岡田偆一
岡田 偆一(おかだ しゅんいち、1887年(明治20年)5月10日〈1886年生とも〉- 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。位階および勲等は従四位・勲三等。
生涯
編集広島県芦品郡駅家町大字服部本郷(現在の福山市)の屋号観音堂の、岡田馳次郎・アサの次男として生まれる。品治高等小学校2年を修了後、広島県第二中学校(後の誠之館)に入学する。 1904年(明治37年)、19歳の時に広島県立福山中学校(誠之館)を卒業する。 1907年(明治40年)、22歳の時に海軍兵学校を第35期生として卒業する。1909年(明治42年)、24歳の時に海軍大学を第16期生として卒業。
高松宮宣仁親王殿下付武官(侍従武官)や海軍軍令部参謀や課長を務める。1918年(大正7年)12月1日、33歳で駆逐艦の神風の艦長となる。1929年(昭和4年)、44歳の時に海軍大佐となる。1930年12月1日、45歳の時に軽巡洋艦の大井の艦長となる。その後、練習艦隊の磐手の艦長を務めた。1932年11月15日、47歳で、空母の加賀の艦長を務めた。1934年、49歳で海軍少将となり、横須賀鎮守府附となる。1934年、退役となる。その後日本特殊鋼株式会社の顧問を務めた。昭和18年12月24日卒去。享年56。戒名は廣濤院殿釈偆影藏王大居士で、院殿号および大居士は岡田家にとって初めてであった。墓所は青山霊園[1]。
人物
編集福山誠之館中学校時代には、試験中でもよくテニスをして遊んでいた。それでも成績が抜群であったので、友達が驚いていた。これは平常よく勉強していたためであった。
中学時代に自宅が大火災に罹った。福山から帰宅した偆一は「わりあいによく焼けたのう」と平然と語り、惜しむ色を見せなかったので、一同唖然として、「大人物の相か」とあきれた。
海軍少将に栄進した時、当時の服部村長の大元重太郎主催の挙村一致の一大歓迎会が、服部小学校で開催された。
熱烈な猿屋権現(熊野神社)の信仰者であったので、唐獅子一対を奉納している。
また有名な酒豪家であり、文武に通じ、漢詩・和歌・俳句が巧みであった。
以下がその作品で、著書の『欧米旅行感想録』より
[服部郷] 慈王山人
山秀向陽松柏蒼 川清貫邑注湖溏
人烟藹々彩田園 春夏麗園織部郷[2]
[故里の山川草木を眺めて]
故郷の山川草木春めきて
我を迎えつ 我を送りつ
[権現さんに詣でて]
氏子人旅安かれと祈りつつ
神の御前に額つきにけり
[ハワイの日本人の状況を見て]
常夏の国に移せしなでしこの
茂れるさまぞ めでたかりける
[逝去を悼む 戸手 平田良之助[3]]
うるわしく大和島根に咲きし花
さそうあらしぞ つれなかりける