高野松山
日本の漆芸家
高野 松山(たかの しょうざん、1889年(明治22年)5月2日 - 1976年(昭和51年)3月5日)は、日本の漆芸家[1][2]。熊本県出身[1][2]。本名は重人[1][2]。
人物
編集細川藩付の儒学者であった祖父[2]、小学校の校長であった父の長男として生まれる[2]。幼少時より細工に興味を持ち[2]、熊本の工業徒弟学校で漆芸を学んだ[2]。その後は京都市立美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)に入学し[2]、東京美術学校(現在の東京芸術大学)へ転校して同校を卒業する[1][2]。
東京美術学校では帝室技芸員の白山松哉から蒔絵の技術を習得し[1][2]、松山という号を授かった[1][2]。のちに細川護立の援助を得て、目白台の細川邸内に住み込んで「昼は殿様のボディーガード、夜間に制作」という生活を送りながら製作活動に挑む。
その後帝展などへの出品を重ね1955年(昭和30年)に蒔絵における人間国宝に認定され[1][2]、1957年(昭和32年)には、松山の作品が重要無形文化財に指定された[2]。