるべきです(そもそもwikipedia編集者が「作品」から直接要約したり解説したりしており独自研究ですらある)。まずこういった編集感覚を基礎においているかどうかで編集方針(ガイドライン)はまったく異なるものになります。webcomicさんは「物語の要約記事」容認派だと思うのですが、当ガイドラインWP:WAFを「物語の要約記事容認」の観点から積極的に起筆してしまっている場所があるのじゃないでしょうか。--大和屋敷会話2012年3月4日 (日) 04:58 (UTC)
    • >「物語の要約記事や荒筋記事を書くさいのマナー」みたいなもの
      そうであるとすればたぶん、「フィクションの出来事を現実のそれとろくに区別しないで書かれる傾向」に対する対策のために日本語版が作られた結果、また訳が意を伝えられていないこともあって、より大局的に望ましい記事状態を示している英語版の意図が狭められている、というようなことかもしれません(あまり作成の経緯などは詳しく知りませんが)。現在の文面では当ガイドラインが指針としてまともに執筆者に参照されていること自体が疑問です。おそらく現状では「フィクションの出来事を現実の出来事のように書く編集」に対する注意の根拠として引き合いに出すのに使われている、というに留まっているのではないかと思われます。(『ピングドラム』のその部分は「用語」というより編集者が恣意的に抜き出した作品内のトピック解説のようになっていますね。しかしエヴァンゲリオンの記事はなぜ「概要」が記事の途中にあるのか・・・・)--頭痛会話2012年3月4日 (日) 11:49 (UTC)
プロットとストーリーについては私が原因だと思うので1つ。日本語においては「プロット」は一般的ではないから、一般に日本語でも使われているストーリーとの違いにも言及した方が良いと言ったことが反映された結果です。もちろん文芸に携わる人なら、一々説明をいれなくてもプロットの意味なんかわかるでしょうけど、そういう人ばかりが編集しているわけではないので(プロットの意味も知らない奴がフィクション記事に触るなというのは無しで)。ただし、前にWikipedia‐ノート:ネタバレでも述べているように、実際に編集するにあたって日本語におけるプロットとストーリーの明確な違いは厳格に気にする必要はないのですし、本家、英語版でもそうなら、それに合わせて改訳するのも良いと思います。--EULE会話2012年3月5日 (月) 18:26 (UTC)
明らかに「あらすじ」と訳せば済むところを「プロット」という風にそのまま訳してしまったのがそもそもの問題でしょう。現在入っているプロットとストーリーの説明は「あらすじに関する解説」としては何の必然性もありませんし、むしろ不必要な情報を与えて読者を混乱させることにしかなっていないと思いますから、この解説は入れなくてもいいというより積極的に避けるべきです。--頭痛会話2012年3月5日 (月) 23:11 (UTC)
  • plotというのはこの文脈では「物語の設定」というのがいちばん近い訳出でしょうね。plotもoutlineも似た様な場面で使いますので、緻密に使い分けたいのならば、それがはっきりわかる用語を選択する必要があります。日本語でも「あらまし」と言われれば荒筋のことなのか設定のことなのかよく分からなくなるのと同じことです。--大和屋敷会話2012年3月6日 (火) 06:40 (UTC)
    • 「物語の設定」と言ってしまうとsettingのほうに意味が近づき過ぎてしまいます。#Primary informationのところでも「プロットそのもの」と背景設定的なこととは分けられていますし。ニュアンス的にもplot/plot summariesは「あらすじ」がもっとも近いと思います。--頭痛会話2012年3月6日 (火) 12:26 (UTC)
  • ええっと。ちょっと何にこだわってらっしゃるのかよく分からなくなってきたのですが。plotという語を端的に一語で日本語訳しなければならないわけではないのですから、plotをどういう場面でどういう語を当てるかは文脈に従って調整すればいいんじゃないでしょうか。部分部分だけを断片的に切り出してきて、こっちの文脈でplotとはこういう意味だから、あっちの文脈でのplotもこう記述すべきだ、というような議論をしてるつもりは無いのでして。plotとstoryは「違うものだというのは専門家の間では常識」などという根拠不明の前提から議論しているからおかしな混乱が生じているんじゃないのだろうか。plotはbasic planの意味でも使用するしmain storyの意味でも使用するのですから、「この語はこうに決まってる、間違った使い方をするな」という指摘そのものが間違っているとしか言いようが無いのですが。--大和屋敷会話2012年3月6日 (火) 19:35 (UTC)
    • や、すいません。文脈にしたがって調整するべきというのも「根拠不明の前提」というのもまったくその通りで全面的に同意いたします。先ほど「この文脈では」と言われていたのは「プロットの概要」という節の説明の話だと思いますが、要はそこのところで「物語の設定」と訳してしまうと、もっぱらキャラクターの生い立ちとか舞台背景とか用語とかいったもののことだけを指しているのだというような誤解を与えかねないのでまずい、ということを言いたかっただけです。--頭痛会話2012年3月6日 (火) 19:55 (UTC)

改訳しました 編集

自分で改訳しました。体調悪いときにつくったのでところどころ変かもしれませんが、あとで自分でも見直します。原文を残しておいたのでチェックをお願いします。問題なければ1週間ほどで原文は除去します。なお日本語版の実情に合わないところを飛ばしたり勝手に説明を補足したりした部分もあります。--頭痛会話2012年3月28日 (水) 20:11 (UTC)

ところでこの文書名ですが、「スタイルマニュアル (フィクションの記述)」だと、もっぱら「物語や架空の事物の紹介の仕方」を扱っているのだと勘違いされるおそれがあり適切ではないと思われます。「フィクションに関連する記述」が正確でしょうが、つづめてWikipedia:スタイルマニュアル (フィクション関連)あたりに改名するのがよいのではないかと思われますが、いかがでしょうか。--頭痛会話2012年3月28日 (水) 20:19 (UTC)

  質問 訳文を拝見したのですが質問が。頭痛さんは fan magazineを「公式ファンブック」と訳されましたが、著者に対するインタビュー記事が資料として認められているとする前後の文脈から、このfan magazineはFanzineすなわち同人誌のことではないかという印象を受けています。私は英語がかなり不得手なのですが、該当部分は「同人誌など、あるフィクション作品に関する個人出版物」といった意味合いなのではないでしょうか? 例えばアニメ記事においてアニメ雑誌や公式ビジュアルファンブックを、その雑誌や書籍自身についての記事にしか使えないとなると、商業的な娯楽作品に用いることができる資料というのは相当に限定されてしまうように思われ、訳語の妥当性は重要だと思うのですが、どうでしょうか?--Kanohara会話2012年3月29日 (木) 04:30 (UTC)
en:fan magazineには、「その製作と頒布における商業的・利益的性格においてfanzineとは区別される」と書かれています。もっともその後ではfanzineの意味でfan magazineが使われることもあるとも書かれているようですが、この文書の場合は「Publications affiliated with a particular work of fiction」(特定のフィクション作品と提携して出された出版物)の例として挙げられていますからやはりfanzine(同人誌)ではないと思われます。海外の文化はよくわからないので向こうでfan magazineと言われているものの実態は私にはよくわからないのですが、この項目の説明を見る限りではやはり日本で言えば製作者が深く関わって出される「公式ファンブック」のような「ファン向けのムック」みたいなものが該当していると思われます。
しかし別に「公式ファンブック」に該当すると言っても情報源として使用できないということを意味するわけではありません。「二次資料としては適切ではない」というだけであると思います。ですから例えば作品の人気や評価を説明するためにそのような「ファンブック」の中の文章を引用して傍証としたりする、というのは適切ではないということでしょう。「公式ファンブック」に掲載されている作品の設定の解説だとか製作背景だとか作者のインタビューだとかそういったものを使用することはまったく問題ないでしょうが、そうした場合は「作品の外部に位置する一次資料に基づいた二次情報」という位置付けになるはずです。--頭痛会話2012年3月29日 (木) 10:35 (UTC)
  コメント ううむ、Googleの画像検索で"fan magazine"を検索しても、「公式ファンブック」と聞いて思い浮かべるような画像が出てこないので、ちと疑問を感じています。en-1の語学力ゆえ的外れな指摘だとは思うのですが、particularには「個人の」という意味もあるようなので、同人誌のことではないかと感じました。
しかし、「そのような出版物はファンブックそのものに関する記事、あるいは別の関連するトピックに関する記事においては、適切な一次ないし二次資料となりうるかもしれません」というのは、例えば「機動戦士ガンダム 公式百科事典 GUNDAM OFFICIALS」のような記事では該当書籍を一次資料として用いても良いけれど、「機動戦士ガンダム」の記事に同書籍を使うのは不可、という意味合いにも受け取れます。欧米で言う"fan magazine"の内容がどのようなものであるのかは私にもわかりかねますが、いわゆるビジュアルファンブックや公式設定資料集とは違うものではないかという疑念も感じたのですが、どうなのでしょうか?--Kanohara会話2012年3月29日 (木) 11:20 (UTC)
そのparticularがかかっているのは「フィクション作品」(work of fiction)のほうですから、仮に「個人の」と訳したとしても「“個人のフィクション作品”に提携して出された出版物」にしかなりません。
適当に探してみるとMarvel Visionというfan magazineが見つかりました。インタビュー、エッセイ、商品カタログなどが含まれるようです[2]。出版元はMarvelです。またアメリカのamazon.comで「Comics & Graphic Novels」から「fan magazine」を検索すると『NARUTO』の公式キャラクターブックが最初に来ます[3]。先述したように同人誌や「ファンクラブの会誌」のようなものもfan magazineという場合もあるようですが。
後段で「適切な一次ないし二次資料となる場合がある」となっていたとしても前段で「一次資料として問題がある」と言っているわけではありませんから、「情報源としてそもそも使えない」と解釈することはないと思いますし「使えない」と考えるべき合理性はまったくないと思います。--頭痛会話2012年3月29日 (木) 12:06 (UTC)
(追記)Wikipedia:信頼できる情報源のほうに「独立した二次資料」という言い方があるので、むしろ「充分に独立していない二次資料」というふうに考えるべきなのかもしれません。資料の性質(インタビューなのかエッセイなのかドキュメントなのか)にもよるかもしれませんが。--頭痛会話2012年3月29日 (木) 12:16 (UTC)
  コメント 頭痛さんの見解はわかりましたが、いずれにせよ現在の文面だと「アニメ雑誌や公式ビジュアルファンブックなどの商業出版物は、そのフィクションの出典としては一切使えない」という意味にも読めてしまうので、表現の修正が必要だと考えます。例えば『月刊ニュータイプ』や『アニメージュ』といったアニメ雑誌は、アニメなどのフィクション作品に関して、作品ファンが購読することを当て込んで出版されたという意味で「商業的に結びついて出された出版物」ですが、これらの雑誌記事のライターはアニメの原作者やスタッフではないので一次資料ではなく二次情報ということになり、「適切な二次資料ではない」という理由で、掲示板やWikiサイトの書き込みと同じく出典に用いることができない……といった意味に解釈される可能性があると考えます。杞憂ならば良いのですが、ウィキペディアの編集者の中にはたまに、書誌の情報よりも自己流の作品解釈のほうが正しく、雑誌記事は不勉強なライターが仕事で嫌々書いているものだから信頼できない情報源である、という考えの方や、「独自研究は載せない」という方針を「ウィキペディアの編者者であろうとプロのライターや評論家であろうと、個人の見解や感想は載せてはいけない」という方針だと誤解しているような方も散見されますので、あまり曖昧な解釈を許すような文面では問題があると考えます。--Kanohara会話2012年3月29日 (木) 15:23 (UTC)
公式ガイドブックあるいはそれに類するもの(公式サイトのインタビューとか)の扱いについては、私論か子記事という形でこのガイドラインに付帯させるのが良いんじゃないかなと思ってます。この議論は改定がきっかけですが、もともと現状の日本語版においては公式ガイドブックの扱いは非常に曖昧なところにあると思います。完全に無視するのは論外としても、逆に聖典扱いする者もいるので、その辺りの指針はあった方がいいと(作者監修と銘を打っていようが、明らかにおかしな記述があったりしますし)。--EULE会話2012年3月29日 (木) 15:51 (UTC)
  コメント 公式サイトの扱いについては、「Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源:公式サイト」の扱いに含まれると考えます。公式ファンブックや公式サイトは、それが原作者自身によって執筆・運営されているのであれば「Wikipedia:信頼できる情報源#公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」に準じるでしょう。公式ではないファンブック(謎本など)の扱いは第三者による有意な言及のある二次資料なのか、それとも原作者の監修を経ていない憶測を書き散らした信頼できない情報源なのか……という解釈は個人的にも悩むところです。
ところでEULEさんの言う「聖典扱い」というのは、どういった状況のことでしょうか?--Kanohara会話2012年3月29日 (木) 17:27 (UTC)
過去に自分が関わったものなら、まず思いつくのはノート:DARKER THAN BLACK -流星の双子-#契約者の能力の記述は、公式サイト準拠が望ましいのではですね。これは情報源としては公式サイトですが、主張者の理屈は仮に公式ガイドブックでも同じですし。ここで言っているように、たとえ作者監修と銘を打っていても、案外、1次資料(作品自体)と比べると違っていたりすることは多い。公式ガイドブックはどのような経緯で作られているかは、私は出版関係者じゃないから知らないけれども、(多くの場合)別に作者本人が作っているわけじゃないのは確実だし、中には作った奴は作品をあまり読んでねえなって思うことさえある。そういった食い違いがあった時に、「公式ガイドブックに書いてあったんだから正しい」みたいなのが、何度か遭遇しているので。印象が残ってるのは、鋼の錬金術師やとある魔術の禁書目録かな。作者自身が述べての勘違いってなら、まだ構わないんですが。
だから、「出典にするなとは言わないが、多少、眉に唾をつけてみるべきだ」と思ってますし、言ってます。--EULE会話2012年3月30日 (金) 02:34 (UTC)
(追記)過去にあった#ガイドライン変更提案(現実世界の観点) も、この辺りが問われましたし。--EULE会話2012年3月30日 (金) 02:35 (UTC)

『なお「公式ファンブック」のように、あるフィクション作品に商業的に結びついて出された出版物は、対象から十分に独立した二次資料ではありません。こうした資料は、特に作品の評価などの、中立性が問われやすい事柄に関して参照する際には慎重に取り扱ってください。』

くらいでどうでしょうか。公式ガイドブックについて別の文書がいるかという事についてはそうした議論に参加したことがないのでコメントできません。--頭痛会話2012年3月29日 (木) 19:01 (UTC)

  コメント EULEさんの件について。本編の描写が演出ミスや誤字脱字、あるいはプログラムのバグであるといった場合には、設定の方が正しくて本編の方が不正確であるという状況も生まれるでしょうから、一概には言えないところだろうと思います。ウィキペディアでは真実か否かよりも検証可能か否かの方が重要であるという立場からは、解釈が分かれる部分についてはやや疑わしい内容であっても公式ガイドブックや二次資料を優先したほうがよい場合もあるでしょうし、中立的な観点からは、作品本編の描写と他の資料の記述が矛盾しているがどちらももっともらしい場合、両論併記ということになろうと思います。
頭痛さんへ。現在の文面よりは改善されたと思います。ですがやはり私としては、それが古典作品の解説書のような対象と無関係な信頼できる情報源であっても、購入者から対価を得ている商業出版物である以上は「フィクション作品に商業的に結びついて出された出版物」である、などと解釈されてしまうのではないか、という一抹の不安を感じています。原文に使われているaffiliated(アフィリエイト)という馴染み深い単語のニュアンスがうまく伝えられれば良いのですが……。「Wikipedia:特筆性」では「例えば自己宣伝や広告、記事主題によって自主公表されたもの、自叙伝、プレスリリース等、主題と何かしらの提携・協力関係にある情報源」という表現を用いているので、
『なお「公式ファンブック」のように、あるフィクション作品自体と商業的な提携・協力関係の元で出された出版物は、対象から十分に独立した二次資料ではありません。』
のような文面ではどうでしょうか?--Kanohara会話2012年3月31日 (土) 17:54 (UTC)
問題ないと思います。--頭痛会話2012年3月31日 (土) 20:27 (UTC)
そこは理解してます。前(ガイドライン変更提案(現実世界の観点))にも言ったように、適切な情報源によって食い違いがある場合、まずすべきなのは食い違いを明示することであって、どっちが正しいかをウィキペディアとして決めることではない。設定資料集にはあるけど、その後、本編では改編されたというケースならそれはそれで良いんです。ただ、そもそも今回の論点にあるように公式ガイドブックとは、そこまで確度の高いものじゃない。設定資料公開とかインタビューとか、作者直接の解説とか、そういう確実性が担保されている、あるいはそういった部分なら、それは資料としては信頼できる情報源だけども。
はっきり言えば、ガイドブックの解説というのは、読者レベルの観点でしかない編集者が、出版社の売上げのために出している、くらい割り割いて読むべき類のものだってことです。--EULE会話2012年4月1日 (日) 00:09 (UTC)
  報告 勝手ながら、ひとまず修正案については早速記事に反映させてみました。頭痛さんの2012年3月29日 (木) 19:01 (UTC) での文案の一部は、原文になかったので訳注という形にしましたが、原文を取り除く際には本文に組み込んでもよいと考えます。
EULEさんの、公式ガイドブックの信頼性についての意見について。過去に3度ほど「どこぞのライターが書いた解釈より、自分の解釈のほうが正しい、公式ガイドブックの記述など載せるに値しない」という主張の方と関わったことがあります。まあ確かに普通の読者レベルの観点しか持っていないライターが少なくないのは確かではあるものの、それ以前に全てのウィキペディア編集者は普通の読者でしかないわけですから、対立の一方が出典による裏付けのないウィキペディア編集者個人の解釈でしかない場合は、ウィキペディアの編集者側が折れるべきかと考えます。誰が見ても単純なミスであると思われるものについては、常識を働かせて良いとも思いますけれど。--Kanohara会話2012年4月2日 (月) 15:32 (UTC)
反映ありがとうございます。良くなっていると思います。--頭痛会話2012年4月4日 (水) 22:07 (UTC)

改訳後の未解決部 編集

  • 「物語世界内の観点に立った記述の問題点」
二文めが主語がありません。ために文末が一瞬命令形に読めて、こうしなさいというのかと迷いが生じる。初めに、「それは」を入れるか、原文通り「、」でつなげるかでしょう。
  • その具体例の最初
「Disregarding all or most aspects of a work of fiction as a creative endeavour 創作の成果としての側面をほぼあるいは完全に無視すること。 」
わかりにくい。これだと、創作物の現実的な売り上げだとか評価を書き忘れる、ということが一番該当しそうになる。それは別に上に書かれているし、書き忘れなければいいだけのはなし。
・直訳すると、「創造的な努力としてのフィクション作品の顔(見え方)(複)を最大かすべて無視する。」
・Disregard。この無視とは無頓着という使い方があるので、つい見なくなる、というのに近い。
・aspectsは中学辞書では第一に外観、第二に顔つき、第三に局面や見方(複数形の例あり)、第四に向きや側、ということで、その作品が見る視点によってどのような姿に見えるかということです。Dis--からworkまで直接翻訳にかけると、 aspects =様相となる。
・辞書にはcreativeは、「創作物の」でも「創作された」でもなく、形容詞で、創造的、独創的、とあります。
・a creative endeavourとは創作の成果ではなく、創造的な努力。言い換えると、「創り上げようとすることによる」とも置き換えられるもの。
・足し合わせると、創造的な努力として、その作品の外観(複)が見える、ということ。つまりその外観とは特定の決定的な形を持っていないものだと考えられます。
そして、現実の事実かのような書き方は、そのような意味での外観を無視することになる、というのが文脈の意味。
つまり、あたかも事実かのように書くことで、(受け取り方という)創造的な努力としての作品の見え方の姿(複数)を見なくなってしまうこと。
または、事実かのように書くことで、(表現という)創造的な努力としての作品の表れた姿を見なくなってしまうこと。
・また、構文を見直して、aspectsでいったん切ってみると、「事実かのように書くことで、それ以外の他の一切の外観を無視している。その外観とは創造的な努力で生じている外観である。」、ともとれます。
・まとめると、「(事実のように書くことで、) 他の見え方をすべてかほとんど見えなくさせてしまうこと、つまりフィクション作品が創造的な努力で現れる姿(複数形)を隠してしまうこと」だと思われます。
・このあと、原文の履歴の始まりを調べたら、10:38, 10 July 2007 に初書込。 disregarding all or most aspects of the work of fiction 「as such」→「フィクション」へリンク 、となっていて、つまり「(現実の事実かのように書くことで)フィクション作品のフィクションとしての姿や様相(複数形)を見えなくしてしまう」ということ。その詳細はフィクション記事へと丸投げしてあり、たぶん微妙な意味合い全てを含んでいるということでしょう。
  • これと足して文案を作ると、「(事実のように書くことで、) 他の見え方をすべてかほとんど見えなくさせてしまうこと、つまり作品がフィクションとして持ちうるさまざまな別の姿や様相を隠してしまうこと」
これを本文にする際には、英語文に現文と初案文とを併記するべきでしょう。

--IP118会話2012年3月30日 (金) 14:49 (UTC)

日本語は主語がないからといって主体が不明確になるような言語ではありません。二文目は命令形には読めません。
「創作の成果としての側面」はたしかに分かりにくいので「作品の創作努力の成果としての側面」とでもしておきます。ウィキペディアの文書では英語と日本語を併記したりはしません。
意見を述べたいときには結論だけ簡潔に述べてください。考えの道筋を一から書く必要はありません。--頭痛会話2012年3月30日 (金) 14:58 (UTC)
誤字訂正で書き込んだら驚いた。なんか、感情的ですね。私の文はおかしくなく、よりわかりやすいはず。
また、
>意見を述べたいときには結論だけ簡潔に述べてください。考えの道筋を一から書く必要はありません。
とは根本的に間違っています。あなたは人の調査を無視して、自分が受け入れてやるかどうかだ、という高慢な態度で、時間的に中身を読まずに、わけのわからぬ文案のままにしている。
--IP118会話2012年3月30日 (金) 15:03 (UTC)
あなたの文章はおかしいし非常に分かりづらいです。文章に関しては他の方からも注意を受けているはずです。他人にしっかり読んで欲しいのであれば要点を頭の中でまとめてから簡潔に書いてください。頭でまとめづらかったら自分の利用者ページなどを使用して下書きをし、推敲したうえで発言することを勧めます。今のところ上で述べた以上の修正をするつもりはありません。--頭痛会話2012年3月30日 (金) 15:12 (UTC)
矛盾ですね。始めにあなたは、読めないとではなく、理由を書くな結論は受け入れない、という答えを返したのですよ。それに私はきっちり全て詳細に書いています。文案を書いたあなたは質問を返す責任がある。どこがわからないとか。わずか数分もしないで無視したいような書込を返すのは、ただの感情にしか見えません。
あるいは、自分の変える以前の形に戻すから、そこの責任は知らない、ということなのでしょうか。
そうでないなら、嫌な結論は知りたくない、ということだと思います。
--IP118会話2012年3月30日 (金) 15:23 (UTC)
申し訳ないが、文法的に何を言っているのかわかりません。--頭痛会話2012年3月30日 (金) 15:30 (UTC)
  • IP118さんは対話のさいも推敲して頂くのが良いかと思います。また、もしIP118さんが日本語を母語とされていない方でしたなら、他の日本語編集者を説得する種類の対話はおそらく不可能だとおもいますので、指摘したい論点のみ提示される方法の方がよいと思います。さて、話しは変わりますが頭痛さんによる全面改訂おつかれさまでした。日本語話者の方は「英語やドイツ語など海外の言語で記述されている文書は無謬であり、議論の余地なく正しいものであり価値があるもの」と安直に信頼してしまう学習態度を一般的にもっているものでして、Wikipedia英語版のガイドラインに記述されている表現の細部までも逐一適切に日本語に翻訳しなければそれは【間違い】である、などとと思い勝ちです。英語版Wikipediaに参加している編集者もしょせん「どこの誰ともわからない」「おそらくはなんでもない人々」にすぎませんので過剰に信頼しすぎないこともWikipediaに参加するさいには必要な編集態度だと思います。大枠と重要な観点(これは英語版wikipediaノートで多数の編集者が経験と智恵を持ち寄った成果物であります)をとらえて日本語に導入すれば細部の表現や詳細については日本語wikipediaのノートで議論しながら、日本語として通じやすい表現をえらびながらブラッシュアップしてゆけば宜しいかと考えます。いずれにせよお手数ご足労さまでした。--大和屋敷会話2012年3月30日 (金) 17:12 (UTC)

前回の余分な発言をカットして、再考しました。
改良
現在ある訳をもとにしたせいで、始まりが間違えていましたね。
aspects of a work of fiction とは、「作品の側面(または様相(複数))」という一つの単語としてでなく、一つ一つの語をそのまま全文とつなげてみるべきだった。
as は意味上どの単語につながっているのか決めない方がいい。なので「しての」でなく「してある」とします。
work of fiction は、小説だけなら fictionだけでいいのだし、文脈上からも架空世界をもった作品であり、fictionとは作り事の意味の方ですね。

  • aspects of a work of fiction as a creative endeavour 一つの創造的な努力としてある虚構の1作品の諸様相、が直訳的ですね。

どちらにしても、文の中心はaspects of a work で、一つの作品に複数の様相がある、ということ。creative 云々はその説明。
だから要点は、架空世界は創作されたものであり、様相や外観は一つでなく、その多くを見なくさせる、ということです。これが伝わらないといけない。

私は意見を要望する文体を書いているのではなく概念の組み立てを説明しています。辞書を引いて考えた手順を説明するように書いています。この手順を跳ばすと結論の応酬になってしまうので。 --IP118会話2012年4月1日 (日) 03:13 (UTC)

「原作との違い」などの節 編集

テレビドラマ化された漫画などの記事で原作と翻案との間の設定上・物語上の差異を箇条書きにした節をときどき見かけるように思いますが、百科事典的な記述ではないと思います。「トリビア」の節に「雑多な内容の箇条書き」への注意に加えるかたちで、こうした節をつくらず、差異の重要な部分は基本的に本文で記述し瑣末なものは省略すべきこと、ただしそうした差異に関する専門家の批評・分析、検証可能な世評、製作者の意図などを文脈のあるまとまった文章のかたちで執筆できるのであれば節をもうけること自体には問題ないこと、といったことを加筆してもよいでしょうか。歴史小説などの「史実との違い」みたいなものも含めたほうが良いと思います。--頭痛会話2012年3月31日 (土) 20:40 (UTC)

  コメント これは難しい問題だと感じています。例えばある登場人物について、
原作ではその最期について、生死が曖昧な描写になっている。アニメ版では死んだという解釈になっており、遺体が火葬される場面がはっきりと描かれた。ドラマ版では実は生きていたという解釈になっており、最終回に再登場して主人公の危機を救った。
といった状況があったと仮定して、そのように書けば「比較を行なっているから独自研究だ」と言い出す人がいるし、一方の翻案作品に沿って「死んだ」「実は生きていた」と書けば中立的な観点に反します。もちろん「死んだと思われていて葬式が営まれたが実は生きており、物語の結末では主人公の危機を救った」などといった形で書けば、発表済みの情報の合成になりますが、いずれかの翻案作品にしか触れていない複数の編集者たちが、自分の記憶を頼りに思い思いに加筆を繰り返していった結果として、そうした記事が出来上がることがあります。あまり出来の良くなかったコミカライズ作品など、原作の知名度に比して翻案作品がそれほどヒットしなかった場合は、翻案作品での扱いなどは無視してよいと思うのですが、翻案作品がヒットした場合や、ヒットとまではいかなくとも無視できない知名度がある場合には、悩ましいところです。
内容が原作と翻案でまったく別物というくらいに違えば、記事を分割したり、あらすじ節や登場人物節を翻案作品別に分けて作ったりする手もあります。ですが大筋では同じ内容を描いているけれど、あらすじや人物について説明しようとすると細部の違いを意識せざるを得なくなるような場合、少なくとも記事中で説明している内容の補足事項として、変更点を箇条書きにした方が良いのではないかと思うこともあります。個人的にも、どうしたものかと悩むところです。--Kanohara会話2012年4月2日 (月) 16:11 (UTC)
具体的に「これは箇条書きにするより仕方ないのではないか」というようなケース(記事)はありますか? --頭痛会話2012年4月2日 (月) 21:39 (UTC)
  コメント 私は記事の執筆には参加していないのですが、箇条書きで原作との差異を列挙することが独自研究であるか否かで意見が分かれた例としては、「医龍-Team Medical Dragon-#漫画版からの変更点」の節を巡って、ノート:医龍-Team Medical Dragon-/過去ログ1でたびたび議論が交わされていました。過去ログ1の最後の議論には私も少しだけ参加しています。作品の内容自体はあまり知らないので、箇条書きという形式が相応しいかどうかはわかりかねます。
文章量がさほど多くない場合は箇条書きのほうが優れている側面もあると思うのですが、雑多な内容が増えてくるとそうでもないかも知れません。自分が執筆に参加している記事だと、「リング (映画)#原作との相違点」の記事は、執筆に関わった当時既に箇条書き形式になっていたため、その後の加筆にも特に箇条書きにすることに疑問を感じていなかったのですが、今見ると、本文に組み込んだほうが良いのではないかという気もしてきました。--Kanohara会話2012年4月3日 (火) 14:20 (UTC)
リング (映画)では細かく出典も付けられていますが、やはり適切ではないと思います。箇条書きというのは「データ・事項の羅列」であって全体に文脈がありません。左の例でも重要な変更とそうでないものとが同列に扱われており、解説記事として未完成であるという印象を強くうけます。差異を記述することを禁じるとまではいきませんが、事項の箇条書きには注意を促すべきです。--頭痛会話2012年4月4日 (水) 22:07 (UTC)
  情報 英語版のテレビ番組のスタイルマニュアルでは単独で節とせず、他の節で扱うことが推奨されています。--61.123.87.109 2012年7月1日 (日) 02:07 (UTC)

フィクションであると書くべき 編集

いろいろな新着記事を読んでいますと、まず定義文で違和感を覚え、本文ではさらにデタラメな内容に驚かされることがあります。即時削除など考慮しながら記事を精読しますと、カテゴリや関連項目などで判明するのですが、それが実は創作物に関する記事であって、フィクションであることがどこにも書かれていないために当惑するばかり……となります。さて、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)#定義文では「架空の人物・事柄を扱っている場合には、それが分かるようにしておく」と書かれていますが、あちらはノンフィクションを含む全記事についての注意であるのに対して、こちらはフィクション限定にも関わらずどこにも定義文で「フィクション」であることを明記するように注意されていません。フィクションに関する記事ならば、例外なく「定義文で『フィクションである』」と書く必要があると考えます。それは例えば冒頭部において、ヤシマ作戦における主要兵器だったとか、トレス海峡海戦での艦隊だとか、キャラベル船ゴーイングメリー号がどうしたとかいう説明の前に「フィクション」であると分かるように書かれていないと、創作物の世界を良く知る者からはそれだけのキーワードが並べばフィクションであるという説明は十分であっても、知らない者からすればトンチンカンな内容の記事にしか見えません。現状では「物語世界内の観点に立った記述の問題点」節では「フィクションの出来事をあたかも現実世界の出来事であるかのように扱い……」と、なんとなく注意らしき記述があるのですが、それに続く「問題点」なる説明でも「フィクションであると書け」とはどこにも書かれていません。問題点のリストの1番目に「定義文の1文目で『フィクションである』または『フィクション中に登場する…』と明確に書く必要がある(フィクションに代えて『小説』『映画』『マンガ』などでも良い)」と加えることを提案します。--Shigeru23会話2012年5月2日 (水) 17:22 (UTC)

「現実世界の観点に立って主題を記述する」「フィクション作品そのものと、その作品の製作過程と、そのフィクション作品が現実世界に及ぼした影響などの発表の側面とを注意深く峻別する」と最初の節にはっきり書かれているのですから「フィクションだとわかるように書く」のは当たり前です。逆にここで「定義文にそう書け」と指示すると「定義文に明記されていればあとは何を書いてもいい」というふうに誤解されるおそれがあります(現にそういう記事がたくさんある)。ここの文書ではもっと包括的な話をしているので、定義文のことは定義文のスタイルマニュアルにまかせておけばよいと思います。--頭痛会話2012年5月2日 (水) 18:26 (UTC)

ノンフィクション・ルポルタージュ 編集

ノンフィクション・ルポルタージュに関する言及があっても良いのではないでしょうか。

いわゆるノンフィクションルポルタージュ作品を紹介するばあいには、それらの作品があたかも学術論文検証報道であるかのように紹介しないよう注意してください。これらの作品は事実や史実あるいは証言などをもとに執筆していることを謳っている場合でも、学術論文が経るべき専門家による検証や再調査、反論等を執筆において反映していないことが多く、例えばレイチェル・カーソン沈黙の春」のような定評のあるルポルタージュであっても、その記述内容のいくつかには学術的反論があり、その批判は独立した出版物である「沈黙の春」の内容には反映されていません。
ノンフィクションを謳った歴史小説や映像作品には演出や構想が含まれていたり、事実や史実と異なる描写が含まれていることがあります。これらの作品は学術論文と同等に扱わないよう注意が必要です。一方でこれらの文芸作品と「史実」とを比較するようなウィキペディアンによる考証の投稿は独自研究として忌避される可能性があります。ノンフィクション・ルポルタージュ作品に対する批評や論評を記述するさいには、別の信頼できる公表出版物から引用するようにします。

--大和屋敷会話2013年1月7日 (月) 06:33 (UTC)

このスタイルマニュアルは架空の物語や事象をウィキペディアにおいてどう記述するかという文書なので、ノンフィクションは適用範囲外のような気がします。どういう状況を想定しているのか私には掴めないのですが、どんな主題であろうと一次資料のみを参考に記事を書いてはいけないのは各種方針から明らかですし、ノンフィクション作品を出典として使えるかという話であればWP:RS向きの話題になると思いますので、ここで扱う必要はないのではないでしょうか--半保護用会話2013年1月7日 (月) 10:57 (UTC)
既に返答もあるけど、混乱するからあえて無視して提案文だけ読んだ感想を。
基本的には半保護用氏がおっしゃる通りだと思いますが、架空じゃなくても、つまりは史実や伝記と言ったものを題材にした小説・物語もガイドラインの範疇に入るとは思います。逆に「沈黙の春」のような小説や物語じゃないものは、このガイドラインの範疇には無いと思います。このガイドラインが何故「信頼できる情報源」から独立して置かれているのかという点を考えた上で、この辺りの線引きははっきりさせた方が良いと思います。
次に、「聯合艦隊司令長官 山本五十六」には多少関わってましたし、提案文の最後の1文を読めば、大和屋敷氏が「ノンフィクションを題材にした作品を主題とする記事において、その作品ではなく、題材(史実等)に関する出典を用いること(例えば坂本龍馬に関する学術論文を出典に「竜馬がゆく」に批判を書く)を注意する」ことが目的だというのはわかりますが、普通にその提案文を読むと、「作品を出典に用いること(例えば「竜馬がゆく」を出典に坂本龍馬の記事を執筆すること)を注意する」ようにも見えて、何かわかりづらい悪文だと思います。後者だってウィキペディアとしては問題ですが、前者と後者は似て非なる物ですし、明瞭化した方が良いと思います。
で、もう1点。基本的にガイドラインは読まれなければ意味が無いですし、そのためには読まれるようにしなければなりません。少なくとも「ノンフィクション」に関することを「フィクション」と銘打って特化したガイドラインに載せるのはあまり良くないと思います。
以上を踏まえた上で。「聯合艦隊司令長官 山本五十六」のような例が多く散見されることは衆知の事実なのですから、(歴史小説も科学啓蒙書も含めた)ノンフィクションに特化したガイドラインを立ち上げてしまった方が良いと考えます。その中で、歴史小説等、このガイドラインの範疇に属する物は、節を設けるとしても要点を絞って、詳しくはリンクという形で飛ばすのが理想かと思います。仮にガイドライン化が難しくても、要点は「信頼できる情報源」の話を分野の事例に特化させて説明しただけの話なので、私論でも十分効力があると思います。--EULE会話2013年1月7日 (月) 14:49 (UTC)
  コメント 「ノンフィクション・ルポルタージュ」を「史実をモデルとしたフィクション」に言い換えれば、適用範囲は狭くなるものの、このガイドラインで扱う内容になるのではないでしょうか。--Kanohara会話2013年1月7日 (月) 18:21 (UTC)
  なるほど、理解しました。史実との違いについての記述に焦点が当たっているのであれば、上にある#「原作との違い」などの節での話題も含めて文章にした方が良いと思います。--半保護用会話2013年1月8日 (火) 12:30 (UTC)
  • 「史実をモデルとしたフィクション」として後半を少し修正し、ルポルタージュと分割し

史実をモデルとしたフィクション

史実や事件をモデルとした小説や映像作品にはプロットやナレーションに作者の演出や構想が含まれていたり、史実や事件と異なる描写が含まれていることがあります。たとえば八甲田山死の彷徨ローマ人の物語のような作品はひとつの完成された文芸作品として紹介すべきで、歴史書学術書籍などと同等に扱わないよう注意が必要です。これらの文芸作品には学術上の「史実」や「事実」と異なる点があるかもしれませんが、それを比較するようなウィキペディアンによる詳細な考証の投稿は独自研究とみなされます。歴史小説・ノンフィクション作品に対する批評や論評を記述するさいには、別の信頼できる公表出版物から引用するようにします。

ルポルタージュ

インタビューや独自取材を元にしたルポルタージュは学術論文が経るべき専門家による検証や再調査、反論等を執筆において反映していないことが多く、例えばレイチェル・カーソン沈黙の春」のような定評のあるルポルタージュであっても、その記述内容のいくつかには学術的反論があり、その批判は独立した出版物である「沈黙の春」の内容には反映されていません。ルポルタージュは独立した作品として紹介し、学術書籍などと同等に扱わないようにします。これらの作品に学術上で重要なインタビューや発掘報道を含んでいる場合、その指摘は他の信頼できる書評や学術書籍から引用するようにします。

という感じはどうでしょうか。ルポルタージュのほうは暫定で、いろいろ反論頂きそうなのでフィクション関連のスタイルマニュアルに無くても良いかもしれません。--大和屋敷会話2013年1月8日 (火) 22:43 (UTC)

  うーん、やはり私には何を言いたいのか掴み辛いです。特に学術書籍と同等に扱わないというのは完全にノイズです。そもそもここには分野ごとの書き方は載っておらず(作品記事の書き方すら厳密にはない)、フィクション関連の総合的なスタイルマニュアルとして位置づけられている文書だと思うので、ここに加筆するのであれば分野ごとの節を作るようなことはせずに総合的な解説を載せた方が良いかと思います。先行の議論を見るに要点となるのは
  • 編集者の解釈を載せるために情報の合成をしない。
  • 史実や他作品との違いは細部に至るまで網羅せず、その主題の特色や重要性を理解するために不可欠なものに絞って記述する。
  • 評価を記載する場合には、主題について言及されている資料が出典として必要である。
といったところだと思うので、こういう情報をWP:WAF#二次情報WP:WAF#トリビアWP:WAF#正確さとバランス辺りのどれかに馴染む形で加えた方が良いのではないでしょうか。また、分野ごとに特化した指針作りはウィキプロジェクトの方でやっているので、ノンフィクションに特化した注意事項を作るのであればウィキプロジェクトを立ち上げるのも手段の一つだと思います。--半保護用会話2013年1月9日 (水) 10:56 (UTC)

て「作品自体を出典とできる箇所には、二次資料は不要である」という主張の是非 編集

Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクション関連)#一次情報と二次情報』を根拠にして「作品自体を出典とできる箇所には、二次資料は不要である」という主張をみかけました。私としては「不要」と断言してしまうのは明らかに間違っていると考えています。(「作品自体を出典とできる箇所には、二次資料はなくてもいい」なら間違いではない)

私のこの認識が正しいとしたら、そのような誤解を防ぐような記述を追加した方が良いと思いますが、どうでしょうか?

あと、該当セクションでは「一次情報」と「一次資料」が混在していますが、誤記なのか意図的なのかがよくわかりませんでした。意図的であれば補足いれた方がよいかもしれません。--iwaim会話2013年5月11日 (土) 20:04 (UTC)

なにを問題とされているのかちょっとよくわからないのですが、「二次資料は不要である」と「二次資料はなくてもいい」はどう違うのでしょうか。
「一次情報」と「一次資料」ははっきり使い分けています。後者の説明のためにそのセクションの冒頭で「関連する方針」としてWikipedia:独自研究は載せないにリンクをつけています。--頭痛会話2013年5月11日 (土) 20:20 (UTC)
受け手の個人差による印象の違いがあると考えています。前者の方をより強く受け取る方はそれなりの数いるのではないかという想像です。(前者の方をより強く受け取る方が存在することは事実。数については書いたように想像)
使い分けているのですね。では(先に書いているように)補足を入れた方がいいとは思います。後日、別セクションで提案してみます。--iwaim会話2013年5月11日 (土) 20:50 (UTC)
すいません、全然話が見えてこないです。具体的にはどういうことでしょう?--頭痛会話2013年5月11日 (土) 20:54 (UTC)
申し訳ないです。そこを書いてなかったですね。記述しようとする執筆者、あるいは出典を付与しようとする執筆者に対して「出典を付与すべきではない(SHOULD NOT)」と受け取られてしまう可能性が高まることを懸念しています。--iwaim会話2013年5月11日 (土) 21:02 (UTC)
ああわかりました。場合によるというか、一律に決めておくのは難しいんじゃないですかね。二次資料をつけることが明らかに蛇足であるような場合もあると思いますし。--頭痛会話2013年5月11日 (土) 21:09 (UTC)
というか、具体例とかないですかね。本当に一次資料(作品自体)だけで十全に理解できることであればむしろほとんどの場合二次資料は蛇足になるのではないかと思うのですが。--頭痛会話2013年5月11日 (土) 21:23 (UTC)
検証がより手軽になる可能性に期待しています。--iwaim会話2013年7月27日 (土) 11:45 (UTC)
iwaimさんが見かけたのはこちらでの私の発言です。私は出典を付与すべきではないとは思っていませんし、そういう発言もしておりません。「不要」と書いたのは「なくてもよい」「蛇足になる」そういう意味です。相手の方もきちんと理解していただけています。なぜ第三者であるiwaimさんが過敏に反応されたのか、いまいちわかりません。iwaimさんへの返信にもなっていますので、まだでしたらお読みいただければと思います。--Wolf359borg会話2013年5月12日 (日) 13:23 (UTC)
ええと、何故私が第三者なのでしょうか。私もウィキペディア日本語版の利用者なのですけども……。で、私は受け取った側の解釈の揺れとかの話をしていますので、Wolf359borgさんの意図はある意味ではそれほど関係ないです。--iwaim会話2013年7月27日 (土) 11:47 (UTC)

歴史的事実であるかのように書かれたあらすじ 編集

歴史的事実であるかのように書かれたあらすじ
がいけない例として挙げられてますが、
これは、どういった理由で、どういう記述が良くないということになるのでしょうか。
「20XX年という設定年に、主人公という設定の人物が、○○という国の大統領という設定になった」と書けということでしょうか。
Wikipedia:削除依頼/架空世界の年表の削除依頼理由に使われてしまっておりますが…。

--Benzoyl会話) 2014年1月15日 (水) 03:09 (UTC)--Benzoyl会話2014年1月15日 (水) 03:10 (UTC)

もとの英語版の記述が"A plot synopsis written like a historical account" なので、「歴史の記述のように書かれた物語の梗概(あらすじ)」ですかね、今見ると。その下の「伝記のような形式で書かれた登場人物の記事」と同じようなことで、歴史書のようなスタイル(出来事・事件を年月日と対照させながら説明していくようなスタイル)で書くなということを言ってるんだと思います。--新続頭痛会話2014年1月15日 (水) 04:34 (UTC)
  返信 お忙しい中、丁重なご解説どうもありがとうございました。
またその下に書かれた

instead of writing: "Gandalf was a powerful wizard"
write: "Gandalf is characterised (or described or cast) by Tolkien as a powerful wizard"

と、どのように関連してるのかも解せません。英語版の翻訳をそのまま導入ということでしょうが、タイムライン形式の記述が独自研究になるのかは、一概にいえないのではというのが、個人的疑問であります。
「historical account=歴史の記述のように書かれた形式」すなわちタイムライン形式、という翻訳で宜しいということでしょうかね。--Benzoyl会話2014年1月15日 (水) 10:06 (UTC)
「20XX年という設定年に、主人公という設定の人物が、○○という国の大統領という設定になった」と書けということです。
英語版の例文で言えば、「トールキンによってガンダルフは強力な魔法使いとして描かれている」とか。いちいち「設定」という言葉を使う必要はないですが、作品内世界を、その中の視点で書くのではなく、現実世界から見て書く、ということです。--Ks aka 98会話2014年1月15日 (水) 10:52 (UTC)
Ks aka 98さん、詳細・明快なご説明本当に有難うございました。英語が不得手すぎるため(insteadのニュアンスでなんとなく判断しつつも)、前者・後者のどちらを推奨なのかも全然確信持てない状況でした。すみませんでした。
例文の後者のような、「(作者である)トールキンによって」という現実世界からの観点が必要ということですね。--Benzoyl会話) 2014年1月15日 (水) 23:32 (UTC)--Benzoyl会話2014年1月15日 (水) 23:35 (UTC)

作品名とその作品の主人公の名前が同じ記事の導入部について 編集

  解決済み正当な理由が判明したため取り下げます。--V5+c6-S3+w8=DDss会話2015年3月9日 (月) 14:40 (UTC)

桃太郎」のように、作品と主人公が切り離された書き方をしている場合はいいのですが、「浦島太郎」のように、導入部で作品と主人公を紹介している場合の話です。導入部の第1文は、主題の定義から始まることになっていますから、「『なんとか(作品名)』はこれこれこういう作品、および、その作品の主人公の名称」というように書き出した場合、主題が作品とその主人公の2つ存在することになります。しかし、多くの記事で、主題を作品と主人公の2つにするような書き出しをしながら、解説は作品だけになっています。解説が作品だけということは、主題は作品と主人公の2つではなく、作品の1つだけということになるはずです。主題が作品だけなら、導入部の第1文は作品の定義だけにとどめておき、主人公まで持ち込まないようにするべきだと思うのですが、このような考え方は間違っているのでしょうか。--V5+c6-S3+w8=DDss会話2015年3月8日 (日) 00:56 (UTC)

  反対 主人公とは、その作品の中心人物です。作品の内容について説明する場合、自然とその主人公について触れることにもなるでしょう。別に「主題が作品とその主人公の2つ存在すること」や「主題を作品と主人公の2つにするような書き出しをしながら、解説は作品だけ」という記事にはならないと思います。まあ、必ずしもタイトル・ロールとなっている登場人物が主人公であるとは限りませんが、タイトル・ロールになるほどの登場人物なら、記事内で説明するのが望ましいでしょう。そもそも表題が主人公の名前であろうとなかろうと、表題の意味について記事導入部で言及することは有意義だと考えます。
ただし、表題がその作品から独立した事柄から取られているにもかかわらず、複数の定義について記事冒頭で平等に併記しているようなケース、例えば「ジュリアス・シーザーとはシェイクスピアによる1599年の劇、および古代ローマの政治家である」「インデペンデンス・デイとは1998年のアメリカ合衆国のSF映画、および独立記念日のことである」というような書き方をするのは、ウィキペディアでは廃止された曖昧さ回避の方式に当たる可能性があるので、この記事は主題と原義のどちらについて説明している記事なのかを明確にした書き方に改める必要があると考えます。--Kanohara会話2015年3月8日 (日) 08:11 (UTC)
  終了 貴重なご意見に感謝いたします。ありがとうございました。--V5+c6-S3+w8=DDss会話2015年3月9日 (月) 14:40 (UTC)
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