中村進治郎
中村 進治郎(なかむら しんじろう、1907年〈明治40年〉[1][2] - 1934年〈昭和9年〉11月15日[3][4])は、主に昭和初期に活動した日本の挿絵デザイナー。編集者。
なかむら しんじろう 中村 進治郎 | |
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「新青年」1932年10月号 | |
生誕 |
1907年 日本・神奈川県横浜市弥生町 |
死没 |
1934年11月15日(27歳没) 日本・東京府中野区 |
死因 | 自殺 |
遺体発見 | 東京府中野区 |
職業 | デザイナー 文筆家 編集者 |
時代 | 昭和初期 |
経歴
編集神奈川県横浜市弥生町(現在の横浜市中区弥生町[2])にて生まれる。吉田小学校を卒業後、逓信省横浜電信電話技師官駐在所に給仕として就職[2]。関東大震災後、活動弁士見習いなどを経て[2]、寄稿などしていた蒲田花形社に入社した[8]。
1928年(昭和3年)には博文館の『文藝倶楽部』掲載の菊池幽芳の『狂人』や川端康成の『花園の犠牲』の挿絵を「中村進」名義で描いた。1929年(昭和4年)には『新青年』で、おしゃれ欄「わ゙にてい・ふえいあ」(翌年「ヴォガンヴォグ」と改名)の担当を始め[1]、横浜貿易新報連載の清水孝祐(北林透馬の筆名)『波斯猫』の挿絵も描くようになった。続けて片田江全雄の『虹の橋を渡りて』、国木田虎雄の『海港の人形』、福田正夫の『炎の華環』の挿絵を担当した。1930年(昭和5年)には雑誌『蒲田』の編集を手伝うようになり、以降しばらく編集を手掛けながら『文學時代』などにも寄稿した。
1932年(昭和7年)交際中のムーランルージュ新宿座の歌手・高輪芳子と、自宅である四谷の新宿園アパートで心中事件を起こし、中村だけ助かったため承諾殺人として起訴されて世間を騒がせた[5][6][9]。数か月の未決監房生活を経て、懲役2年執行猶予3年の判決を受け[10]、出所後、再び売文業を再開して、心中事件をテーマに小説を書いたり、ムーランルージュで興行などもおこなったが、1934年(昭和9年)11月15日、東京府中野区のアパートで、睡眠薬の過剰摂取で死亡[4][11]。自殺とされる[1][4]。享年27歳。
脚注
編集参考文献
編集- 神奈川文学振興会 編『永遠に「新青年」なるもの -ミステリー・ファッション・スポーツ- 創刊101年記念展』神奈川近代文学館、2021年3月20日。 NCID BC07385003。
- 佐藤清彦『にっぽん心中考』青弓社、1998年11月30日。ISBN 978-4-7872-3157-4。
- 昭和ニュース事典編纂委員会、毎日コミュニケーションズ 編『昭和ニュース事典』 3巻、毎日コミュニケーションズ、1991年6月。ISBN 978-4-89563-154-9。
- 山下武『「新青年」をめぐる作家たち』筑摩書房、1996年5月24日。ISBN 978-4-480-82327-4。