Wikipedia‐ノート:スタイルマニュアル/レイアウト/過去ログ1

ISBNのリンクについて 編集

Wikipedia:レイアウトの指針によると、英語版ウィキペディアではISBNを書くと自動的にリンクページで本の検索ができるようですが、これはどのような仕組みになっているのでしょうか?

例えば、英語の本 ISBN 0-22-610389-7 は、上手く検索できるのですが、日本語の本 ISBN 4-582-00512-8 (2003年2月に出版された平凡社の世界大百科事典) は、上手く検索できません。

日本の書籍でもこのような機能が使えるようになれば書籍の記事を書いておられる方にとって非常に便利になると思うのですが、どうすればよいのかよく解りません。どなたか、ご教授いただければうれしいです。-- Yoshitaka Mieda 07:21 2003年2月16日 (UTC)

(井戸端の方に引用し、お返事はそちらに書き込ませて頂きました。Tomos 03:35 2003年2月23日 (UTC))

紹介文に主題を入れねばならないのはなぜですか?不要な場合が多いと思うのですが。

例えば、アルジェリアを見ると、

アルジェリアは、正式名称アルジェリア民主人民共和国で、アフリカの国。

となっていますが、これを

正式名称アルジェリア民主人民共和国で、アフリカの国。

としても十分意味が通じます。紹介文に別に主題を入れるなと言っているわけではないですが、「入れなければならない」というほどではないと思います。どうでしょう?


全文検索のときなど、紹介文の中に主題があった方が検索しやすいからだそうです。エラリー 13:22 2003年11月14日 (UTC)

なるほど、回答ありがとうございます。私と同様の疑問をもつ人がいると思うので、エラリーさんのご回答内容を指針に書かせていただきました。

主題を入れるのは、再利用を考えて、という方が重要かと思います。単純にCopy&Pasteして意味が通る文章であれば、新たに手を加えずに再利用できます。そう考えて書かれていない記事も多いので必ずしもそうなってはいませんが・・・。文に主題が必要となるのはもともと英語がそういう言語だからですが、記事の冒頭部分を別のところにコピーして意味が通るかとおらないか、というので記事のわかりやすさが判断出来ることもありますのでご自分で記事を書かれる際にはぜひやってみてくださいsuisui 07:35 2003年11月21日 (UTC)

全面改訂(2006年2月27日) 編集

全面改訂しました。スタイルマニュアルにおけるレイアウトの方針の位置づけが不明瞭であったので、この点を明確にして整理し直したつもりです。スタイルマニュアルにあった導入部、言語間リンク・カテゴリ、参考文献の解説はこちらに移動し、こっちにあった箇条書きに関する解説などを削除しました(これらの解説はWikipedia:編集の仕方にあります)。Hermeneus (user / talk) 2006年2月26日 (日) 17:14 (UTC)

Hermeneusさん、全面改定お疲れさまです。より見やすく活用しやすいものにしていただいたと思います。
せっかくHermeneusさんに改訂していただいたのですが、2点、変更させていただきました。第1点は、参考文献と関連項目の順序をHermeneusさんが編集される前の版に戻したことです。これは、以前の順序の方がウィキペディアの内部→ウィキペディアの外部という流れで統一されており、特に変更する理由がないものと考えるためです。
第2点は、参考文献の項に「読者に推薦する文献」も記載できるよう修正したことです。これは以前の版に「記事の読者に推薦する書籍や論文を、箇条書き形式で書いてください。」とあった部分に相当するものです。これについては、新たに== 読書案内 ==という節を設けるべきかもしれませんが、当面は以前の版の状態を維持すべきだと考えております。Sloop25 2006年2月27日 (月) 23:38 (UTC)
確かに、実際に記事を書く際に参照・引用している文献のリスト(bibliography, works cited)と、その事物についてさらに詳しく知りたい人に参考になる本のリスト(reading list)とは、分けた方がいいかも知れませんね。Hermeneus (user / talk) 2006年2月28日 (火) 00:10 (UTC)

脚注の位置(提案) 編集

私はいままで脚注を作る際に末尾に持ってきていたのですが、ここの指針だと、本文の中ほどに位置していますね。これって、「脚注」とはいえないのではないでしょうか?脚注位置を末尾に持ってきて文字通り脚注とすることを提案します。--PeachLover ももがすき。 2006年10月9日 (月) 04:00 (UTC)

  • 参考文献の次辺りが妥当ではないでしょうか。外部リンクや関連項目よりは上でよいと思います。……とおもったら、関連項目を参考文献のまえにしてるんですね。此の指針はつくづく起草者の独自のものだなと思いました。ガイドラインと認めていいんでしょうか? Kzhr 2006年10月9日 (月) 05:18 (UTC)
ご意見ありがとうございます。参考文献や脚注は、論文等では末尾(注釈はページごとにある場合もある)のは、皆さんご理解いただけるところだと思います。関連項目、参考文献、外部リンク、脚注と並べたいというのが私の意見です。(外部リンクが最後という考えもあるかもしれませんね)--PeachLover ももがすき。 2006年10月9日 (月) 05:23 (UTC)
ここに2006年10月9日 (月) 09:46 (UTC)づけで約語についての文章を書いていましたが整理のため利用者‐会話:Penpenに移動しました。Penpen 2006年10月16日 (月) 16:02 (UTC)
ここに2006年10月9日 (月) 09:53 (UTC)づけの文章を書いていましたが整理のため利用者‐会話:Penpenに移動しました。Penpen 2006年10月16日 (月) 16:02 (UTC)
    • タグがどうのこうのという話をしているのではないと思います。百科事典記事も含めて論文(のような文章)を書くに当たってどういう形式が一般的に通用するかたちなのか、ということを考えた際、現行指針が不自然なことを述べているのではないかという指摘がまずあるのですから、そこから考えなければいけません。で、miyaさんの案が確かに自然かつもっともポピュラーなものであると思いますので、私も賛成します。--ikedat76 2006年10月9日 (月) 12:53 (UTC)
    • (蛇足)と言いつつも、脚注はおろかreferencesもbibliographyもろくに付いてない記事のほうが多いような気がしてならないのですが。--ikedat76 2006年10月9日 (月) 12:53 (UTC)
ここに2006年10月9日 (月) 14:50 (UTC)づけの英語版の「Footnote」が3通りの意味に使われている旨の文章を書いていましたが整理のため利用者‐会話:Penpenに移動しました。Penpen 2006年10月16日 (月) 16:02 (UTC)
ここに2006年10月9日 (月) 15:07 (UTC)づけの文章を書いていましたが整理のため利用者‐会話:Penpenに移動しました。Penpen 2006年10月16日 (月) 16:02 (UTC)
ここに2006年10月9日 (月) 15:27 (UTC)づけの英語版とあわせるとよい旨の文章を書いていましたが整理のため利用者‐会話:Penpenに移動しました。Penpen 2006年10月16日 (月) 16:02 (UTC)
「英語版がこうだから」というのは重要な参照点ですが、だからといって一から十まで倣わなければならない理由はありません。英語版とそろえなければならない説得的な理由をPenpenさんは示されていません。miyaさんの提案されている順序は、(「関連項目」「外部リンク」があるのを別にすれば)論文としてスタイルを備えた文章の構成として(日本語・英語圏問わず)定着したものであることは、そうしたスタイルの文章を読み慣れた者なら誰でもわかるものです。ブリタニカなどがそうですが、百科事典記事というのは基本的に論文のスタイルで書くことが求められていることを踏まえて考えるべきです。--ikedat76 2006年10月11日 (水) 16:30 (UTC)
少し、議論がかみ合っていないような気がするので、補足できればと思い、横から失礼します。まず前提として、参照文献(Reference)と参考文献(Bibliography)は区別した方が良いかと思います(上記の英語版の記述もそれを前提にしなければ理解できないのではないかと思います)。その上で、Wikipediaの脚注機能は、参照文献および注釈のための機能であると思います。しかし、この2つを取り扱う方法にはいくつかの流儀があるために、混乱を招いている気がします。特に、参照文献よりも注を重視して、注の項を設ける書き方や注を参照文献と一緒に並べる手法は、人文社会系の論文では通常見られる作法だと思います。一方で、自然科学系などでは参照文献を重視しますので、注を用いることの方がまれで、参照文献と混ぜる表記法はほとんどとられません。ここらへんの分野による慣習の相違がおそらくは混乱の原因なのではないかと想像します。慣習がそもそも異なる分野を取り混ぜて執筆すべきウィキペディアでは、ある程度自由度を持たせたほうが良い気はします。まずは最低限、英語版の説明のように、参考文献と参照文献とを切り分ける記述を考えた方が良いのではないかと思いますが、いかがでしょうか? --Masao 2006年10月11日 (水) 17:06 (UTC)
分野によって注や参照文献(refereces)や参考文献(bibliography, further readings)の扱いが違うと言う話は承知していますが、Penpenさんはどうもそういう水準の話をなさっているのではない、という理解のもとで私はコメントをしています。つまり、論文スタイルの文章における文章の構成ではなく、タグや英語版文書で“こうなっている”“ああなっている”だけを参照して発言されているように見えたので、上記のような発言になったわけです。もし誤解であればご指摘ください。--ikedat76 2006年10月11日 (水) 17:22 (UTC)
はい、Ikedat76さんには釈迦に説法かと思われましたが、必ずしもここでの議論で明示的に書かれていない事柄であり、そのためPenpenさんの議論を含め、議論の中で各発言中の「参考文献」「脚注」がどの意であるかが明確になっていないようでしたので、他の方への情報提供の意味もこめて、補足として加えさせていただきました。既に了解済みの事項でしたら、蛇足で申し訳ありませんでした。Masao 2006年10月12日 (木) 06:50 (UTC)

「参照文献」と「参考文献」の違いについては気が付いておりませんでした(すみません)。ところで、Miyaさんの意見(本文→脚注→参考文献→関連項目→外部リンク)とPeachLoverさんの意見(本文→関連項目→参考文献→外部リンク→脚注)の「関連項目」の位置の違いについて考えたのですが、Miyaさんの意見はひとつの項目がひとつの論文として成立するような内容である場合を想定しているのに対して、PeachLoverさんの意見は複数の項目でひとつの内容を記述することを想定しているためだと思います。Wikipediaを(私なりに)見ていると、ある項目の節が成長して新しい項目になるということがよくあるようです。このような状態に対応するには「関連項目」が「Reference」より内側にあるPeachLoverさんの配列のほうが(他の節の配列はさておき)よいと思います。Penpen 2006年10月13日 (金) 15:35 (UTC)

百科事典の記事は確かに「ひとつの項目がひとつの論文」で説明されますが、同時に、「…をも見よ」とか「~をも参照」というかたちで、複数の記事が連携しあってある主題について記述するという(「複数の項目でひとつの内容を記述する」)形式にもなっているのです(紙の百科事典を見ればすぐ分かることですが)。百科事典というものはどういうものなのか、その体裁と形式について学ばれてからコメントされることをお勧めします。--ikedat76 2006年10月13日 (金) 15:49 (UTC)
Ikedat76さんに(初歩的な)質問ですが、そうすると、英語版の2.See also と3.Notes 4.References の順番は英語の百科事典の書き方としては少し変と理解してよろしいのでしょうか。Penpen 2006年10月13日 (金) 15:58 (UTC)
英語版の配列でも別に変ではありません。
私が申し上げているのはそういう問題ではありません。Wikipediaは紙媒体であることの制約を免れていますが、百科事典であることには違いありません。紙の百科事典とはどういうもなのか、論文のスタイルとはどういうものなのか、等々について、Penpenさんがよくご存じではないまま発言されているのが気にかかる、と申し上げているのです。--ikedat76 2006年10月13日 (金) 16:23 (UTC)マークアップ修正。--ikedat76 2006年10月14日 (土) 04:22 (UTC)
論文の形式というのを全く知らないわけではないですが、よく知っているかといわれると、頭をかかざるをえません。それはそれとして、ikedat76さんにご意見をお書きいただきたいことと、ご教示いただきたいことがあるのでよろしくお願いします。まず、意見をいただきたいことですが、「関連項目」の配置についてReferencesの前(本文側)におくのと後ろに置くののどちらがよいと思っておられるのかと言うことです。次に、ご教示いただきたいことは日本語の論文でNotesに当たる節は「脚注」と書くのかということです。よろしくお願いします。Penpen 2006年10月14日 (土) 01:05 (UTC)
miyaさん案に賛成(参照文献→関連項目)と上で書いているのですが…。Notesですが、厳密に言えばNotesだけなら「注」です。--ikedat76 2006年10月14日 (土) 04:22 (UTC)
わたしもPeachLoverさんと同じく「註」は最後にするのがいいと思います。つまり、「本文→参考文献→関連項目→外部リンク→註」の順です。理由は、いくつかの記事を執筆した経験からなのですが、きちんと出典を伴った記述をし、本文を読みやすくするため、解説部分を「註」に持ってきたりすると、「註」の数はあっという間に50、60になり、100を越えることもあります。それは画面上、結構スペースを取るので、大きさを90%の表示にしたりもします。そして、実際に記事を読むときは、上から順にスクロールして行きますが、「関連項目」や「外部リンク」に行く途中で、長い註の部分をスクロールしなければなりません。しかし、「註」は本来、本文の特定の箇所からクリックで「註」の部分にジャンプして見、またクリックで元の箇所へ戻るというのが基本なので、「註」自体を順に見て行くということは普通必要がありません。それなのに、「関連項目」や「外部リンク」を見るために、長い「註」の部分を無駄にスクロールしなければならないのは大変不便なことです。特に携帯電話でウィキペディアを閲覧するときはパソコンほど、早くスクロールできないので、より不便になります。これらの閲覧の際の利便性を高めるために、「註」を末尾にすることを提案します。どうか御理解下さい。--モトカル 2007年6月24日 (日) 10:24 (UTC)
乗り遅れましたが、私も脚注を記事末尾にすることに同意します(それ以外の項目の順序についてはこだわりません)。理由はPeachLoverさん、モトカルさんと同じで、さらに付け加えると、参考文献や関連項目に注がつく形も想定すると、全体の末尾に注がまとまっているべきではないかと考えます。--Tamago915 2007年7月11日 (水) 04:28 (UTC)

「脚注(footnotes)」だったらページごとに下部に書くんだから、本文直下だろう。「尾注(endnotes)」で最後にまとめる場合でも、本文の後、参照文献節(references)より先に来る。

現行の英語版ではこうなっている:

Standard appendices and descriptions
Certain optional standard sections should be added at the bottom of an article. There is consensus that the plural form of the section name should be used. Changing section names breaks links (hence the utility of permalinks), so it is best not to change already-established article section names. Common appendix sections:
  1. Quotations (deprecated)
  2. See also
  3. Notes
  4. References (or combined with "Notes" into Notes and references)
  5. Further reading (or Bibliography)
  6. External links
Note:
  • It is okay to change the sequence of these appendices, but the Notes and References sections should be next to each other. For example, you may put "Further reading" above "Notes and references" or vice versa.
  • "Notes" is only for footnotes (explanations or comments on any part of the main text). "References" is only for referenced materials (books, websites etc. cited in the main text). Otherwise "Notes and references" should be combined.

順番で意見が分かれるのなら、こっちにも「It is okay to change the sequence of these appendices」を入れておけばいいんじゃないの?

とりあえず、実際に本文で頁数などを指定し実際に参照している参考/参照文献(references)と、その記事のトピックに関してさらに詳しく知りたい人用の推薦文献(further reading)を明確に区別しておく必要はある。そして、英語版方針文書にもあるように、注と参照文献節は隣接させておくべき。--Saintjust 2007年7月13日 (金) 01:56 (UTC)

Saintjustさん、ウィキペディアは紙の事典と違って、ハイパーリンクでジャンプして註を見るということをよく考慮する必要があると思います。:Tamago915さんのおっしゃる通り、参考文献や関連項目にも註を付けることもあるかもしれませんし、本文から参考文献、関連項目、外部リンクの所まで行く際に、長い「註」の部分を無駄にスクロールして、見るよりは、末尾(但しカテゴリの記述部分よりは前でいいと思います)に持ってくるのが一番“使い勝手がよい”位置だと思います。註が100以上ある「安倍晋三」の記事などで、無駄なスクロールを実感してほしいと思います。携帯電話でウィキペディアを閲覧すれば、よりその不便さがわかると思います。註(references)と参考文献は区別するべきと思いますが、隣接させる必要は特に感じません。註の位置に関しては、一律に決めないで、「記事の状況によって、本文の次ぎするか記事の最後にするかを決めてもよい」というような但し書くのはいいかもしれません。--モトカル 2007年7月15日 (日) 00:40 (UTC)
註セクションが長くなったら、それこそHTMLの特性を生かして縮小すればいいだけで(例:en:Japan#References)、何の問題もありません。参考文献や関連項目に注など普通つけませんし、必要あるとも思いません。--Saintjust 2007年7月15日 (日) 01:08 (UTC)
Saintjustさん、”スクロールテキストボックス”を作るという方法があったとは知りませんでした。単に縮小するだけでは効果が薄いし、縮小率が大き過ぎても見え辛くなりますが、この方法は画期的ですね。早速、「安倍晋三」で使っていただきありがとうございました。携帯でもちゃんと見れました。しかし、この方法を取っているのは今まで見かけたことがありませんね。脚注が長くなれば、是非使うべきですね。--モトカル 2007年7月15日 (日) 01:56 (UTC)
(現状のままで良い)コメント依頼でこの議論を知りました。「関連項目」と「外部リンク」は、他のページか外部へのリンク集なので、「脚注」はそれらよりは上に配置すべきです。「参考文献」よりも本文との関連性が強いから、「脚注」はこれよりも上の配置で正解でしょう。従って、現状のままで良いと思います。--Game-M 2007年9月22日 (土) 11:43 (UTC)

なんで草案になってるんだ? 編集

もともとガイドラインだったのが理由も無く2006年11月5日 (日) 14:42の版から草案に格下げされてるのはなぜ?--Fugue 2007年6月20日 (水) 07:57 (UTC)

ノートで議論中だからだそうですが、考慮すべきガイドラインを、コミュニティで検討することなしに草案に格下げすることなど許されるはずもありません。内容について議論があっても、ガイドラインとして定められているものが自動的に格下げになることもありません。したがってガイドラインに戻しました。--PeachLover- ももがすき。 2007年7月15日 (日) 00:44 (UTC)

関連項目について 編集

記事の関連項目の節に、無秩序に内部リンクがならんでいることをよく見かけます。これらが、どう、その記事の事物と関連しているのか、がいまいち不明なことが、多いようです。また、もっとその記事について知りたくなったひとへの読書案内にするためにも、たとえば、「ふがふが」の記事なら、
== 関連項目 ==

  • ほげほげ - ふがふがと仲良し
  • ぴよぴよ - ふがふがのいいひと

とかのように、それらが、「ふがふが」とどう関連しているのか、すこし説明することを推奨する風にしてみてはどうでしょうか。--じゆにち (Mobnbka) 2007年6月20日 (水) 15:11 (UTC)

スポーツ選手の記事などでも良く見かけますね。プロ野球選手の場合に同時期にレギュラーだった選手や当時の監督はわかりやすいのですが、陸上選手やスピードスケート選手に多数の内部リンクがつけられて同年代でもなく、出身地、出身校も異なり短い記事同士で接点が全くつかめないものもありました。関連性がある場合はなるべく、本文中でどう関連があるかどちらかの記事で述べられてほしいし、本文中で内部リンクがあるのに、関連項目にも内部リンクを重複させるのは避けて欲しいと思います。(巨大な記事でなければ)。--Tiyoringo 2007年7月19日 (木) 20:59 (UTC)
> 本文中で内部リンクがあるのに、関連項目にも内部リンクを重複させるのは避けて欲しいと思います。
英語版だとen:WP:GTL#See also00:55, 3 August 2007 (UTC))を名分としてざっくりやることができます。これを輸入するのはどうでしょうか?
「関連項目」(See also)節はナビゲーションの助けとしてこれと関係のある、ウィキペディア中の他の記事への内部リンクの補足リストを提供します。それは理想的に言えば、すでに記事に含まれるものが繰り返されるべきではありませんし、存在しないページにリンクするべきでもありません。通常、記事と関係するトピックは、ただのリンクとして記事のテキストに含まれているべきです。
記事テキストにリンクがあれば、関連項目に連ねる必要性は薄いという筋は通っていますから(かつ「理想的に」なので弾力的な運用もできる)、強烈な反対は来ないと思います。--Tatsujin28 2007年8月14日 (火) 18:27 (UTC)
関連項目で連想ゲームのようにずらずら書かれているのをみると、もう酷くて…。で、関連項目については現状、基準とかルールとかがないようで…。Wikipedia:関連項目と議論が分散してる感もあります。Tatsujin28さんの文面もWikipedia:関連項目に似てるような気が…。Uma 2007年9月8日 (土) 01:08 (UTC)
Wikipedia‐ノート:関連項目#草案更新の提案において、関連項目の基準について議論が行われています。どちらかでまとめて議論する場を作った方がよいかもしれませんが、まずはご連絡いたします。--Jinshu 2008年2月21日 (木) 14:51 (UTC)
こちらでの議論は気づいていませんでした。議論の分散はもったいないのでどちらかに統一したいと思います。個人的にはWikipedia:関連項目の記述に反映するためにWikipedia‐ノート:関連項目#草案更新の提案で議論を行えれば、と思いますがどうでしょうか。--iwaim 2008年2月21日 (木) 15:06 (UTC)
まとめてしまって良いと思います。やろうとしていることは同じようなものですし。--Tatsujin28 2008年2月21日 (木) 15:24 (UTC)

「関連項目について」の関連項目 編集

参考文献と脚注について 編集

上の#脚注の位置(提案)の節では「現行のまま変えない」ということで議論が終わってしまったようですので、新しく節をたてました。

「参考文献」(もしくは参照文献、出典)と「脚注」(もしくは註)が離れているのはおかしい気がするので、これらの間に「関連項目」をはさむスタイルは変えたほうが良いと思っています。現在のところ「参考文献」の節は使い方が曖昧で、参照文献、出典として挙げてあるものと、further reading として挙げてあるものの区別が明確になっていません。一方で ref タグは出典の明記と注記の両方の目的で使われています。別の言い方をすると、出典の示し方は一意に定まっていないということです。関連項目を挟んだ今の配列では、出典明記の方法の違い、すなわち * を使ったリストと <references /> を使ったリストの違いにより、「出典」の置き場所が変わってしまう場合があります。これはちょっと変なのではないかと思いました(変ではないのかもしれませんが…)。

とりあえず、「参考文献」と「脚注」は離さないことにして、問題となっていた、関連項目などとの順序は、Saintjustさんがおっしゃっていたように英語版にならってどちらが先でも良い、としておくのではどうでしょうか。そうすれば <references /> で出典と註を同時に扱っている場合に「参考文献と注」のような節名を付すこともできるようになります。

--Calvero 2008年6月29日 (日) 14:38 (UTC)

「参考文献」節の順序などの変更の経緯を示します。この版 までは「記事の読者に推薦する書籍や論文」であったのが、次の編集 で「記事を書く際に引用・参照した文献」に変化するとともに配置の順序が変更されています。その後この編集 で順序が元(関連項目のあと)に戻され、同時に「読者に推薦する文献」が復帰されました。ここで「参考文献」の用法の多様化が起こっています。

いうまでもなく Wikipedia:検証可能性 は、ウィキペディアで最も重要な方針のひとつです。ので、出典として示された文献は読者に推薦する文献と明確に区別するほうがよいと考えます。そこで、出典として示された文献は節名を「出典」、推薦文献は「推薦文献」、両者の性質を併せ持つ場合は「参考文献」とする、などのように明確化する必要があるとおもうのですが、いかがでしょうか。そのままではちょっとややこしいので、あまりよい提案ではないようにも思いますが、何らかの形で修整は必要であるように思います(reference の訳語として出典というのも何か変かもしれません)。

また、「脚注」についても、現在の文面ではもっぱら出典を示す場合に使われるように読めますが、注釈を加える際にも使われる、という記述も必要であるように思います。加えて、脚注という名称も、様態を示すものではありますが性質までは読み取れるものではないのではないかと思います。すなわち、内容に応じて「出典」「注釈」あるいは「出典と注釈」のような節名を付す必要があるのではないでしょうか。

--Calvero 2008年6月30日 (月) 19:13 (UTC)

執筆コンテストで錦絵新聞の工夫を見てから、ぼんやり考えているんですが、「脚注」の節は、注釈、出典を問わず形式的に。「資料など」という節を作って、「推薦資料」(読者向け)、「参考資料」(執筆者が用いた資料)、「関連資料」(有用と思われるが、執筆者が確認していない資料)に分けて書誌情報と外部リンクなどを。というのを、こないだ思いつきました。両者は並んでいたほうがよくて、関連項目は、そのかたまりの前または後ろ。これは分野をまたいで人が集まらないと、話が進まないかなあ。--Ks aka 98 2008年6月30日 (月) 19:44 (UTC)
それでは話を広げすぎない方向にして、とりあえず「脚注と参考文献の節は離さない、関連項目との前後は任意」というあたりで合意がられるかどうか、ご意見いただきたく思います。Ks aka 98 さんのアイデアを見て気づいたのですが、外部リンクはたまたま形態がウェブサイトなものであって、本質的には紙の本の further reading (推薦文献、関連資料)と同じものなのではないかと思いました。--Calvero 2008年7月1日 (火) 13:33 (UTC)
私はそれで問題ないと思います。--iwaim 2008年7月1日 (火) 13:46 (UTC)
私も「脚注」と「参考文献」が離れているのは違和感を感じています。また「関連項目」はWikipediaの解説本文では説明できなかった関連の深い項目を列挙するということで、本文に近いほうがよいと思います。順番は「関連項目」「脚注」「参考文献」の順番を推奨とするのはいかがでしょうか。--Mark-zero 2008年7月6日 (日) 10:56 (UTC)
ああ、外部サイトは、「出典となるもの」「推薦文献/関連資料と位置づけられるもの」の双方があるでしょうね。「関連項目」は、文中の内部リンクを相互参照に用いて、そこで追いきれない部分の補足というのと「関連資料」という位置づけに分けられるのかなあ。それは判断難しいかなあ。--Ks aka 98 2008年7月6日 (日) 11:34 (UTC)
遅ればせながら、「関連項目」と「脚注」の順番が変更されているのに今頃になって気がつきました。この節での議論の大勢は「順番は任意」という方向であると見受けられ、Mark-zeroさんも「推奨」とおっしゃっているにもかかわらず、Wikipedia:レイアウトの指針では単に順番が変更されているだけなので、「関連項目」が先で「脚注」が後という順番のみが認められているという印象を受けます。また、「関連項目」と「脚注」の順番については、#脚注の位置(提案)でも議論されているので、その内容も参考にする必要があるのではないかと思います。この変更は、非常に多くの記事に影響が及ぶことでもあるので、いったん、Wikipedia:レイアウトの指針の編集を元に戻して、このノートでさらに検討することを提案します。--OiOiO 2008年8月11日 (月) 02:20 (UTC)
特にご意見がありませんでしたので、「関連項目」と「脚注」の順番をいったん元に戻させていただきました。引き続きここで議論が深められることを期待します。
私個人は、まず、Ks aka 98さんが整理されたように「出典となるもの」と「推薦文献/関連資料」とに大別し、それぞれを内部リンク(これは出典とはなりませんが)、外部リンク、文献に細分するのがよいのではないかと考えます。順番については、「出典となるもの」が本文に付随するものであるのに対して、「推薦文献/関連資料」は補足情報であると考えられるので、「本文」、「出典となるもの」、「推薦文献/関連資料」の順が適当ではないでしょうか。 --OiOiO 2008年8月26日 (火) 14:07 (UTC)

脚注と関連項目の位置関係 編集

十二国記において、節が「関連」→「脚注」という順序になっていたのを本指針に従って逆にする編集が行われたのですが、「関連」の中に挙げられている項目がどのように関連しているのかを脚注の形で説明している部分があったため脚注の中身の一部が表示されないという状況になりました。脚注の内容が表示されないのはまずいと思ったので脚注の位置をとりあえず元に戻したのですが、本指針には反する状態になっています。このような場合どのようにするべきでしょうか。--211.135.52.62 2008年9月6日 (土) 17:07 (UTC)

Wikipedia:関連項目には、「本来、内部リンクは本文記事内の文中に包括されるのが理想的であり、「関連項目」のセクションに挙げられる項目は深い関連がありながら本文に組み込むことが困難な項目に限られるべきです。」と書かれています。一般的に言って、「関連項目」の節に関連する記事への内部リンクだけでなく、その記事についての説明が記載されている場合には、何らかの形で本文に組み込むことができる場合が多いのではないかと思います。十二国記の場合も、十二国記#関連の内容は、NHKアニメをのぞき、例えば、「関連作品」のような適切な節を設けて本文に組み込むことができるのではないでしょうか。--OiOiO 2008年9月6日 (土) 17:51 (UTC)
ありがとうございます。ということは、そもそも「関連項目」の節には単純に関連する項目の項目名を列挙するだけにとどめるべきであって、いろいろな説明文(さらには脚注)を付け加える必要があるようなものは関連項目の節に入れるべきではなかったという理解でよろしいでしょうか。いろいろな記事で「○○」は関連項目に入れてもよい、あるいは入れるべきではないといった議論はよく見られますが、関連項目では単純に項目名を挙げるだけにするべきであり説明を付け加えるべきではないという見解は私が知らなかっただけでしょうが、初めて見たような気がします。実際に私の知っている範囲だけでも関連項目の節にあがっている項目にいろいろと説明を付け加えている記事が結構あります。例えば踊る大捜査線#関連項目はちょっと極端かもしれませんが、クイズ!ヘキサゴンII#関連項目ハロー!モーニング。#関連項目程度のものは結構あるように思います。また関連項目に何をあげるか挙げないかで議論になった項目で、最終的にもともと挙げられていた項目の中で関連性の無さそうなもの、関連性の薄そうなもの、関連性に疑問のあるものは除去した上で、残すことになった項目についてはどのように関連しているのかについて具体的な説明を付け加える編集を行った上で残すといったことが行われている記事もあります。これらの項目にも何らかの形で手を加えていくべきなのでしょうか。--211.135.52.62 2008年9月9日 (火) 15:21 (UTC)
ええと、例として挙げられているテレビ番組の類は、基本的に百科事典としてどう書くべきかというようなところも定まっておらず、またどのような記述をすれば百科事典らしくなるかということを踏まえて編集されている方ばかりではなかったりしますので、どうしても記事としては未成熟なところがあります。当面は、特に統一させる方向ではなく、古典的な作品記事などを参照しつつ、テレビ番組の性質を考慮して、どのようにすればいいのかという試行錯誤を、丁寧に議論し、合意を得ながら繰り返す、というような感じで進めていくのがよろしいかと思います。--Ks aka 98 2008年9月9日 (火) 18:32 (UTC)


脚注は末尾で参考資料や関連項目の後、外部リンク、ガテゴリーと言語リンクの前と下記の理由を述べ加筆しましたが、削除されました脚注欄は記事の末尾に作成します。冒頭に「脚注」、「注釈」などの表題を付けるのが一般的です。末尾とは「関連項目」の後、「カテゴリ」と「言語間リンク」の前のことです。これは脚注欄以降に作成された節の中に脚注欄を参照する記述があっても表示されないためです。例えば、脚注欄の後に「関連項目」、「参考文献」やその他の節を作成した場合、これらの節の中で脚注を含む記述があっても脚注としての明細の記述は表示されないためです。たまたま英文版で見つけて、日本語版でもサンドボックスで試したら同じ現象でした。本文「Wikipedia:レイアウトの指針」のここで脚注節の位置が関連項目や参考文献の以前にあるのは問題です。 外部リンクの文が脚注付き文を持つのは考えられませんが、上記の様に明確に脚注の節の順を指針しないと、 参考文献や関連項目は脚注付きの文を暗に認めないこととなります。事実、ほとんどの記事は関連項目、脚注、外部リンク、カテゴリー、言語リンクの順となっています。この指針に沿わず、現実の不都合を避けています。本文の指針での脚注節の順を修正すべきでしょう。加えて、参考文献と脚注を一つの節で共用する記事がありますが、この節の順番と参考文献紹介の文章に脚注付き文言を書けないと言う矛盾を持つこととなりますので、参考文献の節と、脚注の節は別の節とする指針が奨められます。--Namazu-tron 2008年12月7日 (日) 11:55 (UTC)

どこの分野の事実なのか存じませんが、昨日・今日と脚注まわりの作業をした感触では9割以上が脚注→関連項目でしたよ。1%ほどは関連項目に出典があった関係で順番が逆になっているのも見かけましたが。--Knua 2008年12月7日 (日) 14:48 (UTC)
jawpに現存する記事群にて脚注と関連項目の配置順序がどうなっているのかは知りませんが、何が何でも“脚注を末尾に置く”としなければならない理由があるとは理解できません。
Namazu-tronさんがそのように主張する問題意識は「参考文献や関連項目は脚注付きの文を暗に認めないこととなります」(が、それはまずい)ということだと思います。しかし、そんなものが必要なのか疑問に思います。
参考文献に注釈が必要であれば書誌事項の後に注記として添え書きするとか、さらに必要であれば文献解題をすればよいだけです。また、関連事項に関して言えば、2007-06-20 15:11:43 (UTC)にMobnobokaさんが提案され、Wikipedia‐ノート:関連項目#草案更新の提案で議論をへてWikipedia:関連項目の改訂に至る流れの中で確認されたように「関連項目のセクションは短く、必要最小限であるべきです」し、注釈まで使って詳細に述べなければならないような関連項目であれば、それはむしろ本文中に組み込むべきでしょう。そういう意味で言えば、“脚注付きの参考文献や関連項目”というのは文章(記事)構成に失敗しているのであって、そうしたものに配慮しなければならない理由があるとは考えられません。それ以前に、記事全体を構成しなおすことを考えるべきものではないでしょうか。--ikedat76 2008年12月7日 (日) 15:46 (UTC)
>参考文献に注釈が必要であれば書誌事項の後に注記として添え書きするとか、さらに必要であれば文献解題をすればよいだけです
自分もこれに関わる、検討の余地のある編集を行っていますので、もう少し詳しく教えてください。具体的には、変則将棋#参考文献で取り上げた雑誌について、取り上げた理由を説明するために出典付きの解説を含めているのですが、出典部分を脚注に書かないとすれば、どのように変更すべきだということになるのでしょうか。--Tamago915 2008年12月7日 (日) 23:32 (UTC)
(Namazu-tronさんの発言と前後しますが、こちらに書きます)
変則将棋を拝見しました。結論のみ記せば、本文中で参照していないならそもそも記載する必要がないし、記載するのであれば巻号・ページ数まで確認の上、記載すればよい、というのではないでしょうか。
直接ではなく孫引きにて参照するなら「ホゲはモゲである(「週間ふんじゃらけ」<ref>うんじゃらけ[2004: 123]</ref>)」とするとか、やりようはあります。Tamago915さんが示した事例に限定して言う限り、脚注付きの説明を付ける必要性を感じられませんでした。
上での発言は、私の作成した記事で恐縮ですが(厳密に言うと参照文献ではないですが)源伴存#活字本書誌のように翻刻底本を示すとか、そういう場合を想定してのものです。--ikedat76 2008年12月8日 (月) 14:33 (UTC)copyedit--ikedat76 2008年12月8日 (月) 14:37 (UTC)
私から見れば、Ikedat76さんの立場こそ「何が何でも“脚注を参考文献の前に置く”としなければならない」に思えます。原則は脚注→参考文献・関連項目の順でいいと思いますが、逆にしたほうが書きやすければそれでもいい、くらいの緩い規定で十分だと思うし、逆転したほうが書きやすい例として変則将棋をあげました。
記述を除去する方向での解決は望ましいとはいえないので、加筆で構成を見直したいですね。じつは、変則将棋は多くのスタブ記事を統合して作ったものであり、全体の概要を欠いていますので、概要を補って参考文献中の解説を脚注ごと繰り入れる、という形は考えられると思います。
ただ、参考文献の解説に脚注が含まれる余地を残すのは、学術的な厳密さはないかもしれませんが、記事を発展させるためにも必要だと認識していますので、ある程度融通の利く方針にしていただければと考えております。--Tamago915 2008年12月8日 (月) 16:15 (UTC)

(インデント戻し)少々長い書き込みですが、お付き合いください。このノートの各節内を頭から見ました、特に「脚注の位置(提案)」の節、「参考文献と脚注について」の節は当方の言う論点が論じられています。 初めに断りますが、「脚注節」、「脚注」、「脚注付き文」と3者を峻別して書かせてもらいます。脚注節はそれ以前に有る脚注付き文の脚注をまとめて、表示するもの。奨める訳では有りませんが、複数の脚注節があれば、それぞの脚注節はそれまでの脚注をまとめます。
例示すれば:
「脚注」の節は2個の「=」で囲まなくとも3個やそれ以上の個数での「=== 脚注 ===」の小節や小小節と出来ますが、これはこのノートの中のこの節内に書くために3個を敢えて使いました。
複数の脚注の例:
文章1[1]です。文章2[2]です。以上の出典は脚注その1にまとめられます。

脚注その1 編集

  1. ^ 文章1の出典
  2. ^ 文章2の出典

文章1-2[1]です。文章2-2[2]です。文章3-2[3]です。 以上の出典は脚注その2にまとめられます。

脚注その2 編集

  1. ^ 文章1-2の出典
  2. ^ 文章2-2の出典
  3. ^ 文章3-2の出典

文章1-3[1]です。文章2-3[2]です。文章3-3[3]です。 以上の出典は脚注その3にまとめられます。

脚注その3 編集
  1. ^ 文章1-3の出典
  2. ^ 文章2-3の出典
  3. ^ 文章3-3の出典

{{reflist}}による脚注の例: 文章1[g1 1]です。文章2[g1 2]です。以上の出典は脚注その1Lにまとめられます。

脚注その1L 編集

  1. ^ 文章1の出典
  2. ^ 文章2の出典

文章1-2[g2 1]です。文章2-2[g2 2]です。文章3-2[g2 3]です。 以上の出典は脚注その2Lにまとめられます。

脚注その2L 編集

  1. ^ 文章1-2の出典
  2. ^ 文章2-2の出典
  3. ^ 文章3-2の出典

文章1-3[g3 1]です。文章2-3[g3 2]です。文章3-3[g3 3]です。 以上の出典は脚注その3Lにまとめられます。

脚注その3L 編集
  1. ^ 文章1-3の出典
  2. ^ 文章2-3の出典
  3. ^ 文章3-3の出典

以上の例はあくまで脚注節の機能の論理的仕組みの説明です。

さて、当方、主に電気関連を編集しますが、言わば、雑食性で何にでも首を突っ込んで(食らいつき)で和英版とも編集しています。関連項目の後、脚注節が外部リンク(及びカテゴリー、言語リンク)の直前に有るのはあくまで例の記事を挙げると、地上デジタルテレビジョン放送。脚注が全くの末尾はISDB、関連項目直前は中国産食品の安全性などがあり、一様ではありません。兎も角、統一は取れておらず、脚注節の位置は2-3通りと言えるでしょう。尚、アニメやTVドラマは関心が有りません。 「脚注の位置(提案)」の節で紹介されますがSaintjustさんが引っ張ってきた英文では

  1. Quotations (deprecated)記事記述等
  2. See also関連項目
  3. Notes(注記)
  4. References (or combined with "Notes" into Notes and references)(脚注、または注記への統合も可)
  5. Further reading (or Bibliography)参考文献
  6. External links外部リンク
となり、少なくとも脚注は関連項目の後、参考文献の前となっています。

さて、以上の現実を踏まえて、私見及び試案を以下に書きます。 今までのこのノート各節の諸氏の見解を含めると、本文Wikipedia:レイアウトの指針

2.1 導入部
2.2 解説本文
2.3 脚注
2.4 関連項目
2.5 参考文献
2.6 外部リンク
2.7 カテゴリ
2.8 言語間リンク
2.9 テンプレート

において、脚注の位置を変えず、2.4 関連項目、:2.5 参考文献、:2.6 外部リンクには脚注付き文を書くべきでないとの見解も有ります。しかし、「脚注付き文」を書くことは工学に限らず、編集の自由度を増すもので、無味乾燥なプログラム言語や、法律、規則、仕様などと違い、日本語版だけに言及しても、40万に近い日本語版の記事を数万人(?)の編集者の人間性を反映した豊かな百科事典を造りあげる事が出来ると考えます。他の言語も含めれば数十万人の編集者でしょう。 言いたいのは、脚注付き文をやたらに関連項目や参考文献、外部リンクに書かない編集が望ましいとは言え、必要に応じて最良の方法として脚注付き文を書くこともあって良いと言うことです。これが脚注の脚注たる意味合い、機能、由縁です。従って、上記の複数の脚注節の例でも示した通り、脚注節は出来るだけ末尾の節とし、勿論、一つの記事内に一つの脚注節を設ける事となります。 結論として言えば、

2.1 導入部
2.2 解説本文
2.3 関連項目
2.4 参考文献(または脚注)
2.5 脚注 (または参考文献)
2.6 外部リンク
2.7 カテゴリ
2.8 言語間リンク
2.9 テンプレート

と脚注節を関連項目及び参考文献の後、外部リンクの前とすることを提案します。これによって、脚注付き文を関連項目及び参考文献の中に、書ける自由度を持たせつつ、一方、安易に脚注を避ける上手な記述を心がける様に、指針に書くべきでしょう。現状では脚注節が前にあり、関連項目と参考文献が後にある位置では自由度を持たない上に、関連項目と参考文献には脚注付き文を禁止している事となっています。 現状、前述の通り脚注節の位置は2-3通り有りますが、40万弱の記事数ですから、これらはこのままで容認し、または気がつき次第、その都度位置修正も良いでしょう。Botによっては比較的に位置修正をできると考えられる(当方Botは作れませんが)ロジカルな案件とも思えますが、Botで全記事修正する必要は感じません。 また、脚注や脚注付き文は主となる文をすっきりまとめる大事な脇役です。可読性も持たせた文や句ととなります。此所までの長文をまとめると、脚注節は外部リンクの直前に置く、脚注付き文は関連項目と参考文献に置いても良いが、必然性ある場合にとどめ、それを避ける工夫した文章とする。編集の叡智による脚注の生かし方を工夫する。但し、これはあくまで指針であり、脚注節の位置を決めて拘束するものではなく、記事毎の利便と可読性を考慮した位置とする。などを指針とすることを提案します。最後に、現在の指針は先に示した様に、当方の指針の加筆を削除していますが、脚注節の位置によって、前後の脚注付き文の脚注が生きるか生きないかを明示した説明が不足で、混乱させる事もあろうと指摘しておきます。--Namazu-tron 2008年12月8日 (月) 13:42 (UTC) グルーピングを修正。- NEON 2009年1月28日 (水) 10:42 (UTC)

要するに何を言いたいのでしょうか。一番最後に示された配列を推奨としたいということのでしょうか。その結論に至る過程の意味がさっぱり分かりません。「例示」とやらにあるようなマークアップの機能はいちいち説明されずとも知っていますし、適度に注に情報量を吐き出すことのメリットもいわずもがなのことです。
それに「推奨」案も、論理的・構造的におかしいと考えます。「注」「参考文献」「関連項目」それぞれのもっている意味と記事本文との結びつきの強さを考えれば、注→参考文献→関連項目の配列になるのがむしろ当然ではないでしょうか。また、関連項目に挙げた項目にWikipedia‐ノート:関連項目#草案更新の提案でMobnobokaさんが提案されたような簡単な説明以上の説明が必要なら、それは本文に織り込む or 注に落とす、さもなくば簡略な概要のみにとどめて{{See}}や{{Main}}でその項目に誘導するとか、いくらでもやりようはあります。
強いて言うなら、「注」「参考文献」「関連項目」の順序は任意、という以上に何かが言えるとは思えません。逆に、ここまでして特定の順序を強制しなければならない理由は依然として不明です。--ikedat76 2008年12月8日 (月) 14:33 (UTC)


以下は2008年12月11日追記したものです

  1. 時系列で追ってみます。英文版のWikipedia:レイアウトの指針はNovember 2, 2002年に新規に起こされ、March 1, 2003年の段階で、1 Introductory material、2 Lists、3 Structure of the article、4 Quotations、5 Related topics(現在のSee Also関連項目) 、6 References(脚注)の順が決まっています。December 7, 2008現在までに955回編集されています。October 19, 2005頃には一旦一時的に5.2 See also、5.3 External links、5.4 References(脚注)と脚注が最末尾に来ています。February 3, 2006には6.1 See also、6.2 References、6.3 Bibliography、6.4 External linksの順です。この頃から関連項目→脚注の順が定着しています。
  2. 一方、日本語版のWikipedia:レイアウトの指針には2006年2月26日 (日)に導入部分、解説本文、解説本文B、脚注、参考文献、関連項目、外部リンク、へと全面改訂されました。他方、英文版は2006年2月の時点でも、6.1 See also、6.2 References、6..3 Bibliography 、6.4 External links、であり、関連項目→脚注の順のままでした。その後Aotakeさんによって2007年10月3日にWikipedia:関連項目に『(「参考文献」や「注」のセクションとの位置関係については議論があります。Wikipedia:レイアウトの指針およびそのノート参照のこと)。』が本文に加筆されて現在の2008年12月に至っています。
  3. 英文版における3.2 "See also" section、3.3 Notes, Footnotes, or References、3.4 Further reading、3.5 External links に関して、3.3は註釈、脚註または本文の編集の為に参照した文献などの出典です。3.4は更に読むもの、すなわち、言わば「推薦読本Bibliography」であり、Wikipediaを超えて、更に知りたい人に読書や参考として読むように奨める文献を示す節です。単に参照文献や参考文献と称すと「編集の為に参照した文献」との混同を招きます。
  4. さて、改めて言うまでもありませんが、「内部リンク」や「脚註」をクリックしそこに至り、それを見た後、またクリックして本文に戻るのが紙の百科事典と違うものです。
  5. 人文社会系の論文と自然科学系の論文では脚註の位置が異なるとのご意見もありますが、百科事典であるWikipediaではこのような括り方では見る必要は無いと考えます。つまり、この種の学問に類しない記事も多数あるからです。此処ではあくまでレイアウトを論じていますので、個々の記事が、体系[1]システムを成すものを題材としての記事か、比較的「非体系」と言える事柄の事典としての項目であるかと言うことでしょう。自然科学系は言うに及ばず、人文社会系でも、年金経済金融など一例ですが、複雑な体系です。Wikipediaの記事においては歴史すら過去の体系の結果だ考えます。一方、比較的体系を持たない記事には、歴史小説は体系を成しますが、アニメやドラマなどフィクションや、各都市など地理などは体系とは思えません。勿論、非体系の事柄を題名(記事空間名)としながらも記事の本文は体系化した内容とすることは可能であります。このように体系を成すものを記事題名とした記事か、比較的体系と呼べないものの記事かに二分して見る必要があると考えます。体系を成すものの記事本文では脚註や内部リンクを盛り込む事は記事そのものを理解する上で欠かせないものです。
  6. さて、当方の提案の関連項目→2.4 参考文献(または脚注)→2.5 脚注に関して、論点を戻しますと、体系を成すものの記事は内部リンクとともに、出典、参照した文献などをちりばめた本文が無ければ記事そのものの理解はおぼつきません。しかし、これらはクリック一つで飛べ、また戻れます。紙の百科事典に倣って、本文の直後に脚注が続くべきとして現在の指針が2.2 解説本文→2.3 脚注となっています。しかし、2.2 解説本文→2.3 脚注節ディスプレイの画面に納まるなら、有効な配置順となるでしょう。 多くの記事では画面に納まらず、クリックによって飛ばなければなりません。言い換えれば、クリックで飛び、またクリックで本文に戻れますから、脚注は記事全体のレイアウトにおいて何処にあっても読者には全く支障はありません。一方、「関連項目」の節には「目次」から飛ぶ事は別として、本文を読み終えて、その下部に関連項目の節が表示されてこそ、関連項目を示す機能が発揮されます。解説本文の後方に幾つ有るやも知れない、膨大な脚註が羅列し、果たして、関連項目に容易に至る事が出来るでしょうか。ここに、解説本文の後に関連項目が置かれる由縁であり、英文はそのようになっており、長年のコンセサスとして定着していると見受けます。(尚、October 6, 2008に英英文版のナンシー・ペロシや October 1, 2008にWorld Community Gridにスクロール型の脚註節しましたが、しばらくして非スクロール型に戻されました。英語版ではスクロール型は好まれず、また、本文直後に脚註が有る訳ではないので、本文から関連項目に自然な読み順で至る事が出来ます。(尚、日本語版の中国産食品の安全性地デジがスクロール型であり、特に「中国産食品の安全性」では関連項目はスクロール型故に、幸いに本文末、脚註、関連項目ノ3者が画面に納まります。)

以上の理由により、本文→関連項目→脚註の順とした利便性を持ち、且つ日本や日本語版に偏らない標準と考えて良い英文版に倣う提案して居ることとなります。また、体系的か非体系的かは、記事名や本文だけでなく、編集者各人においても該当し、議論が尽きないまたは、結論に至り難い一因でもありましょう。--Namazu-tron 2008年12月11日 (木) 08:44 (UTC)

脚注と関連項目の位置関係の議論 編集

節分け。--ikedat76 2008年12月13日 (土) 20:39 (UTC)

正確に言えば「脚注の節関連項目の節の位置関係の議論」です。--Namazu-tron 2008年12月14日 (日) 09:35 (UTC)

実際の議論や提案などはこのノート最初の節「全面改訂(2006年2月27日)」からおこなわれています。ノート全体の熟読を奨めます。(他からこの節に飛んでこれるよう独立の節と変えました)--Namazu-tron 2008年12月14日 (日) 07:16 (UTC)

何か重大な勘違いがあるようです。“Wikipediaは紙の百科事典ではない”という文言の“ない”は紙にかかるのであって百科事典にかかるわけではありません。紙でないということは論理的な構造を無視していい理由にはなりえません。原則に対して例外を認めるという議論ならまだしも譲歩の余地もあるでしょう。しかし、原則を示す文書において、最初から原則と例外を倒錯させる提案にどんな検討の余地があるのか理解不能です。--ikedat76 2008年12月13日 (土) 01:00 (UTC)

(長文にてインデント戻します):ikedat76さんの 2008年12月8日 (月) 14:33 (UTC)と併せてここでコメントさせて貰います。「{{See}}や{{Main}}でその項目に誘導するとか」に関してコメントします。その前に、これ以前の事柄は当方の書いた「(以下は2008年12月11日追記したものです)」に網羅されていると思っています。標準名前空間を記事と言わせて頂きますが、(1){{See}}や{{Main}}で飛ぶ記事、(2)関連項目で飛ぶ記事、(3)内部リンクで飛ぶ記事とも、飛ぶ理由は違っても、飛んで、ブラウザの戻るボタンで戻れる事においては同じです。(4)脚注は「^」をクリックして戻れます。飛んで所用を済まし戻れる事では(1)-(4)とも同じです。次に貴方の言う「特定の順序を強制しなければならない」との下りについては、ここは「レイアウトの指針」であって「レイアウトのルール/規定/守るべき仕様」とは題されません。すなわち、強制していないから敢えて「指針」と名付けていると解します。ルールとして強制して、それに従わなければ罰則、すなわちブロックです。事実、指針に従わない記事が幾多有ります。つまり、指針とは強制はしていないものです。次に、Wikpediaは寄付で成り立って居ます。寄付でもコメントを見ても、「役だった」などのコメントが大半です。利用者となって編集をして楽しいから寄付すると言うのも有るかも知れませんが、恐らく少数でしょう。つまり、利用者ではなく、Wikipedaiの読者、または閲覧者の為にこのWikipediaが存在するのであって、利用者はその存在を維持、発展をせしめる者です。まずは読者を優先すべきことは言うまでも有りません。指針はルールではありませんが、Wikipediaのルールに従いたく無ければ、ブロックされるか、利用者としての編集を止めるかのいずれかでず。編集者のルール破りの勝手な、楽しみのために存在するもので無い事は明らかです。再び言いますがここは「指針」であってルールではなく、指針に従わない記事は日本語版に限らず数多あります。指針を強制と見ないでください。なお、読者優先と考えれば、指針によって、各記事が統一したレイアウトで統一がとれているのが最も望ましいことです。望ましいのであって、統一すべきとは敢えて言いません。なお、直前の件に関して言えば、原則を指針として案内しているのであって、原則を強制していない。例外は多いにあって良いでしょう。もしそれが読者対してに最適なレイアウトであるならば。指針はあくまで指針の域を出ません。勿論、指針でなく「レイアウトのルー/規定」と移動などによる改名が将来行われれば、強制と化すでしょう。最後に、記事本文や(1)-(4)の中身の事項の有用性は日々刻々と多くの編集者によって最適化(?)されたものとなっています。しかし、レイアウトまたは節の位置や順序は通常の編集とは違う範疇に属し、指針として示し、出来るだけそれに従うのが、望ましく、一般的な編集と違い刻々それらの節の順序を変えることは出来ないもので有ることは明白です。最後に繰り返し提案しますが、本文の後に数知れない脚注が配置され、その後に関連項目が遙か下方に有るのは、読者に配慮した利便性を持っているとは思えません。--Namazu-tron 2008年12月13日 (土) 02:06 (UTC)

強制でなくとも指針は拘束力を持ちます。再度指摘しますが、指針は原則を示すものです。原則を示す文書において、そもそも原則となるべき論理的な構造を無視したものを“原則”として明記するのは誤り以外の何者でもありません。それに“クリックすればどこへでも行ける”というのであれば、「本文の後に数知れない脚注が配置され、その後に関連項目が遙か下方に有」ったところで何の問題があるのでしょうか。端的に言って主張が矛盾・破綻しています。そうであるなら、原則がどこにあるかを確認する内容とし、例外を許容するかたちにすればよいのです。--ikedat76 2008年12月13日 (土) 02:15 (UTC)
横レスで失礼します。
>“クリックすればどこへでも行ける”というのであれば、「本文の後に数知れない脚注が配置され、その後に関連項目が遙か下方に有」ったところで何の問題があるのでしょうか
私も以前、#脚注の位置(提案)の節で脚注を末尾にしてはどうかとを提案したことがあります。とりわけ、携帯電話でPCサイトを見るときには脚注の節が長い記事では「参考文献」、「関連項目」、「外部リンク」に辿り着くまで、かなりスクロールしなければならず大変不便に感じたのです。Namazu-tronさんの仰る「クリックで飛び、またクリックで本文に戻れますから、脚注は記事全体のレイアウトにおいて何処にあっても読者には全く支障はありません」というのは重要な視点だと思います。以前にも書きましたが、脚注の節は通常の閲覧においては上から下まで順番に見てゆく必要性はまったくありません。それと反対に参考文献、関連項目、外部リンクなどは目次からジャンプすることも可能ですが、本文を読んだ続きで見ることも多いものです。ただ、脚注が長ければ「インラインスクロールインラインフレーム表示」という手もあり、Help‐ノート:脚注#長い脚注リストのスクリーン以外のメディア対応で議論されていましたが、残念なことに携帯電話でPCサイトを閲覧する際には「インラインスクロールインラインフレーム表示」にはならず、長い脚注が表示されてしまいます。
>原則を示す文書において、そもそも原則となるべき論理的な構造を無視したものを“原則”として明記するのは誤り以外の何者でもありません。
「解説本文」の次に「脚注」が来るのが論理的な構造になるのかわかりませんが、閲覧者がウィキペディアを読みやすくなるように現実的な配慮を検討することは決して誤りだとは思いません。なぜならウィキペディアは”論理”のためにではなく、”利用”のために存在するものだと思うからです。
記事が充実してくれば出典や注釈は増えてくるものなので、脚注の節は自然と長くなると思います。それでもIkedat76さんの仰るように、現状の「解説本文」の次に「脚注」が来るのを原則として、脚注が長くなったなら末尾にすることを許容する形にするのか、それとも。Namazu-tronさんの仰るように脚注の節が長くなる可能性を最初から見込んで、利便性のために脚注を末尾にするのを原則とするのかということについて他の利用者の意見も聞きたいと思います。私は脚注を末尾にする方に賛同します。--モトカル(会話) 2008年12月13日 (土) 08:31 (UTC)
個人的な意見ですが、わたしとしては「解説本文」→「脚注」→「関連項目」→「外部リンク」という順番がよいと思っています。「脚注」は記事本文の出典明記や補足的な説明のための節で、本文と密接な関係がありますから、Wikipediaの他の記事へのリンク集である「関連項目」よりは前に来るべきだと考えます。ただし、脚注がかなり多い場合はスクロールしてみるのが大変ですので、閲覧者側の利便性を考慮してモトカルさんのおっしゃるように「脚注」を末尾にすることを認めてよいと思います。ケースバイケースでしょうね。--長月みどり 2008年12月13日 (土) 16:53 (UTC)

皆さん、コメント有り難い。先にも書いたように(1){{See}}や{{Main}}、(2)関連項目、(3)内部リンク、(4)脚注全て飛んで所用を済まし戻れる事では(1)-(4)とも同じです。衆知の事柄なら事典の必要は有りません。当方編集に際し、出典を伴う編集を心がけています。この点は誰しも同じでしょう。自分としてはWikipediaは本文もさることながら、出典の明示とその解説がWikipediaの本質ではないかとも思えるものです。従い、逆説的に言えば、出典が多いほど、Wikipedaiらしいとさえ思います。拠って、出典をまとめた脚註節 を本文の直後に持ってくる、従来の百科事典の形式にこだわる必要は無いことは前述の通りです。インターネットを利用し、クリックで飛んだり戻ったり出来る機能が、世の人々のWikipediaの人気と支持を得る理由と思います。これらの機能を伴わないが内容の充実したサイトは数知れず存在しますが、これらの機能を持たない故に、寄付までしようと思わないのだと考えます。極論すれば、理想的には、長い脚註集でもある本文の記事がWikipediaの本質で、便利で役立ち、寄付で成り立つ理由と思います。もし、出典やこれらの機能が失われたら、Wikipediaは財政的に存続出来るか思いを巡らせると、Wikipediaの各方式や機能を生み出した先人、また日々生み出しつつある現貢献者に脱帽です。また、出典を伴わない本文で有ったなら、読者に疑念を抱かせつつ読み進む、単なる長文集に堕ちるでしょう。言い換えれば、多い脚注そのものが実は本質であると、極論の極みではありますが....--Namazu-tron 2008年12月13日 (土) 18:47 (UTC)
またディベートに長けた主に米国人の成せる技と結果とも思います。--Namazu-tron 2008年12月13日 (土) 19:10 (UTC)

「「脚注」は記事本文の出典明記や補足的な説明のための節で、本文と密接な関係があり」という長月みどりさんのような常識的な判断がなぜできないのでしょうか。Namazu-tronさんやモトカルさんは便利かどうかをもっぱら気にしていますが、ある文章がどのような構造をとっているのか、というのも文章の品質を示すひとつの指標です。そこで、長月さんのように常識ある判断をすることを求めます。Wikipediaの「成功」をめぐる「分析」をふくめ、理解不能な発言を続けるのはもう勘弁してくれませんか。--ikedat76 2008年12月13日 (土) 20:39 (UTC)
  コメント スクロールして戻ることに関しての現実的な解のひとつです。脚注が多い記事というのは、本文も長いことが多く、脚注以外の部分からスクロールして元の場所に戻るのがたいへんだったりします。そのような場合に、紙媒体とは違うすばらしい方法があります。それは、同じ記事をもうひとつのウィンドウで表示することです!残念ながら携帯電話ではなかなかできないのですが、携帯の場合は、wikipedia.org のサイトを直接見るよりも、2次利用されているサイトのほうが使い勝手がよいかもしれません。個人的な意見では、Wikipediaは、ブラウザでの閲覧だけではなく、データとして提供され2次利用されていたり、紙媒体に印刷して利用されていたりします。より本質的な利便性ということでいうと、どのような順番になっているにしろ、論理的構造がなるべく一貫しているほうが使いやすいのかなとは思います。とはいえブラウザでの閲覧利用がもっとも多いでしょうから、それに対しアクセシビリティを確保するのことは重要なことです。この議論のそもそもの発端となった、<references />がひとつしか使えないことについては回避方法があるようなので参考までに節を設けて書いておきます。--Mymelo 2008年12月14日 (日) 03:32 (UTC)
ikedat76さん、「本文と密接な関係がある」ということは私もNamazu-tronさんも当然理解しています。しかし、紙の百科事典と違い、本文から脚注へクリックでジャンプして再びクリックで本文に戻るという構造になっている点を考えてほしいと言っているのです。各文末の脚注の番号からスクロールして該当する出典や注釈のある場所に移動するのであれば、当然本文のすぐ後に置くべきです。また本文を読んだ続きで関連項目や外部リンクなどにスクロールで移動する際に脚注の節が邪魔にならないほどの長さであれば、「本文と密接な関係がある」という観点から本文のすぐ後に置くべきでしょう。しかし、Namazu-tronさんも仰るように、出典が充実していることはウィキペディアにとって非常に重要なことですし、ある程度記事の長さが充実してくれば、脚注はすぐに50くらいはにはなりますし、100を超えることもあります。しかし、ウィキペディアの現状は脚注での出典の明示が少ないものが多過ぎるので、携帯で閲覧されたことがなければ、長い脚注の不便さをあまり実感されてないのかと想像します。参考までに以下に脚注の節の数で分類しました。長い脚注はやはり「インラインフレーム表示」になっているものが多いです。「世界基督教統一神霊協会」、「慰安婦」はインラインフレーム表示ではないので、脚注を最後に持って来ています。
「インラインフレーム表示」は確かに便利なのですが、携帯での閲覧には無効であることや印刷の面で問題があるようです。この話題はこの「レイアウトの指針」のノート以外でも、草案としては内容が乏しいですが、「Wikipedia:アクセシビリティ」で閲覧の際の利便性という点からも議論をしてみてもいいのではと思います。


  • 50以上
    • 第二次世界大戦(2008年12月13日 (土) 01:29(UTC)) 62(インラインフレーム表示)
    • 創価学会(2008年9月27日 (土) 12:38(UTC)) 63(インラインフレーム表示)
    • 日本(2008年12月13日 (土) 02:09(UTC))86(インラインフレーム表示)
  • 100以上
    • 池田大作(2008年12月7日 (日) 01:23(UTC)) 115(インラインフレーム表示)
    • 麻生太郎(2008年12月13日 (土) 09:35(UTC)) 119(インラインフレーム表示)
    • 世界基督教統一神霊協会(2008年12月12日 (金) 03:45(UTC)) 120
    • 慰安婦(2008年10月7日 (火) 06:53(UTC)) 144
    • 安倍晋三(2008年12月9日 (火) 10:27(UTC)) 164(インラインフレーム表示)
    • 福田康夫(2008年12月7日 (日) 16:54(UTC)) 190(インラインフレーム表示)
--モトカル(会話) 2008年12月14日 (日) 03:44 (UTC)
印刷面での問題はreflist-scrollクラスを用いることで回避できます。Help:脚注#スタイルと用法やそのノートを確認してみてください。--iwaim 2008年12月14日 (日) 06:11 (UTC)
こと、脚注節内のスクロール方式の印刷に関してはHelp‐ノート:脚注#長い脚注リストのスクリーン以外のメディア対応にて<div class="reflist-scroll">{{reflist}}</div>が考案され、2008年12月6日に350の記事が適用されました。適用前と後の違いは、実際に紙に印刷せずとも、現在の記事や「履歴」の前の版を「印刷プレビュー」機能で確認出来ます。記事の例はファイナルファンタジーXIの登場人物/アルタナ諸国 現代地デジ日本日本語などなど。尚、力量はともかく、PC(電子計算機)は東京オリンピックの1964年以前から、通信も最古参ですが、PC以外、携帯などの利用は皆無に近く、PCでの印刷結果しか知り得ません。悪しからず。--Namazu-tron 2008年12月14日 (日) 07:16 (UTC)

印刷に問題がないとしても、依然としてインラインスクロールインラインフレーム表示にしないと閲覧に不便があり、インラインスクロールインラインフレーム表示にしても携帯ではインラインスクロールインラインフレーム表示にならず閲覧が困難だという事情は変わりません。やはり、末尾にすることが様々なケースにとって不都合がないように思います。 「脚注が本文と密接な関係がある」としても、実際の閲覧にはクリックでジャンプし、クリックで戻るのですから、近くにある必然性はやっぱりないように思います。ですからわたしには脚注が本文のすぐ後に位置していることが「文章の品質を示すひとつの指標」になるとは思えません。それより、紙の百科事典ではなく、オンラインの百科事典であることの特性を生かして、多くの人がスムーズに閲覧できるようにすることの方が読者に大きな利益をもたらすのではないかと思います。理念のために、簡単に解消できる不便さをあえて我慢する必要はあるでしょうか?--モトカル(会話) 2008年12月14日 (日) 09:53 (UTC)

「実際の閲覧にはクリックでジャンプし、クリックで戻る」という論法にしても、当の同じ論法で、「注を最後に置く」配置を原則とするほうがよいという主張への反対に利用できますし、それは既に指摘した通りです。
携帯デバイスでの閲覧についてはMymeloさんより指摘があったとおり、2次利用のサイトを利用すればよい。注が長いのが気になるなら、iwaimさんの指摘の通り、マークアップで回避可能です。
ならば、もはや後は脚注や参考文献付きの文章の書き方として何が常識であるかと言う問題でしかありません。覆された論拠をいつまでも繰り返さないでください。--ikedat76 2008年12月15日 (月) 15:57 (UTC)
>「実際の閲覧にはクリックでジャンプし、クリックで戻る」という論法にしても、当の同じ論法で、「注を最後に置く」配置を原則とするほうがよいという主張への反対に利用できますし、それは既に指摘した通りです。
一度、脚注が本文の後にあり、インラインフレーム表示でない場合の閲覧の際の様子を確かめてみて下さい。本文の最後まで来て、長い脚注の節をスクロールするのが煩わしいので、目次から「関連項目」、「参考文献」、「外部リンク」などにジャンプしようとします。パソコンでも携帯でもページのトップにジャンプします。しかし、その画面は記事の定義を記述した部分であり、目次を見るためには少しスクロールで下がらなければなりません。目次の長い記事(例えば日本)などでは「関連項目」が見えるまで結構スクロールしなければなりません。そこから「関連項目」、「参考文献」などにジャンプはできますがちょっと手間がかかります。しかし、脚注が最後にあれば、本文から自然な流れでスムーズに閲覧できます。カテゴリを見たいときはパソコンでも携帯でもページの最後にジャンプすればすぐそこにあります。長い脚注があっても全く不便がありません。
それに比べ、本文の直後に脚注が位置していること自体は脚注を参照する際の利便性について見たときに、(クリックでジャンプするので)位置的な必然性はなく、実際に何の便利さももたらしません。それどころか上に述べた余分な不便さを発生させます。
>携帯デバイスでの閲覧についてはMymeloさんより指摘があったとおり、2次利用のサイトを利用すればよい。
2次利用のサイトで長い脚注の不便さが解消するのか、インラインフレーム表示で閲覧できるのか不明ですし、たとえできたとしても、その2次利用のサイトがウィキペディアの最新版が即座に反映されるのものなのか、そのサイト事体が長く存続するものかの保証もありません。本来ウィキペディアの中で解決すべき問題であり、それは根本的な解決ではありません。
>注が長いのが気になるなら、iwaimさんの指摘の通り、マークアップで回避可能です。
携帯での閲覧ではインラインフレーム表示にならないことは繰り返し述べていますし、Mymeloさんも携帯電話では同じ記事をもうひとつのウィンドウで表示する方法が使えないことを述べておられます。
>もはや後は脚注や参考文献付きの文章の書き方として何が常識であるかと言う問題でしかありません。
ikedat76さんは論文を見慣れておられるからか、脚注の位置が変わることに強い抵抗感を持たれておられるような気がします。しかし、紙の百科事典とブラウザで見る百科事典は利用形態が根本的に違います。ですから常識とか慣習とか既成概念にとらわれることなく、ゼロベースで誰もが使いやすい、パソコンでも携帯でも使いやすいというアクセシビリティを模索して行くことが大事ではないでしょうか?過去の常識に従うのではなく、ある面ではウィキペディアが新しいものを作り上げてゆくという発想も悪くはないと思います。
>覆された論拠をいつまでも繰り返さないでください。
”討論”ではなく”対話”により、よりよき方向性を模索して行くこの場に”覆す”という言葉はちょっと不似合いのように感じます。--モトカル(会話) 2008年12月15日 (月) 18:51 (UTC)
より本質的な利便性ということでいうと、どのような順番になっているにしろ、論理的構造がなるべく一貫しているほうが使いやすいのかなとは思います」(強調はikedat76)とMymeloさんが指摘されているはずです。他者の発言を都合のよいところだけつまみ食いなされませんよう。
「ウィキペディアが新しいものを作り上げてゆくという発想も悪くはないと思います」と言いますが、百科事典は新しいものを作り上げることではなく、過去の知識の総合が任務です。--ikedat76 2008年12月17日 (水) 14:37 (UTC)

言語版を問わない案件として、英語版にも提起しました。Please join to discussion en:Wikipedia talk:Layout#Change location of section "Notes, Footnotes, or References".--Namazu-tron 2008年12月16日 (火) 00:56 (UTC)
(追伸)尚、英語版レイアウト指針はすでに関連項目節の後に、脚注節が来ています。英文版での提案は脚注節を全ての節の最後の節とするものです。--Namazu-tron 2008年12月16日 (火) 06:37 (UTC)

各言語版は独立して運営されています。この議論を多言語版、それも英語版にだけ(他の言語版にはしないのに)拡散させなければならない理由は何なのでしょうか。よく分かってもいないのに議論を提起し、あちこちに拡散させることについて繰り返し注意を受けてきたはずです。少しは改めたらいかがですか。--ikedat76 2008年12月17日 (水) 14:37 (UTC)
えーと、その英語版の提案ですが、向こうでは即、「過去に何度も出たが、その都度却下されてきた提案」だというコメントがついてますね。英語版では、こういった提案がen:Wikipedia:Perennial proposals(WP:PEREN、「絶えず持ち上がる提案」)にまとめられているようで、今回のNamazu-tronさんの提案を機に、この内容もWP:PERENに追加されそうな様子です。
Ikedat76さんが指摘されているように、各言語版の運営は独立していますが、その一方でこの提案内容については「言語版を問わない」というNamazu-tronさんの考えにも一理あると、私も思います。基本的に、百科事典に書くべき文章についても、そのレイアウトの軸となる「論理構造」の重要性には共通点が多いためです。つまり、Namazu-tronさんが「言語版に問わない提案」だ、というのであれば、「英語版では、すでに何度も提案され、その都度却下されている」ということが、日本語版においてもそのまま反論の材料になりえます。すなわち、英語版で提案された「脚注を最後に位置させる」という提案について、今回Namazu-tronさんが向こうで主張してる内容は、過去何度かもそうであったように、今回も英語版では却下される可能性の方が高いでしょうし、(Namazu-tronさんが考えるように)これが「言語版を問わない」という認識であればこそ、それを日本語版で個別に議論しても同じ結果になるのが当然、ということになるでしょう。
私の個人的な感情では、英語版での議論のように「過去に却下されたから」ということで、議論を停止させてしまうことには、正直言うと少し抵抗もあります。ただ、他の人達がこれまでにさんざん議論し、メリットとデメリットのバランスを考慮した上で却下されたことなのに、(モトカルさんやNamazu-tronさんがそうだというわけではありませんが)、まだウィキペディア全体についての知識や経験が少なくて、見聞きした範囲が狭い人が、「あ、俺、いいこと思いついた!」という程度のノリとか、「俺はまだこの議論に参加してない! 俺ならこの結論をひっくりかえせる(……実際は同じ意見の持ち主が何人もいて、それでも結局通せなかったということには、本人だけが気付いてない)」という感じで、浅い考えで何度も提案されることがあるというのも現状です(Namaza-tronさんの英語版での提案への最初のコメントからも伺えます)。その都度、説得と議論のために人的リソースが費やされるというのは避けたいことです。特にウィキペディアのようなシステムでは、「とにかくゴネて議論を続け、相手を疲弊させたら勝ち」になりかねない部分がありますので、注意しなければなりません。それは最終的には、議論参加者のブロックという、当人にとっても不幸な結果につながりかねないことでもありますし。
そういった状況を招かないためにも、(1)議論された当時と取り巻く状況が大きく変わった、(2)以前の議論では重大な要素の見落としがあり(その点がまったく議論されておらず)それを指摘することでメリット/デメリットのバランスが大きく変わりうる、などのことがない限り、今回、英語版で「過去に却下された提案と何ら変わらない」という形で却下されても、それは妥当な判断だろうと考えます。そして、私もNamazu-tronさんと同じく「言語版を問わない」提案だと思っているので、日本語版でもその英語版での判断を理由に却下されるのも、また妥当な判断だと考えます。
また、もう一つの提案であった「関連項目」の位置についてですが、これについては現在の英語版と日本語版では少し状況が異なるようです。以前、Wikipedia‐ノート:関連項目で、iwaimさんが正しく指摘されてましたが、英語版の"See also"と日本語版の「関連項目」は、多少意味合いが異なります。"See also"は「〜も参照」、つまり本来ならばその本文中で説明されてもおかしくない内容が、別項目として分割されているような場合(小項目主義的な項目に多いと思われますが)に誘導する意味合いがあり、言わば「分割されてるが、本文を補完する役割が大きい(構成によっては本文の一部にもなりうる)項目」です。このようなケースでは、これらの項目はNotes(註釈)よりも、本文との結びつきが強いと見なせるため、Notesの前に"See also"が来るというのは、文章の論理構造から見ても理に適ってます。一方、「関連項目」となると「本文は本文で完結しており、それとは独立に存在する、関連した別項目」のニュアンスが高まるため、この場合には、現在の日本語版での解説のように、註釈や参考文献よりも後に書かれるのは妥当だと考えられます。実際、上述の英語版でのNamazu-tronさんの提案に対して、「英語版では、昔はSee alsoではなくRelated topicsが用いられていた時期があり、この頃はReferencesの後に書かれていたものがある」という旨のコメントが出ています[2]。日本語版で「関連項目」という節名で用いている場合、この点に関しても、Ikedat76さんが指摘されてるように、現状の記載を変更する必然性は低いと考えます(「関連項目」の中身の妥当性には、またいろいろ議論があるでしょうが、それはまた別の適切な場所で議論すべきということで)
また、モトカルさんの意見についてですが、アクセシビリティは確かに重要な要素ですが、「アクセシビリティだけ」が重要な要素だというわけではありません。この件も他の多くのケースと同様、メリットとデメリットの両方を生む類いのものであり、アクセシビリティだけに囚われて、他の重要な要素に対する注意を行わなければ、バランスを欠いたものにしかなりません。またアクセシビリティに関しては、英語版では「脚注を後ろに持っていく事で、読者の混乱とアクセシビリティの低下をもたらしかねない」というのが以前の却下理由の一つにあげられています[3]ので、本当の意味でアクセシビリティの向上につながると言えるかどうかは、少なくとも統一見解は得られてないのではないか、と考えます。ただ、統一見解が得られていないということであれば、Ikedat76さんや長月さんが最初の方で言われているように、ケースバイケースで「脚注を後ろに持っていく方がよいケース」というのも存在する余地があり、柔軟に対処して構わないとは思いますが。もしアクセシビリティの向上に関心がおありでしたら、むしろもう一歩進んで、「現在の並び順で、アクセシビリティを追求するにはどうすればいいのか」ということに思考のリソースを向けていただけると、ウィキペディア全体への大きな貢献につながると思いますので、是非よろしくお願いします。--Y tambe 2008年12月18日 (木) 03:18 (UTC)
>他者の発言を都合のよいところだけつまみ食いなされませんよう。
ikedat76さん、 「より本質的な利便性ということでいうと、どのような順番になっているにしろ、論理的構造がなるべく一貫しているほうが使いやすいのかなとは思います」というMymeloさんの発言は、御自身は脚注の位置がどこかいいかということ意見をお持ちだとしても、この発言事体はどちらかがいいということに言及せず、「どのような順番になっているにしろ」という言葉が示すように「脚注」の位置をどこにするにせよ、ケースにより使い分けるよりは統一されている方が使いやすいという見解だけを述べておられるのだと私は受け取りました。もし、私の理解が違うとしても、インラインフレーム表示というパソコンにおいては有効な方法も携帯電話では使えない問題を私は訴えてきているであり、Mymeloさんも「同じ記事をもうひとつのウィンドウで表示すること」(これもインラインフレーム表示のことかと受け取りました)は「残念ながら携帯電話ではなかなかできない」と同じことを述べておられるのですから、”他者の発言を都合のよいところだけつまみ食いしている”ではないことをご理解下さい。
>百科事典は新しいものを作り上げることではなく、過去の知識の総合が任務です。
これもこちらの趣旨を誤解されておられるようですが、紙の百科事典とオンライン百科事典はそもそもメディアとしての形態が異なるのだから、紙の本を前提に考えれらた既存の形式に無理に合わせる必要はないということを述べているのです。ウィキペディアは上から記事が始まり、長い記事であってもスクロールで下へ下へと読み進めます。これをわざわざ紙の百科事典に合わせて左右に1ページずつ振り分けて左のページを読み終わると右ページに移るという風にはする必要はないことはおわかりになると思います。このようにウィキペディアは既に紙の百科事典とは違う形式をいくつも持っているのではないでしょうか?
Y tambeさんへ、英語版でも、脚注を末尾にする提案がなれたが、却下されたということは初めて知りました。却下理由の一つが「脚注を後ろに持っていく事で、読者の混乱とアクセシビリティの低下をもたらしかねない」ということですが、これだけではよくわかりませんね。どなたでもよいですが、英語版での議論の要旨を説明して下さる方がおられれば、議論の節約にもなると思います。私もそうですが、英語での議論をきちんと理解できる方はそう多くもないと思いますから・・・ ただ、英語版での議論は参考にはすべきだと思いますが、いつなされたの議論なのか、日本と違う状況があるのかなども考慮すべきであり、必ずしも英語版の議論に必要以上に影響されることもないと思います。
それから、私は「アクセシビリティだけ」が重要な要素だと述べているわけではありません。コメントをよく読んでいただければ、本文と脚注が密接であることは認識していることはわかっていただけると思います。その上で、実際の閲覧においてはクリックによって参照する脚注が本文の直後に来る位置的必然性は薄いこと、そして、必然性は薄いのに、本文から関連項目などに向かう際に長い脚注が邪魔になることを述べ、「理念のために、簡単に解消できる不便さをあえて我慢する必要はあるでしょうか?」と内容の関連性と閲覧の際の利便性を計りにかけた上での自身の見解を述べていることをご理解下さい。
また、「現在の並び順で、アクセシビリティを追求するにはどうすればいいのか」ということは2006年に#脚注の位置(提案)という節で同じ問題を論じた際に、Saintjustさんが「スクロールテキストボックス」(インラインフレーム表示)という方法を教えて下さり、早速、長い脚注をインラインフレーム表示に変更して下さり、私はよい解決方法だと納得しました。しかし、その後、他の記事だったか忘れましたが、「スクロールテキストボックス」は視覚障害者の方がテキストリーダーで記事を読む際に、読めなくなるという意見により「スクロールテキストボックス」に変更した脚注を元の長い脚注に差し戻され、この方法が使えないのかと残念に思った記憶があります(その議論はどこだか思い出せず探せていません。)しかし、現在はそのような異義が唱えられることもないのか、インラインフレーム表示になっている記事もいくつかあります。しかし、携帯電話での閲覧に大変不便があることがわかりました。この問題も携帯電話でPCサイトが見られるようになる以前は問題とならなかったでしょう。もちろん、携帯電話のPCサイトビューワーフルブラウザが進化してインラインフレーム表示が可能になるかもしれません。
それから、英語版の議論がどの程度の人数での議論だったのか気になるところですが、日本語版での議論についても、結構重要な議題であっても、実際に議論に参加する人はまだまだ少ないことが多いと思います。前回にはなかった携帯電話ではインラインフレーム表示で解決しないという新たな問題も提起しているので、もっと多くの人のいろんな意見を聞きたいと思います。--モトカル(会話) 2008年12月18日 (木) 13:50 (UTC)

あらためて確認しておくと、ここでの提案はガイドライン文書の内容を変えようというものです。ガイドライン文書は確かに公式な方針ではなく、強制力はないとしても強制力を持ちます。例えば、ページの分割と統合ページの改名もガイドラインに分類されていますが、これらに従わずに記事の分割・統合・改名等を強行すれば、最悪の場合、投稿ブロックに至る場合もあることは周知の通りです。

これは確かに極端な例かも知れません。「拘束力をもつ」ということがどういう性質の事柄なのか、よく考えていただきたい。拘束力の有る文書の文言を変更すれば、その変更に即して、何万とある記事の全体に影響があり、それは当然にWikipediaの書き手・読み手にも及びます。そうした重要な変更である以上、軽々に行ってよいはずがなく、変更による影響や混乱の可能性にもかかわらず、実行するべきだと他者を納得させられるしっかりした論拠が必要です。逆の結論を導くためにも使えるような論拠しか持たない、生煮えの提案などを採用できるわけがないのです。

繰り返し指摘しますが、「理念」(おそらくWikipediaの理念と言いたいのでしょう)云々のはるか以前、はるか手前にある文章の書き方の常識を逸脱した提案であると言う意味で、この提案は採りえません。文章というものは、構造で読ませるものです。同じ情報量が含まれる文章でも、不適切な配列や構造で書かれたものと、そうではないものとでは、読者にとって全く異なる質を備えたものになります。その意味で、本文と脚注を隣接させるという構造は、まさに長年にわたって用いられ・定着してきたという意味で、論理的な文章の書き方として実績のあるものです。そして、Wikipediaが紙の百科事典ではないとしても百科事典ではないわけではない以上、本文と脚注を隣接させる仕方に従わなければいけないのです。あくまでも例外として容認する、ということまでは譲歩してもよいかも知れませんが、それにしたって、そんな非常識で恥ずかしい構造の文章といわざるを得ません(個人的にはそんなモノを書く人と同じコミュニティのメンバだなどと見られたくないと思います)。

こうした実績ある構成を覆すには、非常に強力な論拠が必要です。クリックすればどこへでも行けるというのであれば、どういう配置・構成をとってもかまわない以上、配置・構成を決める根拠はそれ以外に求めなければならない。2008年12月15日 (月) 18:51 (UTC)で不便だ不便だと言っているが、それを言うならどこへ行くのだって不便です。脚注や参考文献まで含めて“がっつり読み”たければ、それに適したデバイスでアクセスすればよいのです。少なくとも、現存する各種の形態デバイスの画面では大容量の情報を表示して読むのは明確に不適です。不適なデバイスで不適なことをしている、そういうことがらに何故対応しなければならないのか、全く必要性を認められません。そもそも、携帯デバイスを通じて“がっつり読み”込むような需要があるという客観的な根拠が何かあるのでしょうか。

さらに言えば、この文書が変更されることにより、長年定着し・馴れ親しまれてきたレイアウトが変更されることによる読者や書き手の混乱のことも(Y tamabeさんが指摘されるとおり)考慮すべきです。そうした混乱をおしてまで進めるほど価値あることなのでしょうか。「あ、俺、いいこと思いついた!」程度の思いつきで混乱を生むのではなく、「「現在の並び順で、アクセシビリティを追求するにはどうすればいいのか」ということに思考のリソースを向けていただけると、ウィキペディア全体への大きな貢献につながる」というY tamabeさんの指摘に耳を傾けて下さい。その意味では、この議論を通じてまともに耳を傾けるべき提案はただ唯一Mymeloさんのそれであって、“脚注末尾式”ではありません。

拘束力を持つ文書の内容に関する議論であると言うこと、われわれが書いているのがあくまで百科事典の記事であるということ、基本的な点を取り違えないよう求めます。--ikedat76 2008年12月18日 (木) 15:58 (UTC)

こんにちは。

  • まず「脚注を末尾に」という表現をやめませんか?
  • 社会学系だと、脚注の後ろに文献リスト(references)が来るスタイルが多く、この場合書誌情報は文献リストに載せることになりますから、「脚注→文献リスト」という順序を崩すというのは、かなり大きな問題です。広く用いられているスタイルを実質的に排除するということであれば、一般的なスタイルそれぞれについて閲覧時の便のみでなく、加筆や修正時のことなどからも丁寧に検討がなされるべきだと思います。
  • 「関連項目」を脚注の前に置きたい、ということであれば、まずは関連項目の意味合いを再考する必要があると思います。現在は「本文中で説明しきれないが重要な関連のある項目について列挙」となっていますが、本文との関連性が強いものなら、脚注の上、周辺的なものという位置づけが強いならカテゴリや外部リンクの近くということになるのではないでしょうか。現状、関連項目がけっこう長いリストになってしまっているというところもありますが、適宜整理されて、それほど長いものにならないのであれば、使い方によって、脚注の上にあるということには、それほど抵抗はないです。
  • カテゴリの表示位置は変えないという前提であれば、外部リンクや関連項目がカテゴリの上・「脚注および(あれば)文献リスト」の下というのが、意味合い的には妥当だと思います。「一番下」に固まっているというのは、スクロールバーがあれば比較的容易に辿り着けますし、たとえば脚注の見出しのところに下部へ跳べるリンクを置くというようなことも考えられます。長い本文と、長い脚注の間というのは、記事全体からすると、わかりにくい、辿り着きにくい位置ではないかと思うのですがいかがでしょう。
  • 「解説本文」と「脚注」を逐一往還しながら読む、というのはそれほど一般的ではないと思うのですが、そこはいかがでしょうか。逐一読んでいないのであれば、一連の脚注があり、ひとまずは読まれるべきものとして存在していることは、スクロールや、跳ぶために一番上から目次まで下がっていくことが多少煩わしくとも、不便とするべきではないでしょう。
  • ぼく個人としては、基本的には本文は本文として読んで、よほど意味が取れないような場合や論旨が怪しくて出典を確認したい場合は補助的に「本文から脚注へクリックでジャンプして再びクリックで本文に戻る」こともありますが、ウィキペディアの記事程度の長さではスクロールしてしまうことも多いです。本文読んでから、脚注は脚注として出典の素性や補足説明などを流し読みする。本文から離れたりインラインスクロール表示になったりするほうが閲覧に不便だと感じます。まあ、ぼくの感覚はともかくとして、テキストリーダーで読めないなら撤廃すべきでしょう。
  • たとえば、電車の中などで読み物として携帯で閲覧するような場合は、関連項目や外部リンクへのアクセスが容易なほうが使い勝手がいいのだろうと思うのですが、百科事典として読むという場合、基本的には何かを知りたくて読むと思うのですね。簡単なことなら、本文を読んでいるところで知る事ができます。調べ物のとっかかりとして、ということなら、きちんと本文を読み、脚注を確認する必要があります。これらと比べると、関連項目や外部リンクは重要性に劣ると思います。また、そのような使い方を前提とするのであれば、ブラウザやプリントアウトでの閲覧を第一に考え、携帯で閲覧することが可能であり、その際の利便性を考慮することは必要だとしても、関連性に沿って並んでいるほうが好ましいと思います。

ひとまず、そんなことを感じました。--Ks aka 98 2008年12月18日 (木) 16:14 (UTC)

2008年12月本日現在、Wikipedia:レイアウトの指針の冒頭には「この文書はウィキペディア日本語版の考慮すべきガイドラインです。多くの利用者が基本的に同意しており、従うことが推奨されますが、公式な方針ではありません。必要に応じて編集することは可能ですが、大きな変更を加える場合は、先にノートページで提案してください。」と書かれています。考慮すべきガイドラインには規定、推薦、心がけることなど、いろんなガイドライン(指針)が含まれます。この英文版の冒頭の指針も似た意味合いです。長々と主張していますが、あくまでこれに乗っ取っているものです。英文版でも書き込みましたが、Wikipediaが発足して僅か6-7年です。当方はWikipediaは30年や50年で消滅するとは思っていません。おそらく永代人類遺産の百科事典となるとの思いで編集に参加しています。すでに多くを書き述べていますので繰り返しませんが、脚注節の配置とそれによる利便性は言語や人種を問わないことであるし、また永代百科事典としては言語版間でも統一するのが望ましいと思います。 この指針を公式なガイドラインとするならせめて、本文→関連項目→脚注と英文版にも見る(または沿う)順番としてもらいたい。最後に携帯電話などでは使い辛い件に関して、欧米でもアフリカ奥地でも携帯電話などPC以外で見る読者が増えれば、いずれ将来、配置順とその利便性の問題が挙がってくるでしょう。--Namazu-tron 2008年12月18日 (木) 23:35 (UTC)

すでに指摘済みのことですが、各言語版で運営は独立していますし、enWPにおいてNamazu-tronさんの提案は繰り返し提案されるがそのたびに却下される提案にカテゴライズされました。また、各言語版間で統一云々と言う前に、ご自身の提案はjaWPですら合意を得られていないはずなのに、何に「統一する」というのでしょうか。
「この指針を公式なガイドラインとするなら」と言っておられますが、「公式なガイドライン」などというカテゴリーは少なくともjaWPには存在しませんし、そのような提案はNamazu-tronさんご自身を含めて誰一人提案していません。また「この指針を公式なガイドラインとするなら」に続いて、英語版に従うべきだと言う主張は論理が飛躍していて理解不能です。
永代なり人類なりを引き合いに出してもかまいませんが、「永代」「人類」がenWPの運営に従うことを意味するに過ぎないなら(Namazu-tronさんの言っていることとはつまりこれに他なりません)、それは大変な誤解だと言わざるを得ません(単なるenPOVに過ぎません)。
なお、Namazu-tronさんについてはコメント依頼を提出いたしました。これ以上、各所での議論のかく乱はただちにおやめください。迷惑です。--ikedat76 2008年12月20日 (土) 07:43 (UTC)
まず、「インラインスクロール」という言葉を「インラインフレーム(表示)」という表現に修正し、「PCサイトビューアー」という名称はブラウザの機種名のようなので、フルブラウザと訂正しました。それらのブラウザの中でもインラインフレームに対応しているものとそうでないものがあるようです(未対応のものはJavaScript、Ajaxが使えないモバイルブラウザだけかもしれません)。ただ、インラインフレームに対応しているフルブラウザでも、ある記事(安倍晋三)では携帯でもインラインフレーム表示になり、他の記事(池田大作)ではインラインフレーム表示にならず、長い脚注が表示されてしまいます。これは記事の容量が大きいため、タグなどがきちんと読み込めていないからかとも想像しますがよくわかりません。とにかく、インラインフレームに対応しているフルブラウザでも長い脚注が邪魔になるという不便が生じてしまうことがあることがわかりました。
しかし、Ks aka 98さんが「脚注の見出しのところに下部へ跳べるリンクを置く」という非常によいアイデアを出して下さいました。正に”コロンブスの卵”でこんな簡単な方法を思いつきませんでした。例えば下記のような体裁になるでしょう。
== 脚注 ==
[[#参考文献]] / [[#関連項目]] / [[#外部リンク]]
{{reflist}}


これなら、携帯での閲覧の際に、インラインフレーム表示にならず、長い脚注がそのまま表示されてしまっても、参考文献、関連項目、外部リンクにすぐにジャンプでき、長い脚注を無駄にスクロールせずに済みます。是非これは解説本文に、補足説明として記載した方がよいと思います。よい解決策を出して下さったKs aka 98さんに感謝いたします。この方法が採用されるなら、問題にしていた不便さが解消されるので、私としては脚注を記事の最後に位置させるという提案は取り下げます。
ただ、ikedat76さんの発言について思うところがありますので、「#利用者に対する不適切な発言について」という節を設け、意見を述べたいと思います。 --モトカル(会話) 2008年12月20日 (土) 13:26 (UTC)

ひとつの記事に複数の脚注を設ける方法 編集

この議論の発端となった、<references />の下部に脚注があった場合に、脚注が表示されなくなることについて回避方法があるようなので書きます。

<ref>と<references />に、group という属性(でしたっけ)をもたせることによりグループ化を行えます。

下記のようにマークアップすると、

*ほげ<ref group="本文注">これは本文の注</ref>
**<references group="本文注" />
*ふが (2008年) <ref group="参考注">これは参考の注</ref>
**<references group="参考注" />

こんな感じになります。

  • ^ これは本文の注
  • ^ これは参考の注
  • 以上です。--Mymelo 2008年12月14日 (日) 03:32 (UTC)

    利用者に対する不適切な発言について 編集

    まず、万が一にも誤解されることのないように明確にしておきますが、ikedat76さんがNamazu-tronさんについてコメント依頼(コメント依頼/Namazu-tron)を出されたことはまったく無関係です。昨日の時点で書こうと思っていましたが、時間がなかっただけです。

    Ikedat76さんの2008年12月18日 (木) 15:58 (UTC)の発言(差分)はウィキペディアの利用者に対する不当な非難を含んだ侮辱的なものであり、看過できないので意見を述べておきます。以下に引用しますが、問題の箇所を強調表示しました。

    <引用開始> 本文と脚注を隣接させるという構造は、まさに長年にわたって用いられ・定着してきたという意味で、論理的な文章の書き方として実績のあるものです。そして、Wikipediaが紙の百科事典ではないとしても百科事典ではないわけではない以上、本文と脚注を隣接させる仕方に従わなければいけないのです。あくまでも例外として容認する、ということまでは譲歩してもよいかも知れませんが、それにしたって、そんな非常識で恥ずかしい構造の文章といわざるを得ません(個人的にはそんなモノを書く人と同じコミュニティのメンバだなどと見られたくないと思います)。 <引用終わり>

    「非常識で恥ずかしい構造の文章を書く人」というのは直接的には(本文と脚注を隣接させる仕方を変えることを提案をした)私(モトカル)とNamazu-tronさんのことですが、結果的には以前に「脚注を記事の最後にしてはどうか」と提案したPeachLoverさん、Tamago915さんも含むことになります(#脚注の位置(提案)の節を参照)。つまり、Ikedat76さんは、これらの利用者たちは非常識で恥ずかしい者たちなので同じコミュニティのメンバだなどと見られたくないと仰っていることになります。これは明らかに侮辱的な発言です。脚注の位置を変えたらどうかという提案する人は現状の並びで何かしら不都合を感じたからこそ提案しているのです。それに比べ、Ikedat76さんは 「百科事典記事というのは基本的に論文のスタイルで書くことが求められている」などと本文と脚注を密接される形式が常識という点を盛んに強調され、それを分離する形式を「非常識で恥ずかしい構造の文章」とまで酷評しながら、脚注を記事の最下部することを例外としては認めるような発言もされ矛盾しています。

    それに脚注の位置を変えることで困る点については、「拘束力の有る文書の文言を変更すれば、その変更に即して、何万とある記事の全体に影響があり、それは当然にWikipediaの書き手・読み手にも及びます」、「同じ情報量が含まれる文章でも、不適切な配列や構造で書かれたものと、そうではないものとでは、読者にとって全く異なる質を備えたものになります。」、「年定着し・馴れ親しまれてきたレイアウトが変更されることによる読者や書き手の混乱」などと抽象的なことばかり述べて具体的な点をまったく示せていません。ですから、奇しくもTamago915さんが「私から見れば、Ikedat76さんの立場こそ「何が何でも“脚注を参考文献の前に置く”としなければならない」に思えます」と仰ったように、「変えたくない」という思いしか伝わって来なかったというのが率直な感想です。

    それから、「軽々な提案」、「生煮えの提案」をするなというような御意見についてですが、先にも述べたように提案の背景には実際に不都合や不便さを感じたという事情があるのです。それにウィキペディアは素人が自由参加するプロジェクトです。小中学生も実際に参加しています。百科事典をろくに見たことがなくても、論文の書き方を知らない人でも参加する権利があるのです。大人が働く企業であっても門外漢や素人などが、変な固定観念がなく、ゼロベースで考えられる分、専門家では決して思いつかない自由な発想で素晴らしい企画や発明をすることが実際にあります。もちろん、ウィキペディアを知らなさ過ぎて、未熟な質問や提案をする利用者もいるでしょう。それでも、ウィキペディアの経験者が適切に答えてたり、諭したりすることで、初心者もそれを機会にウィキペディアをより知ってゆくことにもなります。そういうことがあるのが当たり前なのがウィキペディアではないでしょうか?(Ikedat76さんがご自身をそう思っておられるかわかりませんが)熟練者の自分にとって未熟な者たちと関わるのが面倒だとお考えなら、他の経験者に任せておけばいいのですし、未熟な者たちと同列に見られるのが御免だとお考えなら、Nupediaのような専門性の高いウィキサイトに参加されればよいでしょう。

    私は要約欄に「討論ではなく対話のつもりでいます」と書きましたが、Ks aka 98さんは、頭ごなしに相手の提案を否定することなく、問題点を一つ一つ一緒に考えようとして下さり、私がこうあるべきだと伝えたかった議論の見本をみごとに見せて下さり、そのような姿勢から生まれた思わぬ解決のアイデアをいただきました。

    それでは今回のお願いですが、本文と脚注を離す形式を「非常識で恥ずかしい構造の文章」と評するのは個人的な意見なので文句は言えません。しかし、「(個人的にはそんなモノを書く人と同じコミュニティのメンバだなどと見られたくないと思います)。」というコメントは上記にも述べたように、それぞれの問題意識から正当なかたちで提案をした利用者を非常識で恥さらしの者のように言う侮辱的発言です。

    これを是非、撤回していただきたいと思います。具体的には取り消し線ではなく除去でお願いします(公式方針であるWikipedia:ウィキケットでも批判の消去が認められています)。もし、そのコメントを取り消されるなら、そのコメントに対して書いた私のコメントもすべてを同様に(取り消し線ではなく)除去いたします。(そんなことがあるとは信じたくないですが)万が一撤回なさらないとしたら、Ikedat76さん自身のウィキペディアのプロジェクトや利用者に対する意識・態度について疑問を持つ利用者は少なくないと思っています。--モトカル(会話) 2008年12月20日 (土) 13:26 (UTC)

    私の立場も組み込まれているのですが、正直なところ「どちらでもいい」と思っているし、例外を認める言質が取れているので、それで十分かなと。
    脚注の位置についていわせてもらえば、ページ末尾にあるほうが脚注に移動しやすい(スクロールバーをいちばん下まで持って行けばいいわけですから)ので、脚注末尾のほうが使いやすいと思っていますが、そうではない人もいるわけで、どちらにすべしという考えはありません。
    あと、書籍でもページごとに脚注を組むスタイルがあるわけですが、ウィキペディアでそれを採用するとページ末尾(=記事末尾)に脚注が来ることになります。それは「非常識で恥ずかしい構造」なのでしょうか。--Tamago915 2008年12月20日 (土) 14:08 (UTC)

    モトカルさんご指摘の箇所については確かに言いすぎであったことを認めます。しかし、下記の通り、モトカルさんの発言に対し大幅な異論があります。モトカルさんの発言がなければ以下の異論も意味不明になる以上、抹消しないでいただくためにも、取り消し線による対応とします。

    > 脚注を記事の最下部することを例外としては認めるような発言もされ矛盾しています。

    議論を収束させるための妥協として、原則と例外の関係においてあくまで例外として容認するという譲歩を示すことが矛盾なのでしょうか。個人的には全く受け入れがたいのは変わらないにせよ、現実的な落としどころとして容認できる限界を述べるという姿勢ではなく、あくまでも断固として突っぱねれば満足していただけるのでしょうか。

    > 抽象的なことばかり述べて

    提案者の方々が、自分のしていることについて、どういう性質のことなのか理解していないからこそ、このような指摘をしています。提案者の方々がなさっているような影響の大きな事をするのであれば、慎重に熟慮の上でするように求めることが不当だと言うのでしょうか。

    討論/対話をどう定義されているのか興味はありませんが、しっかりした根拠のある提案なのかどうなのかを厳しく検討することがいけないことであるかのように非難されるとは、理解し難いことです。

    > 変な固定観念がなく、ゼロベースで考えられる分、専門家では決して思いつかない自由な発想で素晴らしい企画や発明をすることが実際にあります。

    くどいようですが、百科事典はゼロベースではありません。脚注や参考文献を伴って、しっかりした根拠を示すことを要求されるタイプの文章の書き方についても同様です。新しいことをしたければ別のところでお願いします。

    > もちろん、ウィキペディアを知らなさ過ぎて、未熟な質問や提案をする利用者もいるでしょう。それでも、ウィキペディアの経験者が適切に答えてたり、諭したりすることで、初心者もそれを機会にウィキペディアをより知ってゆくことにもなります。そういうことがあるのが当たり前なのがウィキペディアではないでしょうか?(Ikedat76さんがご自身をそう思っておられるかわかりませんが)熟練者の自分にとって未熟な者たちと関わるのが面倒だとお考えなら、他の経験者に任せておけばいいのですし、〔後略〕

    「未熟な質問や提案でも」おかしな提案でも、反対しなければ通ってしまいます。別に面倒だとは考えていませんが、その種のことがらを常習的にしているユーザをそのままにし、他の有益なことに使われるべきリソースが浪費されるのを看過するのが正しいことだとは思っていません。

    ついでに指摘しておくと、携帯デバイスからの閲覧に適合化させることをしなければならないような需要の存在を示す客観的な根拠を求めたはずですが、いまだ示されていません。また、携帯デバイスからの閲覧において、脚注の位置を現行から変更しなければならないような、閲覧や利用のされ方をしているという根拠もお願いしたはずですそれとも、これも不当な要求で、「他の利用者への侮辱」で応えるに値しないということなのでしょうか。--ikedat76 2008年12月20日 (土) 14:36 (UTC)

    > モトカルさんご指摘の箇所については確かに言いすぎであったことを認めます。
    ありがとうございます。それを認めて下されば心は収まります。恐らく感情が高ぶっておられたゆえのことと思います。取り消し線による対応で了解しました。
    >議論を収束させるための妥協として、原則と例外の関係においてあくまで例外として容認するという譲歩を示すことが矛盾なのでしょうか。個人的には全く受け入れがたいのは変わらないにせよ、現実的な落としどころとして容認できる限界を述べるという姿勢ではなく、あくまでも断固として突っぱねれば満足していただけるのでしょうか。
    こちらが満足するかどうかではなく、「非常識で恥ずかしい構造」とまで語気を強めて酷評するものなのにであれば、例外として認めるのはおかしい辻褄が合わないと感じたのです。
    提案者の方々がなさっているような影響の大きな事をするのであれば、慎重に熟慮の上でするように求めることが不当だと言うのでしょうか。
    そうではなく、脚注の位置を変えることによって、(抽象的ではなく)具体的にどういう不便があり、どういう混乱が起こるかをIkedat76さんは語っていないということを指摘したのです。
    > しっかりした根拠のある提案なのかどうなのかを厳しく検討することがいけないことであるかのように非難されるとは、理解し難いことです。
    検討することがいけないと言っているのではなく、初めから完璧な提案である必要なければ、提案してはいけないということはないと思うのです。それに提案というより、相談でいいと思うのです。誰もがウィキペディアを熟知しているわけではなく、不便に思ったこと、疑問に思ったことを熟練者に相談するような敷居の低さが必要だと思います。
    > 百科事典はゼロベースではありません。脚注や参考文献を伴って、しっかりした根拠を示すことを要求されるタイプの文章の書き方についても同様です。新しいことをしたければ別のところでお願いします。
    ゼロベースという言葉は決して既存の形式や慣習をまったく無視しろと言っているのではありません。それにとらわれずという意味くらいで”ゼロベース”という言葉を使っています。それに、パソコンで閲覧するという形式自体が紙の事典とは既に異なる形態や様式を持っているということは前回も述べております。
    > 「未熟な質問や提案でも」おかしな提案でも、反対しなければ通ってしまいます。
    ikedat76さんお一人が目を光らせてなくても、現在のウィキペディアにはそれなりの経験者がいると思うのですが・・・
    > 携帯デバイスからの閲覧に適合化させることをしなければならないような需要の存在を示す客観的な根拠を求めたはずですが、いまだ示されていません。
    携帯での閲覧者はPCでの閲覧者よりは少数であるからといって、携帯でのアクセシビリティを無視してよいとは思いません。以前、インラインフレーム表示の脚注が視覚障害者などがテキストリーダーで読む際の障害になるということで、通常の長い脚注に差し戻された経験があります。携帯での閲覧者より、はるかに少ないと思われるこれらの利用者についても、「バリアフリー」が浸透してきたこの時代に、小数だということで無視してよいとお考えですか?また現在、国民の相当数が携帯を所有し、携帯のPCサイト用のフルブラウザも当然機能が更に向上して行くと思われます。ウィキペディアがこれほど著名になった現在、携帯電話での閲覧者はますます増加してゆくのではないでしょうか?更には携帯だけではなく、PSPニンテンドーDSなどのゲーム機にもPCサイト用のブラウザが搭載されるようになって来たという状況もよく考えて行く必要があると思います。
    > 携帯デバイスからの閲覧において、脚注の位置を現行から変更しなければならないような、閲覧や利用のされ方をしているという根拠もお願いしたはずですそれとも、これも不当な要求で、「他の利用者への侮辱」で応えるに値しないということなのでしょうか
    私は自身の意見についての根拠を問われたことに対して、「不当な要求」だとか「他の利用者への侮辱」で応えるに値しない」などというような応答などしたことはありません。ちょっとおかしな意図のわからない質問ですね。脚注の位置本文の直後だと長い脚注をスクロールするのこと際に不便感じているというのは私自身の経験であることは以前も今回も述べています。しかし、Ks aka 98さんが出して下さったアイデアが採用されれば、その不便は解消されるので、もう不要な話となります。--モトカル(会話) 2008年12月20日 (土) 16:27 (UTC)、(校正)モトカル(会話) 2008年12月20日 (土) 21:11 (UTC)

    言いだしっぺ一人を除いて、もう議論は収束しそうですから、これを最後に。

    > 携帯での閲覧者はPCでの閲覧者よりは少数であるからといって、携帯でのアクセシビリティを無視してよいとは思いません。

    2つの問題があると考えます。第1に“少数であるから無視してよい”と言っているのではありません。私自身も、仕事で帰りが遅いときなど、携帯電話で新着投票所をよく眺めていますから。そうではなく、携帯デバイスでの閲覧時に、注や参考文献まで含めて入念に読み込む(Ks aka 98さんの言う「「解説本文」と「脚注」を逐一往還しながら読む」)ような読み方が有力なもので、それに対応する必要が発生しているものなのか疑問だと言っているのです。その種の不便さをモトカルさんが感じているという発言は認識しますが、その種の不便さが生じないような読み方しか携帯デバイスには期待していない(ちゃんと読むならPC等の広い画面で読む)読者も反面ではいます。携帯デバイスでの閲覧者が記事を読む仕方として、そもそも「「解説本文」と「脚注」を逐一往還しながら読む」ことが有力であるのか疑問なのに、影響力の大きい決定をしてまで対応する必要があるのかと言うことです。

    第2にこれは単にせいぜい利便性の問題で、アクセシビリティの問題ではないでしょう。不便でも記事(情報)にアクセスで(「読め」)ないわけではありません。しかし、例えば、不適切なマークアップ(例としてHelp:箇条書き#よくある、あまり良くない例Help:箇条書き#なぜいけないの?を参照)はスクリーンリーダの処理を妨げ、視覚障碍者がアクセスする(「読む」)ことを妨げます。一方で、W3Cのアクセシビリティに対する勧告はデバイスに対する非依存性を定めてはいるものの、「すべての入出力装置をサポートしなければならないという意味ではないことに注意してください」(ウェブコンテンツ・アクセシビリティ・ガイドライン 1.0)。そういう意味で言えば、アクセシビリティを云々するなら、注の配置を問題にするのは優先順位が間違っていると思います。注の配置がどうであろうと、スクリーンリーダの処理には影響がありません。

    > ikedat76さんお一人が目を光らせてなくても、現在のウィキペディアにはそれなりの経験者がいると思うのですが

    出典を明記することや検証可能な記述をすることを方針としてうたいながら、その具体的な方法について、jaWPは未整備です(別に他の言語版が整備されていると言う意味ではありません)。関心があることがらだからこそ、どういう議論や提案が出てくるのかウォッチリストに入れて注視して、やってきたのです。それが自警(目を光らせて)扱いですか。まあ、どうでもいいですが…。--ikedat76 2008年12月21日 (日) 02:34 (UTC)

    > 携帯デバイスでの閲覧者が記事を読む仕方として、そもそも「「解説本文」と「脚注」を逐一往還しながら読む」ことが有力であるのか疑問なのに、影響力の大きい決定をしてまで対応する必要があるのかと言うことです。
    これまでの私が不便さを訴えていたのは携帯電話での閲覧の際に、本文を読み進めた流れで関連項目や外部リンクへ行く際に不要なスクロールを強いられるということであって、「「解説本文」と「脚注」を逐一往還しながら読む」ことに支障があるとは一度も述べていません。ただ、ウィキペディアはPCでの閲覧が基本であり、携帯電話での閲覧はあくまで補助的なものであるから、PCでの閲覧と同じ利便性を求めなくてもいいのではというのも一つの見解としてはわかります。ただ、携帯しか持っていない人の利便を考えることも考慮すべきという考えもできます。どちらが正しいかという話ではなく、ウィキペディアの利用者間で方向性を決める話ですね。
    > アクセシビリティを云々するなら、注の配置を問題にするのは優先順位が間違っていると思います。注の配置がどうであろうと、スクリーンリーダの処理には影響がありません。
    「すべての入出力装置をサポートしなければならないという意味ではないことに注意してください」という見解はあくまでW3CというWWW技術の標準化団体のものであって、ウィキペディアとしては参考にするとしても必ずしもそれと同じ見解を取らないといけないというわけではありません。
    > 関心があることがらだからこそ、どういう議論や提案が出てくるのかウォッチリストに入れて注視して、やってきたのです。それが自警(目を光らせて)扱いですか
    ”目を光らせる”というのは本来、悪い意味の言葉ではなく、私も少しも悪い意味で使っているつもりはありません。その言葉の後に「それなりの経験者が対応してくれる」という趣旨のことを書いているのですから、善意に取って下さるようお願いします。
    とりあえず、この議論はこれくらいでよいかと思います。--モトカル(会話) 2008年12月21日 (日) 04:24 (UTC)
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