シュルギ
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2020年10月) |
シュルギ(Shulgi、在位:紀元前2094年頃 - 紀元前2047年頃)は、ウル第3王朝の王。教養豊かな王として知られ、48年間にわたる治世の間にウルは著しく発展した。名前は「高貴な青年」の意。
シュルギ | |
---|---|
ウルの王 | |
シュルギの名が刻まれた0.5ミナの錘 | |
在位 | 紀元前2094年頃 - 紀元前2047年頃 |
死去 |
紀元前2047年頃 |
配偶者 | シュルギシムティ |
子女 |
アマル・シン シュ・シン |
王朝 | ウル第3王朝 |
父親 | ウル・ナンム |
来歴
編集ウル第3王朝を建設した初代王ウル・ナンムの息子として生まれた。彼が幼少の頃、すでに高い地位にあった父ウル・ナンムに英才教育を施された。シュルギは書記学校に通いシュメール語とアッカド語の読み書きを覚え、5か国語を操ることができたという。シュルギは古代メソポタミアの王の中では後代のアッシリア王アッシュールバニパル等と並んで著作を残したと考えられる数少ない王の一人である。『シュルギ王讃歌』と呼ばれる彼が自らを称えて作らせた讃歌のうちの一つでは、彼は学校にいた時代、他の誰よりも成績が良かったことを誇っている。この王讃歌はその後メソポタミア社会で長く学校の教材として使われた。
行政改革
編集父ウル・ナンムが死去した後、彼は王位を継いでウル第3王朝の第2代王となった。彼は父がやり残した建築事業を継続して完成させるとともに、紀元前2077年頃までに王朝の官僚組織を整え常備軍を編成し、これまでにない厳格な文書行政を敷いた。この時期移行のウル第3王朝では、他の時代とは比較にならないほど膨大な量の行財政文書が残されている。こうした業績を元にシュルギはかつてのアッカド王朝の王たちのように「四方領域の王」を名乗り、自らを神とした。
こうした行政機構の整備を通じて、度量衡や楔形文字の表記方式などの統一が試みられ、暦の統一も志向された(ただし、暦については各都市で独自の暦が存続していたことが確認されており、どの程度の成果を収めたのかは定かではない)。定期的な検地が行われ、税収を大幅に増大させるとともに徴税方式を画一化して効率性を高めた。シュルギが構築した徴税制度は、中央の各州(シュメールとアッカド)はバラ(Bala)と呼ばれる税制の元に置かれ、交代制で穀物を納税した。一方、辺境州はグン・マダ(Gun ma-da)と呼ばれる税制の元に置かれ、これらの州は域内にある王領に対する小作料として税を納めた。
こうして各地から貢納として多量の家畜・農産物が送られてくるようになり、これらの処理のためにプズリシュ・ダガンと呼ばれる街が建設された。納められた物品は納入ごとに記載されるとともに年間の収支も記録され、財政バランスが検証されるようになった。
遠征
編集シュルギはまた軍人としても有能であり、北部メソポタミアやシリアに外征を繰り返した。北部メソポタミアへの遠征ではアルベラが征服され、アッシュール等も支配下に置かれた。さらにイラン高原方面への交易ルートにあたる都市を威圧して地元の有力者に自分の娘を嫁がせ、これを影響下に置いた。シリア地方ではその覇権は地中海岸の都市ビュブロスにまで及び、さらにアナトリア半島南東部でも戦った。当時この地方ではフルリ人が勢力を持っており、これを服属させるための戦争であったと考えられる。この戦いは長く、シュルギが没するまで断続的に続いた。
彼が死ぬと、王妃シュルギシムティらは殉死した。王妃の殉死はウル第3王朝に継続して続いたことが確認されている。そして息子のアマル・シンが跡を継いだ。
参考文献
編集- 小林登志子 『五〇〇〇年前の日常 シュメル人たちの物語』 新潮社〈新潮選書〉、2007年。
|
|
|