君ヶ嶽 助三郎(きみがだけ すけさぶろう、1814年文化11年〉 - 1854年10月21日嘉永7年8月30日[1][2])は、浦風部屋及び境川部屋に所属した力士

経歴

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苗字は若林と伝わっている[1]が詳細は不明[3]。身長・体重とも不明[1]だが小兵だった[4]信濃国埴科郡東寺尾村[5](現在の長野県長野市松代町[4])出身。

最高位は東前頭筆頭。

半農半商だった若林伴蔵(若松屋)の子として生まれた[4]稲出川市右衛門(3代浦風)に見込まれ[4]1835年1月場所で初土俵(序ノ口)を踏んだ。1841年11月場所で西十両10枚目(十枚目格)に昇進[1]。翌1842年に3代境川の甲豊五郎の養子となった[5]が、十両時代は一進一退の相撲が続いた。1847年3月場所で5勝2敗1分の好成績を挙げ、翌11月場所で新入幕を果たした[1]。入幕後はやや勝ちが先行するようになり、1850年3月場所では6勝3敗1休の優勝次点(優勝相当成績は小柳常吉〈のち大関。この場所6勝0敗2休2分の成績だった〉)の好成績を挙げた[1]。翌1851年2月場所で松代藩抱えとなった[5]。小兵ながら、当時の大関・鏡山濱之助小結常山五良治を破ったこともあり、実力派の力士として活躍した[4]。現役中より4代境川を襲名し二枚鑑札となっていたが、それが寿命を縮める結果となり、現役中の1854年8月30日[2]に死去。享年41歳。墓は長野市松代町の西念寺[4]

幕内通算 14場所 50勝42敗21分22休の成績を残した。

改名歴なし[1]

香蝶楼豊国(歌川国貞)によって、帯刀をしている浮世絵が現存している[6]。また近年になって、地元のNPO法人を中心に君ヶ嶽の足跡を残す動きも活発になっている[7]

出典

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関連項目

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