横尾 東作(よこお とうさく、天保10年2月18日1839年4月1日) - 1903年明治36年)7月22日)は、仙台藩士、英学者官吏探検家硫黄島探検航海を成し遂げた南進論の立役者。号は鳳兮[1]、名は常綱[2]。「東洋のコロンブス」と呼ばれる[3][4][5]

よこお とうさく

横尾 東作
晩年の横尾
生誕 1839年4月1日
陸奥国加美郡下新田村
死没 (1903-07-22) 1903年7月22日(64歳没)
墓地 谷中霊園
出身校 慶應義塾
職業 仙台藩士・英学者官吏探検家
著名な実績 硫黄島の日本領土領有のきっかけを作る
テンプレートを表示

経歴 編集

戊辰戦争 編集

陸奥国加美郡下新田村(現在の宮城県加美郡加美町)に、医師・横尾常徳(玄鑑)の嫡男として生まれる[6]嘉永元年(1848年)、16歳で仙台に遊学し、藩校「養賢堂」の学頭・新井雨窓に入門する[7]文久元年(1861年)、23歳で江戸に出て林学斎に入門する[8]。文久3年(1863年)初秋、仙台藩江戸藩邸公儀使の大童信太夫の勧めで、福澤諭吉の塾(のちの慶應義塾)で学ぶ[9][10]慶応元年(1865年)頃、藩命により横浜でアメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンに英学を学ぶ[11]明治元年(1868年)仙台藩英学教授となる[12]

慶応4年6月、戊辰戦争に際して、奥羽越列藩同盟と新潟の各国領事との交渉のため、語学力を買われて同盟側全権の葦名靱負(仙台藩参政)に同行することとなり、牧野新兵衛庄司陳平星恂太郎らとともに新潟に出張した[13][14]。7月、会津藩雑賀孫六郎米沢藩佐藤市之允と共に、新潟からイギリス船アルビオン号に乗って横浜に赴き、11ヶ国の公使に対し、列藩同盟の正当性を訴える檄文を送付した[15][16][17]。また、3人で品川沖の榎本武揚の艦隊をひそかに訪問し、越後高田への攻撃を求めている[18]。新政府側は横尾に対し「生捕った者には500両、首級を挙げた者には300両、住所を密告した者には150両」という懸賞金をかけて捜索したが、横尾はアメリカ船ポートセット号に乗って仙台に逃げ帰った[19]

維新後 編集

明治3年(1870年)7月、東京府少属・運上所掛となるが10月に辞任[20]

明治4年(1871年)2月、山東直砥と共に英学校「北門社」の設立に関わる[21]

同年7月、仙台藩知事伊達宗敦に呼び戻され、仙台県中学校英学所(辛未館)の英学教師となる。同校は翌明治5年(1872年)に中学北校に改組されるが、同年10月に廃校となった[22][23]。なお、辛未館での教え子に英語学者の斎藤秀三郎がいる[24]

同年11月、神奈川県10等出仕、修文館教師[25]

明治9年(1876年)神奈川県を辞し、警視庁雇外国掛[26]。明治14年(1881年)警視属[27]。明治16年(1883年)警視庁記録課長[27]。明治17年(1884年)4等警視・警視庁沿革史編纂委員長[27]

明治18年(1885年)「南洋公会設立大意」を起草、植民による南進論を提唱した[28]。明治19年(1886年)2月、警視庁を非職となる[29]。明治20年(1887年)、逓信大臣榎本武揚に建白書を提出し、明治丸を借り受けて硫黄島探検航海に赴く。この航海には、東京府知事高崎五六や、府に鳥島拝借と同島への定期航路の願書を出していた玉置半右衛門依岡省三なども同行した[30]。この航海が1891年(明治24年)の火山列島の日本領編入のきっかけとなったとされる[31]。明治23年(1890年)、南洋貿易会社「恒信社」を設立した[32]。明治32年(1899年)、再び南洋諸島を航海し、足尾銅山鉱毒事件の被害農民をオランダ領東インドの未開拓の島嶼に入植させることを提案した[33]。明治36年(1903年)小石川の富田鐵之助邸を訪問中に急逝[34]。墓所は谷中霊園乙4-4[35]

横尾東作の旧蔵資料229点は、2012年11月に子孫から国立国会図書館憲政資料室に寄贈され、同年12月に「横尾東作関係文書」として公開された[36][37]

翻訳書 編集

  • 『童蒙教育問答 第一級』1883年。NDLJP:811118 
  • 『童蒙教育問答 第二級』1883年。NDLJP:811119 
  • 『童蒙教育問答 第三級』1883年。NDLJP:811120 
志爾敦(エドワード・シェルドン)の教育書の翻訳。
亜、若、扁都礼(アレクサンダー・ジョージ・フィンドリー英語版)の水路誌 A directory for the navigation of the North Pacific Ocean の翻訳。

脚注 編集

  1. ^ 河東田 1917, p. 3.
  2. ^ 河東田 1917, p. 214.
  3. ^ 河東田 1917, p. 97.
  4. ^ 竹下 1943, p. 16.
  5. ^ 「東洋のコロムブス」『毎日新聞』1897年10月26日付。
  6. ^ 河東田 1917, pp. 2-3, 213-215.
  7. ^ 河東田 1917, p. 215. p. 3 には「嘉永元年」とあるが、年齢が合わず誤りと思われる。
  8. ^ 河東田 1917, p. 215. p. 3 には「安政二年」とあるが、年齢が合わず誤りと思われる。
  9. ^ 河北展生「慶應義塾初期入門姓名録について――鉄砲洲、新銭座時代を中心として」『史学』第27巻第2/3号、三田史学会、1954年5月、334-387頁。 
  10. ^ 藤 1985, pp. 16–17.
  11. ^ 河東田 1917, pp. 4, 215に「ジェームス・ブラオン」とあるが、宇野 1973, p. 120は「サミュエル・ブラウンの誤ではあるまいか」とし、宮城県教育委員会 1976, p. 99, 藤 1985, p. 17 などもこれに従う。
  12. ^ 河東田 1917, p. 215.
  13. ^ 河東田 1917, p. 6-8.
  14. ^ 藤田 1911, pp. 563-564.
  15. ^ 河東田 1917, p. 37-47.
  16. ^ 藤田 1911, pp. 565.
  17. ^ 「奥羽越列藩軍務総督等。謹告」『新井奥邃著作集 第九巻』(春風社、2004年12月), pp. 27-31.
  18. ^ 太政官編『復古記』巻118・明治元年8月19日条(『復古記 第七冊』内外書籍、1930年11月、p. 217. NDLJP:1148337)。北原雅長『七年史』第19巻・戊辰記3(『七年史 下巻』啓成社、1904年, 戊辰記3, p. 79. NDLJP:772821)。
  19. ^ 河東田 1917, p. 47-53.
  20. ^ 河東田 1917, pp. 61, 215.
  21. ^ 河東田 1917, pp. 61-62, 216.
  22. ^ 河東田 1917, pp. 62, 216.
  23. ^ 宮城県教育委員会 1976, pp. 98–109.
  24. ^ 重久篤太郎「仙台の洋学」仙台市史編纂委員会編『仙台市史 4 別篇2』(仙台市役所、1951年)、p. 366.
  25. ^ 河東田 1917, pp. 62-63, 216 は修文館の「校長」であったとするが、 藤 1985, p. 229 は「横尾がこの当時、修文館に教師としていたことは明らかであるが、校長であったかどうかは、正確に言えば不明である」としている。
  26. ^ 河東田 1917, pp. 63, 216.
  27. ^ a b c 河東田 1917, p. 217.
  28. ^ 竹下 1943, pp. 6–14.
  29. ^ 河東田 1917, pp. 79, 217.
  30. ^ 河東田 1917, pp. 86-87, 217.
  31. ^ 河東田 1917, pp. 90.
  32. ^ 竹下 1943, p. 22. 河東田 1917, pp. 91, 217 には明治24年とあるが、竹下によればすでに明治23年末に最初の船を派遣しているので、誤りと思われる。
  33. ^ 河東田 1917, pp. 93-104, 218.
  34. ^ 河東田 1917, pp. 104, 218.
  35. ^ 河東田 1917, pp. 104.
  36. ^ 「憲政資料室の新規公開資料から」『国立国会図書館月報』第632号、国立国会図書館、19頁、2013年11月。doi:10.11501/8353946NDLJP:8353946 
  37. ^ 横尾東作関係文書”. 国立国会図書館リサーチ・ナビ. 2022年3月21日閲覧。

参考文献 編集

  • 宇野量介『明治初年の宮城教育』宝文堂、1973年2月。 
  • 河東田経清『横尾東作翁伝』1917年。NDLJP:925927 
  • 竹下源之介『横尾東作と南方先覚志士』南洋経済研究所〈南洋資料〉、1943年6月。 
  • 藤和也『黎明期の仙台キリスト教――傍系者の系譜』キリスト新聞社、1985年1月。 
  • 藤田相之助『仙台戊辰史』荒井活版製造所、1911年7月。NDLJP:773429 
  • 松永秀夫「横尾東作 : 硫黄島を日本領土に(一八三九〜一九〇三年)」『太平洋学会学会誌』第86/87号、太平洋学会、2000年4月。NDLJP:10495366 
  • 丸山信 編『人物書誌大系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月。ISBN 4816912843 
  • 宮城県教育委員会 編『宮城県教育百年史 第一巻 明治編』ぎょうせい、1976年3月。 

関連項目 編集

外部リンク 編集