石抹 庫禄満(せきまつ くろくまん、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。

概要

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石抹庫禄満は早くから金朝を見限りモンゴル帝国に仕えた石抹エセンの子の石抹査剌の息子で、父が亡くなった後にその地位を継いだ。しかし、中統3年(1262年)に李璮の乱が起こると叛乱討伐のため出陣したが、その中で流れ矢に当たり戦死してしまった[1]

庫禄満の死後は息子の石抹良輔が跡を継ぎ、黒軍総管となった。至元17年(1280年)、昭毅大将軍・沿海副都元帥、至元21年(1284年)に沿海上副万戸の位を拝命していた。大徳11年(1307年)、老いを理由に引退し息子の石抹継祖が跡を継いでトゥメン(万人隊長)となった[2]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻152列伝39石抹阿辛伝,「子庫禄満襲職、従攻襄樊、与従弟度剌、立雲梯衝其堞、度剌死焉。中統三年、庫禄満従征李璮、先登、飛矢中額而卒」
  2. ^ 『元史』巻150列伝37石抹也先伝,「子庫禄満襲職。中統三年、従征李璮、中流矢卒。子良輔、襲黒軍総管、至元十七年、以功累陞昭毅大将軍・沿海副都元帥。二十一年、改沿海上副万戸。大徳十一年、告老。子継祖、襲万戸」

参考文献

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  • 愛宕松男「キタイ氏族制の起源とトーテミズム」『史林』38巻6号、1955年
  • 元史』巻150列伝37石抹也先伝、巻152列伝39石抹阿辛伝
  • 新元史』巻135列伝32石抹也先伝
  • 蒙兀児史記』巻49列伝31石抹也先伝