ピエール・ド・クーベルタン

フランスの教育者であり、近代オリンピックの基礎を築いた創立者

クーベルタン男爵ピエール・ド・フレディフランス語: Pierre de Frédy, baron de Coubertin, 1863年1月1日 - 1937年9月2日)は、フランス教育者であり、古代オリンピックを復興させ近代オリンピックの基礎を築いた創立者である。一般にピエール・ド・クーベルタン男爵と呼ばれる。

ピエール・ド・クーベルタン
Pierre de Frédy, baron de Coubertin


任期 1896年1925年

出生 (1863-01-01) 1863年1月1日
フランスの旗 フランス帝国パリ
死去 (1937-09-02) 1937年9月2日(74歳没)
スイスの旗 スイスジュネーヴ

人物

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フレディ (Fredy) 家は元はイタリアから来た家系にあたる。パリ7区フォーブール・サンジェルマン西側界隈ウディノ通り (Rue Oudinot) 20番地で生まれ育ち、イエズス会系の学校に通った。英国パブリックスクールの教育に興味を持ち、ワーテルローの戦いイギリスフランスに勝ったのは、パブリックスクールの心身ともに鍛える教育の成果との記述を残している。

近代オリンピックの父

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歴史書オリュンピアの祭典の記述に感銘を受け、「ルネッサンス・オリンピック」の演説の中で近代オリンピックを提唱した。賛同者によって国際オリンピック委員会: CIO: IOC)が設立され、1896年アテネオリンピックの開催へとつながった。 1912年第5回ストックホルム大会の芸術競技で、自らは金メダルを獲得していると言われ、この時彼は「ホーロット&エッシェンバッハ」という筆名を使い芸術競技文学部門に参加して優勝したと言われ、この時の出品作品はフランス語で「オド・オ・スポール(Ode au Sport、日本語で『スポーツ賛歌』)」とされる。ただし、これが本当にクーベルタン本人の作品なのかは確証がなく実際は今も不明のままとなっている。

また、彼の考案・提唱によって近代五種競技が1912年のストックホルムオリンピックから種目に採用された。

役職

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国際オリンピック委員会事務局長、第2代国際オリンピック委員会会長などを務め、近代オリンピックのシンボルである五輪のマークも考案した。

クーベルタン男爵を始めとして、国際オリンピック委員会の設立時のメンバーであったアンプティル男爵、及び、初代イギリスオリンピック委員会会長のデスボロー男爵は、フリーメイソンリーの会員である。

発言

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「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」(フランス語: L'important, c'est de participer、直訳:重要なのは、参加することである)の言葉が有名だが、実はこの言葉は彼の考え出したものではない。この言葉は聖公会ペンシルベニア大主教であるエセルバート・タルボットEthelbert Talbot)が1908年ロンドンオリンピックの際にアメリカの選手たちに対して語った言葉である。

1908年のロンドン大会が開催された当時、アメリカとイギリスは犬猿の仲となっており、アメリカの選手団はロンドンに来てから色々な嫌がらせを受けた。それで気の滅入ってしまったアメリカ選手団が気分転換にセント・ポール大聖堂聖餐式に出かけたところ、この大聖堂で説教を受けて、大いに勇気づけられた。この時の出来事とセリフが伝わり感銘を受けたクーベルタン男爵が、各国のオリンピック関係者を招いての晩餐会の席上でのスピーチで引用して演説したところ、たちまちこのセリフが“クーベルタン男爵の演説”として有名になり世界に広まってしまった、というのが真相である。しかし、クーベルタン男爵は実際に本人が考え出したセリフとしてその席で以下のように語った。

自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである — ピエール・ド・クーベルタン、1908年ロンドン大会

そのほかにも以下の言葉を残している。

”休戦”という考えもオリンピズムの本質的要素です。だからこそ、その周期は厳格に守られなければなりません。オリンピックは人間の春を祝い、世代の継承にたたえる4年に1度の祭典なのです。 — ピエール・ド・クーベルタン、肉声記録より[1]
オリンピックを復興し、世界中の若者たちに幸福と友好に満ちた出会いの場を提供しなければならないのです。みなさん、漕手たちを、走者たちを、そして剣士たちを海の向こうに送り出しましょう。彼らは平和の使者になるのです。 — ピエール・ド・クーベルタン、L'Athlétisme, son rōle et son histoire. La Revue Athletique. 2e année. no 4. 1891[1]

遺書

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オリンピック発祥の地に自らの心臓を埋葬するようにと遺書に書き、亡くなった後の1938年3月にギリシャのオリンピアで埋葬式が行われ遺書の通り心臓が埋葬された[1][2]

脚注

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  1. ^ a b c 日本放送協会. “「平和の祭典」、大いなる矛盾 - 映像の世紀バタフライエフェクト”. 映像の世紀バタフライエフェクト - NHK. 2024年7月25日閲覧。
  2. ^ クーベルタンとオリンピズム|オリンピックを知る|JOC - 日本オリンピック委員会”. JOC - 日本オリンピック委員会. 2024年7月25日閲覧。

関連作品

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関連項目

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その他の役職
先代
  ディミトリオス・ヴィケラス
  国際オリンピック委員会会長
第2代:1896 - 1925
次代
  アンリ・ド・バイエ=ラトゥール
先代
(創設)
  冬季オリンピック組織委員会会長
初代:1924
次代
  Edmund Schulthess (en)