井土周徳

江戸時代中期-後期の儒学者

井土 周徳(いど しゅうとく、寛延2年4月(1748年)- 寛政12年8月(1800年))は江戸時代中期-後期の儒学者(朱子学派)、教育者。(あざな)は子好。通称は左太夫。は南山[1]

経歴

編集

竹森代四郎の子として筑前国に生まれる。師の井土魯坰に男子が無かったため、その養嫡子となり、家学を紹述する[1]明和7年(1770年)魯坰が没し、家督を継いで藩儒となる[2]

安永6年(1777年)京都に1年遊学し、天明4年藩校修猷館が創立されるや、その教官となる。また、福岡藩黒田治之侍講として江戸に扈従し、江戸藩邸で講説した[2]

寛政3年(1791年)修猷館総受持(館長)竹田定良により、奥山弘道島村遜とともに、修猷館総受持助に任命され、定良の総受持職を3名で輪番で補佐することとなった[3]。寛政11年(1799年)総受持の学務を摂政した[2]

寛政12年(1800年)没、養嫡子の井土周磐が家督を継いだ[2]

出典

編集
  1. ^ a b 『福岡県先賢人名辞典』(文照堂書店、1933年)6頁
  2. ^ a b c d 笠井助治『近世藩校に於ける学統学派の研究 下』(吉川弘文館、1970年)1561頁
  3. ^ 『修猷館二百年史』(修猷館二百年記念事業委員会、1985年)30頁