谷川一男
谷川 一男(たにがわ[1] / たにかわ[2] かずお、1899年(明治32年)9月11日[1][3] - 1954年(昭和29年)1月17日[1][3])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
谷川 一男 | |
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生誕 |
1899年9月11日 日本 福岡県 |
死没 | 1954年1月17日(54歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1921年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
経歴
編集福岡県出身[1][3][4]。測量業・谷川常吉の息子として生まれる[1]。小倉中学校(現福岡県立小倉高等学校)を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業[1][3][4]。同年10月、騎兵少尉に任官し騎兵第5連隊付となる[1][4]。1924年(大正13年)10月、騎兵中尉に昇進し、1926年(大正15年)2月、兵科を航空兵に転科し航空兵中尉に任官[1]。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業した[1][3][4]。
1930年(昭和5年)12月、下志津陸軍飛行学校教官に就任[1]。1931年(昭和6年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、陸軍省軍務局課員、ソ連・ポーランド駐在、参謀本部員を務め、1936年(昭和11年)8月、航空兵少佐に進級[1]。1937年(昭和12年)8月、ソ連大使館付武官補佐官に発令され、1938年(昭和13年)3月、航空兵中佐に昇進[1]。1939年(昭和14年)1月、参謀本部員に転じて帰国[1]。1940年(昭和15年)7月から8月まで、仏印・タイ・マレーに出張した[1]。同年12月、陸大教官に就任し、1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進んだ[1][4]。
1941年7月、第23軍司令部付に発令され日中戦争に出征[1][4]。同年9月、大本営幕僚部付となり、同年11月、南方軍参謀兼連合艦隊参謀に発令され太平洋戦争に出征[1][3][4]。1942年(昭和17年)4月、航空兵団参謀に発令され満州に赴任[1][4]。同年6月、組織改編により第2航空軍参謀に就任[1][4]。1943年(昭和18年)1月、第8方面軍参謀に発令されニューブリテン島ラバウルに赴任[1][3][4]。1945年(昭和20年)2月、大本営付に発令され帰国[1]。同年3月、大本営陸軍部参謀兼連合艦隊参謀副長に就任し、同月、陸軍少将に進み終戦を迎えた[1][3][4]。同年8月、憲兵司令部付となり、同年11月に復員した[1]。
伝記
編集- 谷川敏『追想陸軍少将谷川一男』谷川敏、1991年。
親族
編集- 長男 谷川敏(陸軍大尉)[1]
脚注
編集参考文献
編集- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。