陰陽石 (小林市)
陰陽石(いんようせき)は、宮崎県小林市東方の岩瀬川(浜の瀬川)内にある、加久藤火砕流堆積物により造り出された自然造形の奇岩で、夫婦岩に見える。霧島ジオパークの霧島ジオサイトにもなっている[1]。前宮崎県知事・東国原英夫の発案により、2009年(平成21年)に「宮崎県観光遺産」(自然遺産) "生命発祥の聖地" に指定された[2][3]。
概要
編集岩瀬川三之宮峡の下流に位置する。約33万年前の大噴火で発生した加久藤火砕流により、多量の火山灰や溶岩が堆積、それが川により侵食されて形成された奇岩である[1]。高さ17.5mの男根の形状をした陽石(男石)と、その傍らに周囲5.5mの女陰の形状をした陰石(女石)がある[1][4]。昇天する竜が美女に見惚れて降りてきたという伝説がある[4]。
古くから縁結び、子宝及び安産祈願の神として崇められている。しかし観光地として広く知られる様になったのは、1917年(大正6年)に新道が新設されてからである(それまでは畦道を通る以外になかった)。1950年(昭和25年)に小林市営による「浜の瀬荘」が開設され、更に現在、毎年9月23日の秋分の日に開かれる「陰陽石祭り」も行われるようになった[1]。
また1929年(昭和4年)4月、旧制小林中学校 及び、小林高等女学校(県立小林高校の前身)への講演の為に野口雨情が小林を来訪しており、その際に陰陽石にも訪れて後述する歌を詠んでいるが、1951年(昭和26年)にその歌碑が建立されている[4][5]。
2009年(平成21年)、当時の宮崎県知事東国原英夫の発案により、宮崎県は陰陽石を宮崎県自然遺産"生命発祥の聖地"に選定した[3]。
選定理由:他に類を見ない巨大さと自然の造形の見事さ、また男石・女石の両方が揃っていること[3]。
小林郷陰陽石図
編集慶応3年(1867年)、薩摩藩に仕えた木脇啓四郎が画を描き、関盛長が文を記した『日向国諸県郡小林郷東方村陰陽石図』が刷られている[6]。文言は以下の通り。
我殿の
管轄 めす日向国諸県郡小林郷東方村の岩瀬河の川中に奇 しき石あり。女男の隠処の形にて並び立るさまやがて図の如し。さるは天地 の未成 の時に成坐 る二柱の産霊の大神は女男の元つ大神にして御霊代なむ。やがて玄牡玄牝の形なる事、神典の註釈ともにここら見へて既 く下総の国人宮負定雄かそをひと川に集めて桜木に上せて世に行はる。されば其は悉く唯大形のかたちこそ似通ひつれ此神石にくらぶれば一ツ日にいふでき限りにはあらずかし。さて、此陽石の根の方には萓薄抔生茂りてさなから陰毛の如く、又亀頭口 と覚しき処よりは彼万物感陽気とかいへる春の頃には必らず水垂り滴落ちて恰も精液の如く、はた陰石の方はとことはに水したたり落ちてともに心ありげにみゆるなどあやしとも奇しともいへば更にて正しく神の造り給へる物とこそいふべかりけれ。抑小林の郷はしもやがていにしへの夷守 〔原文割注:景行天皇紀十八年春三月天皇将向京以巡狩筑紫国始到夷守是時於岩瀬河人衆聚集於是天皇遙是詔左右曰其集者向人也者賊乎及箕遣兄夷守弟守二人令観之弟夷守還来而諮之曰諸県君泉姫依献大御食而其族会之と見え又延喜式の兵部諸国器丈の条に上略日向国云々亜椰野後夷守真研云々とみえて国史式等にも載せられて名たかき処なりけり〕のさとにてかの天下に二ツなき二上の槵触 の高千穂の麓なればかかる尊き神石のあらむ事も自然なる理とやいふべからむ。今般板に彫りて世におほやけになし給へるにつけてそのよくいささか記し侍るになむ。かくいふは
薩摩国殿人 関盛長
慶応三年丁卯十二月
野口雨情の歌
編集脚注
編集関連項目
編集関連人物
編集座標: 北緯32度0分58.87秒 東経131度0分23.17秒 / 北緯32.0163528度 東経131.0064361度