源重遠
平安時代末期の武将
源 重遠(みなもと の しげとお、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。源重実の子[1]。尾張源氏の祖。
時代 | 平安時代末期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 浦野四郎 |
官位 | 兵庫允、信濃守 |
氏族 | 清和源氏満政流(尾張源氏) |
父母 |
父:源重実、母:不詳 養父:源重宗 |
兄弟 |
重遠、重成、重忠、重貞(重定)、重頼、時成 重近、実宗、仲重、源実 |
妻 | 源義家女 |
子 | 浦野重直、葦敷重頼、小河重房、山田重弘 |
経歴
編集『尊卑分脈』によると、重遠の父・源重実は鳥羽院武者所の四天王の一人とまで言われる人物。
1160年-平治の乱では、源義朝陣営に加わり敗れることになる。美濃国子康森において落武者狩りに遭い重実は自刃。これにより、重遠は美濃国から尾張国春日井郡浦野村(現・愛知県春日井市)に遷され、浦野を名乗るようになった。[2]
また、養父(祖父)重宗の追討に関与した源義家(八幡太郎)の娘を妻とした。
1185年(文治元年)4月-近江国に住む前に出羽守となっており、重遠はすでに80歳を超えていたが、源頼朝のもとに参上。頼朝は累代の家人である重遠の志に感嘆し、重遠の舎弟十郎、並びに僧の蓮仁らに扶持を与えた。この時、重遠は平治の乱の後も源氏譜代の家人として平家に従わず、頼朝が平家打倒の兵を挙げたのを喜んだが、京の東国武士の乱暴は平家時代以上に酷く、そのために生活が苦しい旨を頼朝に訴えた。頼朝は彼の訴えを認め、その権利や財産を安堵した。[3]
事跡に不明瞭な部分が多いものの、後に尾張を本拠とする豪族として史料上に現れる山田氏や小河氏(水野氏)、高田氏、三河の足助氏などは全てこの重遠に系譜を連ねている。
系譜
編集脚注
編集- ^ 『尊卑分脈』では重実の長子としているが、同時に弟の重成、重忠、重貞にそれぞれ「一男」「二男」「三男」と記す。
- ^ “浦野一族の発祥と系譜”. 2023年1月21日閲覧。
- ^ “清和源氏 系図コネクション”. 2023年1月21日閲覧。